ベビーカー
薄気味の悪い話。恋愛要素ほっこり要素ゼロです。
一二月。いちばん日が暮れるのが早い頃の話だ。
渋滞している通り。その車列に、自身の車もあった。何とはなしに流していたラジオのトークはやや面白みに欠け、退屈を持て余していた私はあと五分もすれば夜に飲み込まれてしまうその寸前の空や、寒さとは無縁のような顔をして歩道で横に広がって歩く女子中学生の群れなどを眺めていた。
立ち並ぶ街灯のLEDの灯りは冴え冴えと白く、なにやら頼りなく思うのは偏見だろうか。
目をやった先で、凝った悪意が暗闇となって生まれ出でたように、灯りの途切れたあたりから突然女性の姿が現れた。そのように見えた自分の陳腐な発想を鼻で嗤う。通り沿いにある公園から歩道へ出てきただけなのだろう、きっと。なんでも怪奇に結び付けたくなるような暗さではあるけれど。
信号が青になる。しかし、ずらりと並ぶ列の後ろにあるこの車がすぐに動く事もなく、突然現れたように見えたその人の後ろ姿をまだ目で追っていた。どうやら若いお母さんらしい。ベビーカーを押し、私の車の進行方向と同じ方へ歩いていく背中。頑張って、とエールを送りつつ、何もしていないのに勝手に癒されたような気になった。
二つ前の車のブレーキランプがふっと消えたのを見て、自分もハンドブレーキを解除する。前の車に続いて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。歩道を歩くその女性を追い抜きざま、浮かんでいた笑顔を見て、何気なくベビーカーに目をやって。
ぞわりと、総毛立つのが分かった。
ベビーカーからは、成人女性の足が二本、くの字の形でにょっきりと飛び出していた。
のびやかな足はマネキンではないと、直感的にジャッジを下した。
赤子を乗せるためのその容れ物には、当然ながら大人の体を十分に収納できるスペースはない。すぐに目をそらしてしまったが、確かに手や頭、などは見えなかったように思えた。もっとも、暗さに加えて上の部分は幌に隠れていた為、はっきりとは認識出来なかったのだけれども。
にわかに鼓動が激しくなる。今見たばかりのものをもう一度確認したいという欲求が高まったものの、無理やりに気分を切り替え、前を見据えて運転に集中する。スムーズに走る車は、先ほど目撃した場所をもうミラーに映らぬほど遠くへ置き去りにしていた。しかし、ふたたび信号待ちになればいやでも思い出してしまう。
母親に見えた人は、確かに笑いかけていた。幌越しに、それに向かって。
そして私は、サイドミラーから彼女たちの姿が見えなくなるまで、ベビーカーに乗っていたものから寄せられる強烈な視線を、確かにずっと感じていた。
ベビーカーを押していた彼女は、あれに一体何を飼っているのだろう。赤の他人である私が知る手だては当然ない。早く忘れた方がよい事だ。きっと。じっとりかいてしまった嫌な汗と収まらない鳥肌が、そう告げていた。
以来、仕事や日々の忙しさに紛れて、忘れたふりは我ながらなかなか上手に出来ていると自負している。でも未だに、夜になる直前の道でベビーカーを押す人の姿を認めると、自然と目をそらしてしまう。きっと、一生直視出来ないだろう。
ベビーカーに乗っているのは、赤ちゃんばかりではないと知ってしまったから。
それをあの季節のあの時間帯は、また見えてしまう事もあるだろうから。