半透明の、帽子のおじさん
小さい時から、私にだけ見える存在。
その人が見えると気がついたのはいつだっただろうか。
『ママ、あのおじさん、またいるよ』
何もない空間を指差し、しきりに伝えようとする私に、見えない母はずいぶん困ったそうだ。それでも『何もいないでしょ!』などと頭ごなしに否定することはせず、『そうなんだ。おじさん、どんなかっこうをしているの?』と話に乗ってくれた。
『あのね、からだがすーってしててね』
『うん』
『ふわふわしててね』
『うん』
『おぼうしかぶってるの、みどりの』
『――ああ、そうなのね』
ここに至って、母はそのおじさんが誰なのか気づいたらしい。
私が生まれてすぐに亡くなった父は、いつもカーキ色のサファリハットを被っていたとのことだった。
以来、『おじさん』の存在を教えると最初は悲しそうに目を伏せていた母だけれど、毎日のように目撃報告をしているうちに『またか』と呆れ顔をするようになった。
それくらい、父は本当によく私の前に現れた。こちらが気付いていなかっただけで、もしかしたら『おはようからお休みまで』見つめられていたのかもしれない。
普通のお父さんなら会社に行っている時間、会社勤めをしていない父(もしかしたら夜に幽霊会社へ出勤していたかもしれないけれど)はそばにいてくれた。おかげで、なんだか心強かった。別に、いじめっこを霊力で金縛りにしてこらしめてやるとか、いじわるな先生をポルターガイストで怖がらせるとか、そういうのは一切なかったけど。
ごくごく幼いころは私がじっと見ていても平気だった。けど、幼稚園の年長組さんに上がったころから、目が合うと父は姿を消すようになっていた。だから、私はなるべくその存在に気づいても、気づいてませんよというふりをする(未だに)。
「シャイな人だから」
目が合うと消えてしまう理由がわからなくて母に相談すると、実にシンプルな答えが返ってきた。
「私と付き合う時だって、なかなか告白してくれなかったのよ」
だからこっちから押し切ってやったの、と誇らしげに云う母。それを、リビングの片隅で恥ずかしそうに聞いている半透明の父。じっと見てたら気付かれて、ドロンと消えてしまった。やれやれ。
ずっとそうして過ごしているうちに、半透明のおじさんだと思っていた人は半透明のお兄さんになり、今や半透明の青年として私の目に映る。なんてことはない、年を取らない父にこちらがどんどん追いついていっただけの話だ。そしてあと二年もすれば、私の方が年上になってしまう。
トレードマークの帽子は洒落者の証かと思いきや、母のタレコミによると『若ハゲ隠し』だったらしい。 被ってる方が、風通しが悪くてよっぽど地肌によろしくない気がするけど。でも、私はあの帽子姿は結構好き。もし心霊写真として写るなら、待ち受け画面にしてあげてもいいくらいだ。
女子高の教室のカーテンの影、IDカードがないと出入りできない職場のドアの内側。父は、いつも私のテリトリーのどこかでひそやかに存在する。時に居心地が悪そうに。時に、やさしく微笑んで。
声は聞こえないし、おしゃべりもできないけど。そもそも、目が合うと逃げられてしまうけど。
それでも、ずっと見守ってくれてたよね。ありがとね。
明日もちゃっかり会場にいてくれるんでしょう? 目が合っても消えないで。隅っこの方じゃなく、ちゃんとお母さんの横に立っていてよ。
できたら、そのよれよれの帽子はフォーマルな場にそぐわないから脱いでいて欲しいな。娘の結婚式なんだからね。ちゃんとしてよね、お父さん。