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りんご

 そうとしか言いようがないくらい、僕たちはとてもよく「整っていた」。

 会話も、映画の趣味も――エンドロールが終わるまで席を立たないという流儀も、なにもかもがしっくりと合っていた。

 でもそれは、未来の確約ではなかったと知る。


 僕の人生に、君はいつだってぴったりと伴走してくれていたから、どこまでも走って行けると思ってた。たぶん君も。

「ごめんなさい」

 久しぶりに会ったのは、いつものようにどちらかの部屋、ではなく珍しいことに外だった。彼女がそう望んだから。

 静かな午前のカフェで、彼女は見たこともない程動揺し、赤い目をしていた。

「好きな人が出来たの」

 きっとここに来るまで何度も泣いたであろうと見て取れる形跡を色濃く残して、それでも彼女はきっぱりと僕の目を見て言う。

「別に何があった訳じゃないけれど、こんな気持ちのままあなたと付き合う訳にはいかない」

 実に、彼女らしい選択だと思った。言わないで相手を欺くことは、出来る人と出来ない人がいて、僕たちは同じ『出来ない方』に部類される。――仮に出来たとするならば、この先も付き合えただろうし、もしかしたら結婚もしたのかもしれない。でもそれは、僕らの好む流儀ではない。僕だってもし彼女以外に好きな人が出来てしまったら、同じ選択をすると思う。別れた後で、ひどく後悔すると分かっていても。


 関係を切られる側の僕は、突きつけられたこの別れを拒否したり、激高することだって出来た筈だった。

 けれど僕は「分かった」と静かに受け入れた。これまでの僕らの流儀に則って。

「あなたのことが、本当に好きだった」

「分かってるよ」

「なのに、こんなことになるなんて」

 泣けない僕の代わりに、ますます彼女は涙を流す。傍から見ればどちらが別れを切り出したのか分からないような状態になってしまった。

 ひどく泣いていてもやっぱり綺麗な彼女を前にしながら、こんな時にも自分は取り乱せないんだなあと、しみじみ思った。


 多分、今自分はとても傷付いている。悲しんでるし、彼女に負けず劣らず心の中は混乱もしている。けれど、一番大きい感情は驚きで、そのせいだろうか心はどこか痺れているように凪いでいた。

 でもそのおかげで、今にもまた泣き出しそうな彼女を宥め、店を出て、文字通りお別れすることが出来た。僕ららしく。


 小さくなっていく背中を少しだけ見つめてから踵を返し、僕も歩き出す。

 悪くない。誰も。僕も君も。

 だって、人の気持ちは、どうしようもない。

 ひどい言葉を浴びせなくてよかった。でも、寂しくないわけでも、傷付いていないわけでもない。彼女の側の僕への気持ちがただの情だったとしても、僕のそれはまだ愛だ。


 色々な気持ちが浮かんでは消えていく。


 そのカフェからうちまでは通り沿いに歩いて一五分程度、間にいくつか信号もあるけど、気が付いたらアパートの部屋の扉の前で鍵を開けていた。

 やっぱり動転しているんだなと他人事のように笑った。笑い声は、ひどくカサカサしていた。



 別れてからも僕の世界は変わることなく、順調に回っている。

 仕事はそこそこ忙しいものの、身体を壊す程ではない。時折、同期や友人と飲む機会があるけれど、深酒をすることもなく、むしろ年も考えずにハイペースで飲む友人を抑える係が大変なくらい。

 今までほぼ二人で過ごしていた週末は独り占めになった。うまい使い道はまだ思いつかずすることと言えば雑誌に目を通す程度で、優雅に暇を持て余している。

 元恋人のことを考えないようにするのはなかなか大変だった。思い出せば、また気持ちは生き返ってしまう。気晴らしに出掛けた先でも、彼女の好きそうなものばかりをアンテナが拾ってしまう。

 もう、その必要はないのだよと自分を諭しても、長年の習慣はなかなか抜けずに、いつまでも僕を困らせた。


 ある日、元恋人の真似をしてりんごを買ってみた。果物が好きな人だったから、彼女の部屋にもこちらの部屋にもいつも果物は切らさず、テーブルの上はいつもカラフルでいい匂いがしていたことを、スーパーの果物コーナーでふと思い出して。

 生活の中から完全に彼女の痕跡を排除することは不可能だったし、素敵だと思うことまで排斥する必要はない。そう思いつつ、りんごを一つ手に取った。


 でも、せっかく買い求めたりんごは、忙しさにかまけてすっかりその存在を僕に忘れられてしまって、気付けばしわしわになっていた。

 それを見てふいに「ああ、彼女とは終わってしまったのだ」と初めて実感が湧いた。今まで、見ないふりをしていた事実が、ずしりと胸に落ちる。


 こんな時、涙のひとつも零せるような人間だったら、彼女はまだ自分のそばにいてくれただろうか。


 そう思ってみたところで涙が流れることはなく、しわが寄り、すっかり暗い色になってしまったりんごを手に、僕は台所の片隅でただ立ち尽くしていた。


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