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第1話「断罪の間で、扉が開く」

 鏡のように磨かれた白大理石の床に、王家の紋章が金糸で編まれた赤い絨毯が走っている。天窓から射す午下がりの光が、長い長い影を引いた。軽やかな音楽は途中で断ち切られ、代わりに礼拝堂じみた沈黙が広間を支配する。

 王太子アレクシスは玉座の階段の半ばに立ち、青い外套を翻した。硬い声音が広間に落ちる。


「侯爵令嬢クラリス・アーデルハイト。そなたとの婚約を、ここに破棄する」


 ざわめき。扇の影で笑う者、目を伏せる者、口元を押さえる侍女。クラリスは一歩前へ進み、礼を取る。背筋は澄んだ弦のようにぴんと張っていた。心臓の鼓動は早い。だが、震えは唇の内側で止めた。


「理由をうかがってもよろしいでしょうか、殿下」


「嫉妬深く、醜悪な振る舞いで、王太子妃にふさわしくない。無辜の子女を陥れた証拠も上がっている」


 証拠。用意されているに決まっている。今日の舞踏会が「慈善の夜会」から「断罪の劇場」に衣替えすることなど、一週間前から水面下の噂で知っていた。

 壇の脇で、栗毛の少女が怯えたふりをして肩を震わせる。男爵令嬢ミレイユ――いつのまにか「王太子の庇護を受ける健気な娘」として持ち上げられ、社交界の話題をさらっている子。彼女の傍らには、侍従長が差し出す羊皮紙がある。魔術封蝋付きの“証”だ。


 クラリスは羊皮紙を受け取り、封蝋を指先でなぞった。王宮魔術院の印。完璧だ。完璧すぎて、逆に作り物の匂いがする。

 封を切り、さらりと目を走らせる。貴族学校での嫌がらせ、寄付金の着服、侍女への暴力。すべて彼女がやったことになっている。書体は統一、証言者名も整然。整いすぎている。


「よく整えられた書面でございますね」


 皮肉など乗せない。見解を述べただけだ。

 王太子の眉がわずかに動く。背後に控える宰相が目配せをよこす。――分かっている、これは政治の段取り。侯爵家アーデルハイトの影響力を削ぐための、舞台装置。


 父――アーデルハイト侯は、列席を許されていない。王都に呼び寄せる名目で、遠くの視察へ出ている。宰相派の手回しは見事だった。

 クラリスは書面を返し、静かに膝を折る。


「陛下の御名代としての殿下のご決断、拝受いたします」


 その瞬間、広間の一角で小さく息を呑む音がした。隣国からの留学生であり王立学院の同輩、黒髪の青年が立っていた。銀の胸甲、右肩には見慣れぬ紋章。――誰だろう、と視線が交差する。彼はほんの僅かに首を横に振った。止まれ、という合図に見えた。


「ただし、一つだけ、お許しを」


 王太子が顎を上げる。「申せ」


「私に与えられるはずだった王太子妃としての持参金と収入地、すべてを放棄いたします。その代わり、母系より伝わる辺境の塩湖と、その周辺三村の直轄を願います。追放の身として、辺境にて静かに暮らしたく存じます。王都には二度と戻りません」


 広間がどよめいた。

 宰相の目が鋭く細まる。彼らは、クラリスが王都にしがみつき、少しでも名誉挽回を願うような哀れな姿を思い描いていたに違いない。だが、彼女は自ら扉を選び、外へ出ようとしている。

 王太子は逡巡した。だが、断罪の場で寛大さを示すのは彼の得点になる。なにより、辺境の塩湖など――そう、彼らは「干上がりかけた不毛の地」だと信じている。


「よかろう。塩湖と三村、王命をもって与える。そなたは本日限りで王都から退去せよ」


「ありがたき幸い」


 クラリスが頭を垂れると、ミレイユが震える声で言った。


「こ、こわかった……。殿下、わたくし……」


「ミレイユ、もう大丈夫だ」


 王太子は彼女を抱き寄せる。優雅な抱擁。拍手が起こる。劇は幕を閉じた――ように見えた。

 クラリスは最後に一度だけ広間を見渡す。幼いころからの友人たちは、扇の陰に隠れて目を逸らしていた。ひとりだけ、視線をそらさない者がいた。王国騎士団の若き隊長、レオン・バルツァー。氷色の瞳が、あからさまに苛立ちを湛えて彼女を追う。


