第13話「軍靴の影」
帰還から十日。辺境の空気は喜びに包まれていた。
塩湖の八升区画は増設され、契り袋の数は日に日に膨らんでいる。王都で「王印」を授けられた塩は、もはや誰も疑わない価値となり、隣領や近隣の商人が次々に取引を求めて訪れていた。
だが、その繁栄の影で、不穏な気配が近づいていた。
不吉な報せ
ある夕刻、イングリットが血相を変えて駆け込む。
「クラリス様! 王都から急報。王太子派の兵が辺境街道に展開しているとのことです!」
ユリウスが帳面をめくりながら険しい表情を浮かべた。
「……やはり来たか。王太子は“辺境直轄領”を認めない。兵力で圧をかけ、塩湖を奪おうとしている」
ドミトリが拳を握る。
「奴らが来るなら、迎え撃つまで。ここは俺たちの“国”だ!」
クラリスは深く息を吸い、静かに告げた。
「剣は抜かない。――けれど、守るための“型”をつくらなければ」
防衛会議
湖畔の会合所に人々が集まった。武装できる傭兵団、夜警を務める村人、商人、そして子どもを抱えた母たちまで。
クラリスは板図を広げ、道と湖を示す。
「王太子派の兵が来るのは時間の問題です。数はおそらく五百。こちらは百五十。数で勝つことはできません。――けれど、守るべきは“数”ではなく“湖”です」
ユリウスが続ける。
「八升区画を盾にします。堰を閉じれば道は泥に沈み、馬も兵も動けない。湖岸の灯りを増やし、敵の足を混乱させる」
フェンが旗を握りしめる。
「風向きは俺が読む。灰を撒けば敵は咳き込み、突撃できない」
イングリットは頷き、鋭く言い放つ。
「子どもや非戦闘員は学び舎に避難。剣を抜くのは最終手段。まずは“剣を抜かずに退ける”」
クラリスは人々を見渡し、宣言した。
「――これが“辺境防衛の誓い”です。数では劣っても、知恵と契りで守り抜く!」
軍靴の足音
数日後、地平に砂煙が立った。王太子派の旗を掲げた軍列が、辺境街道を進んでくる。鎧のきらめき、槍の林立――まさしく正規軍の威容だった。
村人たちは息を呑むが、逃げる者はいなかった。契り袋を胸に抱き、固く立ち尽くす。
ドミトリが剣を抜きかけたが、クラリスが首を振る。
「まだです。――剣を抜くのは最後の一瞬だけ」
交渉の幕開け
先頭に立つのは王太子の側近、冷徹な将校ハーゲン。彼は馬上から声を張った。
「辺境代官クラリス! その地は王太子殿下の領土である! 直ちに塩湖を明け渡せ!」
クラリスは湖畔の高台に立ち、風に髪を揺らしながら答える。
「ここは国王陛下の命により、直轄領と定められました。私はその代官です。――王命を覆すおつもりですか?」
ざわめきが広がり、兵たちの間に動揺が走る。
ハーゲンの顔が歪んだ。
「戯言を! 王太子こそ次代の王である!」
クラリスは一歩も退かず、声を張った。
「では問います! 次代の王が“民を飢えさせる王”でよいのですか!?」
その言葉に、辺境の民が一斉に契り袋を掲げた。無数の袋が風にはためき、ざわめきが波紋のように広がる。
緊張の中で
ハーゲンが剣を抜いた。兵たちの足音が一歩前へ揃う。
その瞬間、ユリウスが合図し、堰が閉じられた。湖水があふれ、街道は瞬く間に泥に沈む。馬が嘶き、兵が慌てて体勢を崩す。
フェンが走り、旗を振った。
「西風強! 灰を撒け!」
灰が風に舞い、敵陣を包む。咳き込み、混乱が広がる。
剣を抜かずに、辺境は敵を止めた。
王太子の影
その報せは、すぐに王都へ届いた。
王太子アレクシスは玉座の間で拳を握りしめ、怒りをあらわにする。
「……あの女が、私を嘲るのか!」
だが側近の貴族が冷静に進言した。
「殿下。力押しは危うい。辺境塩はすでに“王印”を得ています。武力で奪えば、陛下の逆鱗に触れましょう」
王太子の瞳に狂気が宿る。
「ならば――闇を使え。暗殺でも、裏切りでもよい。あの女を消せ!」
辺境の夜
その夜、塩湖の空には満月が浮かんでいた。
クラリスは湖畔に立ち、波に映る光を見つめる。
「剣を抜かずに守れた……。けれど、これは始まりにすぎない」
イングリットが横に立ち、低く告げる。
「殿下は必ず次を仕掛けてきます。――剣ではなく、もっと汚い手で」
クラリスは静かに頷いた。
「いいでしょう。ならばこちらも、“国”として応えましょう。民と契りがある限り、闇に屈しはしない」
湖面の黄金の輝きは、嵐の予兆のように揺れていた。