悔恨
カウンター席しかないバーで、オカルト好きの常連客3人がアポカリプティックサウンドの真偽について議論していたが、議論が尽きたのか、次第に口数が少なくなってきた。
そんな時、常連客の一人、40代くらいの身なりの良いスーツ姿で、皆から「先生」と呼ばれる男が、店の女性マスターに「今日は元気がないようですが、大丈夫ですか」と訊いた。
するとマスターは、今までの人生での後悔が唐突に思い出されて苦しくなり、昨夜はあまり眠れなかったという。今の私は幸せだと思っているはずなのに、なぜなんだろうと途方に暮れたように呟いた。
「それは誰にでもあることです。『後悔先に立たず』とも言いますし、あまり気にしない方がいいのでは」
先生がそう言うが、マスターは表情を変えずにフッと溜息をついた。
「先生も、後悔していることってありますか」
そうマスターに訊かれた先生は、迷わず頷いた。
「もちろんです。よければ、私の人生最大の『後悔』の話を聞いていただけますか」
昔、私が若かりし頃に就職した会社でのことです。入社してすぐに、山奥の研修施設で研修が行われました。
その施設は元々、隔離患者専門の病院だったのですが、いつしか廃院となり、その跡地を会社が買い取り、研修施設としたものでした。
その研修施設がある場所は、周りを深い森に覆われていて、施設以外の建物は他にはなく、携帯電話の電波も届かないような辺鄙な場所でした。
さらに、そこはテレビもなかったため、研修以外の空いた時間は何もすることがなく、皆が暇を持て余していました。
研修に来ていたのは、男4人、女2人の計6人。
皆が集まって雑談をしていると、次第にそれぞれが怖い話を始めたのは、暇を持て余した若者にとっては自然な流れだったように思います。
そのうち、一人の男性が、その研修施設には地下室があるが立ち入り禁止になっていると言い出しました。
元々この施設が病院であったことは皆が知っていたため、その地下室には何かが出るのではないかと面白がり、肝試しに行こうという話になりました。
皆、退屈な研修が続く中で、刺激を求めていたのかもしれません。
地下室があるという場所へ行ってみると、地下室へと通じる階段には、「立ち入り禁止」と書かれた札がぶら下げられたロープが張られていました。
私たちはそれを潜り抜け、地下へと降りていくと、階段を下りてすぐの場所に両開きの鉄製の扉がありました。
その扉は表面には錆が浮いていて、長いこと使われていないように感じられました。
ただ、よく見てみると、扉と扉の間には少し隙間があって、扉は完全には閉まっていないようです。
先頭にいた男性に、すぐ後ろにいた女性が扉を開けるように促しますが、男性は躊躇していました。
女性がしつこく開けるように迫ると、「ならお前が開けてみろよ」と男性は女性に言いました。
女性が「私は嫌よ。誰か開けられる人いない」と皆に訊きましたが、誰も自身が開けると名乗り出る者はいませんでした。
私も皆と同様に、開けると言い出すことが出来ずにいました。
もちろん、その扉の先に何があるのか見たいという強い欲求は感じていました。
ただ、それ以上にどうしようもないくらいの恐怖も感じていました。
扉の先にはなにか恐ろしいものがいる、そういった漠然とした思いでしたが、それは圧倒的な恐怖として皆を呪縛したのです。
結局誰も扉を開けることはなく、皆は黙ってその場を立ち去りました。
その後は、地下室のことが話題に出ることもなく研修は無事に終わり、私たちは研修施設を後にしました。
私は後になって、あの時扉を開けなかったことを激しく後悔しました。
なぜなら、その後、研修施設を利用した人が、あの地下室で身の毛もよだつような恐ろしい目にあったという噂を度々聞いたからです。
そして数年後には、会社が研修施設を他に移転したため、その研修施設自体がなくなってしまいました。
私は、とんでもなく貴重な体験ができる機会を逃してしまったのではないか、そう思うと今でもそのことを後悔しています。
ただ、その後悔の思いが引き金となり、今私は自分で言うのもなんですが、立派なオカルトマニアになり、こうしてオカルト話をここで語り合って充実した毎日を送っています。
私は思うのです。後悔のない人生などないと。そして人は二度と同じ後悔をしないために、後悔するのだと思います。
だから後悔とは、最後には人生における思い出の一つでしかないのではと思っています。
マスターは、先生の話を聞いて、真剣な顔をして考え込んでいる。
すると、常連の中で一番若い、皆から「坊ちゃん」と呼ばれる男も珍しく真面目な顔で話し始めた。
「大学生のときに友達の家で飲み会をしたとき、飲み過ぎておねしょをしちゃって、そのことを大学で他の友達に広められたときは死ぬほど恥ずかしかったし後悔もした。
でも今となっては笑い話で、当時の友人たちと飲むと『今日はオネショするなよ』『大丈夫、オムツ着けてきた』は定番のやり取りですよ」
坊ちゃんの話を聞いて皆が苦笑を浮かべていると、次は常連客の一人、派手な赤色の服を着けた年齢不詳で皆から「ミセス」と呼ばれる女も話し始めた。
「私の後悔は、学生時代に付き合っていた男と別れたことかな。付き合ってみたらつまらない男だったから私から振ったんだけど、そいつ、今では都内に数店舗を持つ飲食店のオーナーになっていた。ほんと失敗したと思った」
ミセスはそう言うと、フッと薄く笑った。
「でも先日、街中を歩いているときに偶然バッタリとその男にあったの。昔はシュッとしたイイ男だったんだけど、今は酒樽みたいな体形になっていて見る影もなかった。いくらお金持ちでもあれはちょっとね。やっぱり別れておいて良かったと思ったわ」
マスターは皆の話を聞くと、いつも店で見せる営業用ではない素と思われる柔らかい笑顔を見せた。
「皆さん、ありがとうございます。そうですよね、誰でも一つや二つの後悔を抱えて生きているものですよね。あまり悩まないようにします」
ミセスは頷きながら坊ちゃんを見た。
「でも、坊ちゃんのオネショの話はちょっと悩んだ方がいいと思うけど。さすがにちょっとヤバいでしょ」
坊ちゃんは不満そうに顔をしかめた。
「えー、どっちかというとヤバいのは先生じゃない。だって人生で一番後悔したのがそれって……」
「たしかに言われてみるとそうかも。先生らしいなとは思うけど」
皆の視線が先生に集まるが、先生は至って動じた様子はなかった。
「大丈夫です。私は私自身がヤバいって自覚はありますので。ところで先日聞いたある事故物件の話でもしましょうか。これがなかなかで」
いつも通りとなったマスターを囲んで、今日もこのバーはオカルト話で盛り上がって夜が更けていく。