 控えの間へ下がると、侍女長のマリナが待っていた。

「お嬢様……!」


「泣かないで、マリナ。目が腫れると、道中の塵が入ったときに痛むわ」


 冗談めかして言うと、マリナはぐっと口を結ぶ。雇い入れて八年になる。彼女の頼もしさなくして、今日まで淑女としての仮面を維持できたかどうか。

 壁際の机に置かれたトランクは、昨夜のうちに詰め終えたもの。学術書、家計簿、古い地図、母が残した小箱。扉が開き、先ほどの黒髪の青年が入ってきた。


「はじめまして、クラリス嬢。私はユリウス・ハイン。〈異邦研究院〉――いや、こちらでは『外来学派』と言ったほうが通じますか。今日の芝居、乱暴ですね」


「お招きした覚えはありませんが」


「私も勝手に足が動いたのです。あなたが最後に願った“塩湖”、あれは、手放しでは笑えない賭けだ」


 クラリスは目を細める。

「あなたは、あの塩湖をご存じなの?」


「この半年、王国地誌を読みあさりました。昔の記録に、塩と一緒に“砂の下の金”という奇妙な言葉がある」


 砂の下の金。

 クラリスの奥歯が音もなく噛み合わさる。――母の遺した手帳に、似た記述があった。『雨のない年ほど、湖は黄金に近づく』。

 彼は続ける。


「あなたがこんな結末を選ぶなら、同行させてください。私には、あなたが必要だ」


「どうして?」


「あなたの家計簿、見事でした。王立学院で誰も気づいていない“数字の魔法”を使っている。……いや、魔法ではない。合理――あなたの言葉で言えば、現代知識。私はそれを、異世界から流れついた人間が持つ“記憶”だと考えている」


 クラリスは一歩近づき、ユリウスの胸元の紋章に目を留める。見慣れぬ幾何学の印――この世界にない形。

「あなたも……外から来たのかしら」


「問いに答える前に、あなたの問いに一つだけ質問で返させてください。――あなたは『奪われることに慣れた顔』をしている。今日だけではない。ずっと、少しずつ削られてきたのでは?」


 クラリスは笑ってみせた。

「ええ。だからもう、削るところが残っていないの」


 その時、廊下の向こうから陽光が差し、誰かの影が伸びた。レオン・バルツァーだ。誰もいないのを確かめ、早足で入ってくる。


「クラリス嬢。……不躾だが、単刀直入に言う。今日の断罪には不正がある。騎士団の内部にも、宰相派の手が回っていた。誰が敵で誰が味方か、私にもまだ見えない。だが――」


「ご忠告、感謝します。けれど私は、王都を出ます」


「出るのは勝手だが、護衛がいる。私の部下を――」


「要りません」


 レオンは言葉を飲み込んだ。氷の瞳が、熱に揺れる。

「なるほど。王都にしがみつく人間の目ではない。……私は職務上、あなたにこれ以上肩入れはできない。だが、道を選び直すことはできる。必要なら呼べ」


 彼は短い革紐に通した小さな指笛を差し出した。王国北境の遊牧民が使う、護衛の符。

「鳴らせば、三日以内に私が行く」


 クラリスは受け取り、袖の内側に隠した。背を向けるレオンの歩幅は大きい。去り際、ほんの少しだけ肩が落ちた――それが彼の誠実さの重みなのだと、彼女は思う。


 夕刻。王都の外れ、辻馬車の停車場。

 クラリスは荷台に乗り、最後に一度だけ城壁を振り返った。白い塔が陽に光る。あれは檻だ、とようやく言語化できた。

「行きましょう、マリナ」


「はい、お嬢様」


 御者台がきしみ、馬が歩き出す。街道を抜ければ、麦畑が波立ち、やがて森が連なる。旅は長い。だが、その長さは救いだ。考える時間が与えられるから。

 彼女は膝の上で、母の小箱を開けた。薄い手記。擦れた革表紙。そこに、小さな折り図が挟まっている。

 ――“黄金の大地”。

 幼いころ、母は冬の居間でこの言葉を笑いながら口にした。祖先の誰かが、塩湖の南に広がる砂礫地をそう呼んだのだという。「春の風が来るたびに、地面が光ってね。まるで誰かが砂の下で灯りをともしたみたいだった」と。

