その5
ボクササイズのクラスが終わって、スタジオから通路に出たあたしの目に飛び込んできたのは、仁王立ちの熊。
疚しいことなんて何一つないのに、逃げ出したくなった。
別に怒った顔をしているわけでもないけど、目尻に皺は寄ってない。
「ロビーで待ってる」
あたしの身長に屈みもせず、筋肉の威圧感。
ねえ、やっぱり怒ってる?あたし、悪いことなんてしてないんだけど。
大急ぎでお風呂に入ってロビーに出ると、ラウンジじゃなくて外に出ようと言う。
それでも身の危険を感じないのは、この人が自分に害を為す人じゃないと信じられるからだ。
「あたし、別に話なんてないんだけどな」
「そんなに長くない。駐車場の隅っこで」
しぶしぶ一緒にフロントに鍵を返して外に出る。
「あれと、つきあってるの?」
あれってのは、柏倉(あくまでも敬称はない)のことだよね。
「つきあってないよ?もう、ふたりで会うこともないしね。この前で、多分最後」
駐車場の隅の縁石の上に座って、隣の縁石に座る先輩の顔を見る。
「ああいう真っ当なサラリーマン風がいいのか?」
「んー・・・こだわりはない。スーツ萌えでもないから」
率直に話せるのは、本当に疚しい所がない証拠なんだけど。
先輩の真剣な顔を見るのって、もしかしたら初めてかも知れない。
「あの日、ちゃんと帰ったのか」
帰ったけど、これに答える義務はあるんだろうか。
黙って顔を見ていたら、先輩は大きく溜息を一つ吐いた。
「・・・俺だけが決めてるんだから、仕方ないんだけどさあ」
そして大きな身体を折り曲げて、自分の両足首を掴んでみせた。
可愛らしい仕草と言えないこともないんだけど、この姿はどう見ても。
「ボリショイ大サーカス」
つい、口から出てしまった。
顔を上げた先輩と目が合う。
「熊の曲芸にしては、地味だね」
あたしって、この人には本当に遠慮会釈なしだよなあ。
「ちゃんと帰った。もう、ふたりだけで会うこともない。以上、他にコメントなし」
聞きたいのは、これだけなんでしょう?
何かあたし、悪いことしてるみたい。
でもね、先輩のつむじを見ながら気がついたことはあるんだよ。
待ち合わせ場所に先輩があらわれなければ、柏倉のアラのクローズアップは、もう少し後だったんだと思う。