その4
「そういえば、まだ返してなかったな」
「何?」
「黒いレースの傘」
黒いレースの晴雨兼用の傘、確かに貸した記憶はある。
――ないよりマシでしょっ!暗いんだから、誰も気にしないわよっ!
春先の急な雷で、スポーツクラブのロビーには、人が溢れていた。
クラブの貸し出し用の傘は全部出払ってしまい、家族やタクシーの迎えを待つ人だらけだ。
あたしは車だし、お風呂に入ったばかりだとは言え、家に帰ればシャワーを浴びなおすことができる。
それより、車の中に何本か傘を持っていた筈。
バケツをひっくり返したような雨の中、駐車場を突っ切って車に乗せた傘を出して、ロビーに戻った。
歩いて帰るのに困っている人に貸してやってくれとスタッフに渡して、自分用の傘を広げようとした時、頭にスポーツバッグを乗せて走り出そうとした先輩が見えた。
――先輩、車じゃないの?
――近いから、歩いてきたんだ。大丈夫だ、十分とかかんないから。
まだ、ジャージの上に上着を羽織る時期だった。
そうだ、女物の小さな傘を先輩に無理に持たせた。
――それ、母から誕生日プレゼントに貰ったものだから、返してね。
――そんな大事なもの、貸してくれなくてもいいよ。持つの恥ずかしいし。
――それで先輩が風邪ひいたら、あたしは寝覚めが悪い。
押し問答の末、冒頭のセリフに至った。
――篠田だって車まで傘が必要だろう。
――車でヒーターつけるから、平気!
大雨の中、髪から雫を滴らせながら車のキーを開け、風邪をひいたのはあたしの方だった。
「篠田って、自分がこうしようと思うと、後先考えないだろ」
うん、そうかも知れない。って言うか、そう。
「女の子を雨の中走らせて、自分は傘持って帰ったんだぞ。しかも、レースの」
45センチの傘、黒とはいえレース。
自分が無理矢理貸したのに、それを差す熊の姿を、今頃想像した。
「笑うなよ。すれ違う人がみーんな俺の顔と傘見比べてるみたいで、すっげー恥ずかしかったんだから」
そう言いながら、原口先輩自身も笑ってるけど。
「今度、忘れないで持ってくる。あんな雨で、本当は走りたくなかったんだ。ありがとうな」
でもな、と続いたけど。
「自分が良いと思っても、自分の負担になるようなことはするなよな。相手が素直に喜べなくなるから」
「はーい」
良い子のお返事をしてみせる。
きっとまた、同じことをするんだけどね。