 クラリスは、指で文字をなぞる。

 黄金は、貨幣だけを意味しない。豊穣、技術、信用、秩序――“人が安心して眠れる夜”の総名が、黄金なのだ。


 夜。宿場町の板間の部屋。窓の外で風鈴が鳴る。マリナは疲れて早くに眠った。ユリウスは蝋燭の灯りで図面を広げている。

「塩湖の周囲は、年々干上がりが進んでいる。もし本当に“砂の下の金”があるなら、地表の変化と連動しているはずだ」


「地下水脈。あるいは、塩を生む層の下に別の鉱層。……金色は、比喩かもしれない」


「あなたはどちらだと思う?」


「どちらでも、使い道はあるわ」


 ユリウスが微笑む。

「やはり、あなたは面白い」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 クラリスは羽根ペンを取り、紙に書きつけ始めた。

 ――初動計画。

 一、住民との契約更新。年貢の方法を“物納から貨幣・労役の選択制”へ。

 二、水と塩の管理。塩湖の堤防点検と簡易蒸留器の導入。

 三、冬越し費用の積立。飢饉対応の共同倉。

 四、治安の骨格。自警団の整備と、夜間見回りの交代制。

 五、読み書き算術の学び舎。次の春までに、子どもたちに計算を教える。

 六、交易路の設計。塩と干し肉、皮革、薬草。まずは隣の小領から。

 七、魔道具――灯り、ポンプ、測量器。可能な範囲から量産。


 紙に走るペン先が、部屋の静けさを細かく刻む。

 クラリスの中で、王都で身につけた淑女の作法が音もなく剝がれていく。残るのは、もっと古く、もっと頑丈な骨組み。――生き延びるための、理と工夫。

 扉が小さく叩かれた。宿の少年が、夜更けの手紙を持って立っている。封蝋は見知らぬ紋。開くと、簡潔な文。


『北境の古図に“黄金の大地”の注解あり。王立学院図書塔・禁書庫四段、索引記号A-Ω-13。閲覧は王命か宰相承認を要す』


 差出人は記されていない。だが、誰かが見ている。助けようとしているのか、罠か。

 クラリスは手紙を火にくべ、完全に灰になるまで見届けた。


「明日からは馬を一台増やしましょう。荷を減らす代わりに、移動速度を上げたい」


「はい」


「ユリウス。あなたは塩湖へ着いたら、最初に何を見たい?」


「水の味。……そして、風の向き」


「いいわね。私は、人の顔を見たい。そこに、希望が残っているかどうか」


 窓の外で、砂を含んだ風が一度だけうなり、静まった。

 クラリスは指笛を袖から取り出し、月明かりにかざしてみる。吹く気はない。けれど、音のない約束があるというだけで、心が少し軽くなる。

 彼女は灯りを落とし、目を閉じた。瞼の裏で、塩湖は黄金色に揺れ、誰かが砂の下で灯りをともす。

 ――その灯りを、今度は自分の手で、地上に引き上げるのだ。


 夜が明ける。

 旅立ちの朝は、冷たい。だが、冷たさは目を覚ましてくれる。

 御者台に腰かけ、クラリスは空気の匂いを嗅ぐ。乾いた草、遠いところで焚かれる薪の匂い。

「行こう、黄金の大地へ」


 馬が前脚で土を掻き、車輪が回る。

 王都は、もう背後の霞の中だ。

 追放という名の扉は、確かに閉じられた。

 だが、その向こうに、もう一つの扉の気配がある。

 ――辺境で最強の国家を作る。

 宣誓の言葉は声にならないが、胸の中心で、硬く、静かに鳴り続けていた。

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