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この世に存在させるための物語

書庫の整理の合間に、私は本を開いた。

「まさかあなたが10年もつなんて。本当に、先のことはわからないものですね」

「なあ。それもう5回は聞いたぞ。酔いすぎじゃないのか」


 バーカウンターに両肘をつけてシン・ズーシュエンは言う。隣に座る女の背筋はまっすぐで、一見すると酔っているようには見えなかった。


「あら、なにを根拠に私が酔っていると?」

「10年の付き合いだぞ、どんだけ顔に出なくてもわかってくるだろ」


 ふはは、と愉快そうに天口ユキは笑う。彼女に手にはショートカクテルが、シンの手にはウイスキーのグラスが握られていた。

 彼らのほかにも客はいたが、彼ら2人以外の客の顔は靄がかかったように認識できず、声もくぐもっており聞き取ることができない。客はグループごとに相互に認識不能であり、それこそがこの「Bar無貌」の店主の力であった。店主の容貌もまた認識不能であり、この力により結果的に、機構の消極的承認を得てこのバーは経営されている。


「いやはや本当にね、10年もつなんて思ってなかったんです。あなたは何かに所属することを、しがらみに縛られることを好まないように見えたから」

「どうだろうな…本心から今も好きじゃないんだとしても、抜け出すには時間が経ちすぎてるな。良くも悪くも」

「私は良いことだと思いますよ。今までスカウトした者たちはみな5年ともたなかった。私にとっては、あなたは一番の成功というわけです」


 天口は笑って、カクテルをあおった。

「いや、少々恥ずかしいことを言いましたかね」と横を見やると、シンが信じられないといった顔で彼女を凝視している。


「今までスカウトした者たち!?」

「あれ、言っていなかったでしょうか。まだ言わないようにしていたんでしたっけ…ま、10年目ですし、良いでしょう!」

「良いでしょうって…おいマジかよ」


 シンは参ったと言わんばかりに天を仰ぐ。

 そんなシンをみて天口はまた可笑しそうに笑っている。

 椅子の背にもたれながらシンは問う。


「なんで言わなかったんだ?」

「徒党を組んでいると思われたくなかったんです」


 天口は手に持つ空のショートグラスに目を向けている。


「私がスカウトした者同士で、連絡をとってほしくありませんでした。貴方たちにとっても、それは危険だった」


 シンは椅子の背にもたれるのを止め、真剣な目で天口に向き直る。


「何が危険だったんだ?誰に徒党を組んでいると思われたくなかった?」

「それは秘密です。それに、もう終わったことですから」


 天口はシンの目を見返し、にこやかに笑ってみせた。この場(Bar無貌)で話さないということは、少なくとも自分には話す気がないのだということを、シンは悟る。


「じゃあ今、俺以外に何人お前がスカウトしたやつがいるんだ?」

「言った通り貴方だけですよ。残ったのは」


 シンの怪訝そうな目線を感じ、天口は重ねて言う。


「接触させたくないわけではなく、本当に、貴方だけが残りました」

「…どうなった。そいつらは」


 彼女の様子をみるに、本当に良い記憶ではないことがわかったが、それでもシンは聞くことを抑えられなかった。

 天口ユキはマイナスの感情を顔に出さなかった。それでもシン・ズーシュエンには、彼女の中の抑えきれない悲哀が、手に取るようにわかった。


「聞きますか?寝たきりで意識の戻らない者、記憶を捨てて元の生活に戻ったもの…もちろん、死んだものもいます。スカウトした人間で、実質的に私のことを覚えているものは貴方を除いて一人も居ません。それでも、私は全員のことを憶えています。書き記しています。地下の冷たい黒曜石でなく、これに」


 そう言って彼女が取り出したのは、黒い表紙のノートブックだった。


「コロンシリーズか」

「違いますよ、あんなものではありません」


 天口はノートブックの背を愛おしそうに撫でる。


「10年経っても、まだ本の価値を見る癖が抜けていませんね?そもそも、コロンシリーズ自体、そこまで価値のあるものでもないでしょう」

「俺たちはコロンシリーズを守っているんだろ」

「…そうですね。ただ、正典だけが守られるべきものである…という考え方に、私は今も納得していません」


 天口は荷物から、ラッピングされた細長い箱を取り出す。


「渡したいものがあります」


 シンに手渡されたそれは適度な重みがあり、有り体に言えば、プレゼントのようだった。


「…開けていいか」

「ええ」


 ラッピングを剥がすと上質な木箱が現れる。一呼吸おいて、シンは蓋を開ける。


「これは…ペンか」

「良いものですよ。あなたのお眼鏡に敵うモノを選びました。」


 その言葉に、シンは苦笑した。


「お気遣いありがとうよ」


 シンはペンを手に取る。

 そのペンはシンプルながら、程よい重みも相まって、指に吸い付くように馴染んだ。

 シンはそのペンを目の高さまで掲げて、指で回し眺める。


「でも…気に入ったよ。価値とかじゃなく。不思議と手になじむ」

「そのペンで」


 同様にペンを眺める天口が、突然言葉を切る。シンがペンから目線を外して天口を見ると、天口と目があった。天口の唇は小さく開き、次の言葉を探しているようだった。まるで、言おうとしていないことを言いそうになったあとのように。

 彼女は一呼吸おくように目を瞑ると、もう一度シンの目を見る。


「そのペンで、記録をつけなさい」


 天口の手はノートブックに置かれている。


「何でもいい。日々の思ったこと、誰かとの会話、とりとめのないこと。できるならば、憶えていたいと思うこと。それが貴方を必ず、助けます」


 シンは少し気圧されたようだったが、素直に「…わかった」と返事をし、ペンを懐へしまう。

 天口は店主にカクテルをもう一杯頼むと、砕けた雰囲気を戻して言う。


「まあ、あなたをスカウトした上司からのアドバイスとでも思ってください」


 上司ではないだろ…とぼやくシンを横目に、天口はくつくつと笑いながら新しいグラスに口をつける。


 そのまま、強いアルコールと共に、言わなかったことを喉へ流し込んだ。


(文章に残すということは、とても貴いことです。あなたはそれを、私のあげたペンを通じて学ぶでしょう)


(その記録のなかに、私が、少しでも残ったなら…)

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