第16話「裏切りの火種」
辺境に静かな影が忍び寄っていた。
塩と硝の二つの宝を得た辺境は、かつてない繁栄を迎えようとしている。だが、それを快く思わぬ者が必ず現れる。――それは遠く王都から放たれた種であり、内部に芽吹く「裏切り」という名の火種だった。
小さな不満
ある日の会合。契り袋の集計を終えた後、年老いた農夫が手を挙げた。
「代官様……契りは公平だとわかっておりますが、わしらの畑仕事は袋に印が少なすぎます。塩や硝ばかりが印を得るのは、不公平ではありませんか?」
別の男も続く。
「そうだ! 俺たちは麦を育てているのに、収穫まで印が少ない。塩湖ばかりが優遇されている!」
ざわめきが広がる。イングリットが睨みつけるが、クラリスは手で制した。
「意見は大切です。……ならば“先の印”を与えましょう。農作業は収穫でしか成果が見えません。だから、段階ごとに印を刻む。種蒔き、水やり、除草――ひとつひとつが国を支える働きです」
人々は静まり、やがて頷いた。だが、その場にいた一人の若い男は陰で小さく笑っていた。
王都からの手
夜更け。湖畔の倉庫に忍び寄る影。
若い男は密かに袋を開き、羊皮紙を取り出す。そこには王太子派の印が押されていた。
『麦農を集めよ。塩と硝は貴族の贅沢にすぎぬ。民の糧を忘れた悪女に従うな』
男は羊皮紙を胸に抱き、囁いた。
「……殿下の言葉が真実だ。俺たちは塩より麦だ」
不穏な兆し
数日後。ユリウスが報告を持ってきた。
「麦農の一部が契りを怠っています。印が三つも欠けている。これは偶然ではありません」
クラリスは眉を寄せた。
「……火種が投げ込まれたのね」
イングリットが剣に手をかける。
「裏切り者を炙り出すか?」
「いいえ。剣を抜けば、殿下の思うつぼです」
クラリスは帳面を開き、新たな策を記した。
「“麦の祭り”を開きましょう。農の契りを国全体の祝祭にする。印の欠けは、人々の前で自然と明らかになります」
麦の祭り
三日後。湖畔の広場に麦の束が積まれ、子どもたちが歌をうたいながら踊った。パン職人が窯を開き、焼きたての香りが漂う。
クラリスは壇に立ち、声を張った。
「麦は命の糧。塩や硝と同じく、国を支える宝です。――今日はその働きを讃える日とします!」
群衆が歓声を上げ、契り袋が掲げられる。だが一部の袋は明らかに印が少なく、周囲の視線を集めた。
不満を漏らしていた若い男が顔を赤らめ、群衆から後ずさる。
クラリスは彼を責めず、静かに言った。
「印が欠けるのは恥ではありません。働きを重ねれば、袋はまた満ちるのです」
その寛容な言葉に、群衆はざわめき、やがて大きな拍手が起こった。
闇の報せ
だが夜。捕らえられた密使が口を割った。
「……俺たちは王太子派の手先だ。辺境を分裂させ、内から崩せと命じられた……」
イングリットが顔をしかめる。
「やはり殿下の仕業か」
クラリスは瞳を閉じ、ゆっくりと開いた。
「裏切りの火種は見えました。――ならば、もう燃え広がることはありません」
彼女は契り袋を胸に抱き、誓った。
「剣でなく心を守る。それが、この国の最も強い盾になる」
迫る嵐
その頃、王都の王太子は報告を受け、怒りに震えていた。
「祭りで逆に結束を強めた、だと……!」
彼の瞳は狂気を帯び、次の命を下す。
「ならば、辺境そのものを焼き払え。――軍を動かす!」
黄金の湖に映る月は赤く染まり、迫る嵐を告げていた。