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【祝】節度節度ってわたくしから距離を置いていますけれど、そろそろ宜しいのではなくて?【コミカライズ】

作者: 葵ふたば



王族は節度ある交際をしなければならない


というのは、この国の第一王子であるアドリアン王子の座右の銘のようなものだ。

王家の教育方針を学ぶうえで真っ先に、かつ、幾度も繰り返し刷り込まれたこの思想は、王子にとって決して無視できぬものなのだ。


たとえ相手が、既に婚約が内定している令嬢であっても例外ではない。

節度を重んじ、節度を尊ぶ。

ゆえにアドリアン王子は婚約者であるリーディエ嬢と、手を繋いだことはおろか、二人で城下にお忍びデートなどといった甘酸っぱい体験すらしたことはない。

むしろ節度を重んじるあまり、婚約者らしい距離感すら見失っているのが現状であった。




これは今から数年前の話。

アドリアン王子10歳、リーディエ嬢9歳の思い出。


父親に連れられて王城の離宮を訪ねたリーディエは、本日三回目となる婚約者との逢瀬にようやく慣れてきたところだった。

父であるブライトネス侯爵の同伴は離宮の入り口までで、「少し仕事をしてくるからね」というお決まりの文句と共に繋いでいた手が離される。

それから離宮に仕える侍女と護衛騎士に挟まれるようにして案内を受け、天気の良い日はガーデンテーブルで、天気の悪い日は客室で座って殿下の訪れを待つ。

従者と護衛騎士に囲まれるようにして登場する殿下に、立ち上がって淑女の礼をとる。

これが、まだ幼い二人の『デート』のはじめ方だ。


小一時間で侯爵が迎えにくるため、それまで他愛もない話をしながら時間を潰す。

時には庭を散策し、時には殿下の持つ蔵書などを拝見し、時には好きな食べ物の話をし。

そうして時間になると、殿下は立ち上がり「送ろう」とリーディエを離宮の入り口までエスコートして、別れの挨拶を交わす。


その日、そんな『いつもの』を崩したのは、お茶を飲む二人の元へ、リーディエ嬢の迎えが来たと従者が告げた時のこと。

いつものように先に立ち上がった殿下は、リーディエを見据えてこう言い放った。


「きみとはしばらく会いたくない」


リーディエはその時はじめて、空気が凍るとはこういう事を言うんだなぁと冷静に思ったものだ。

殿下の従者は勿論、リーディエの侍女、部屋の護衛騎士に至るまで、皆が息をのみ顔色悪く立ち竦んだ。

真っ先に立ち直ったのは殿下の従者だったが、彼がアドリアン王子を諫める声を聞きながら、リーディエは美しい淑女の礼で以て殿下の要求に応えることとした。


「仰せのままに、殿下」


何が気に入らなかったのかはわからないが、エスコートする気はあったらしく、それからはいつもの通りに離宮の入り口まで殿下と連れ添って歩く。

付き添いの大人たちが何か言いたそうにこちらを窺う視線を頭上に受けながら、リーディエはいつものように扉の前で別れの挨拶と淑女の礼をした。


それから帰りの馬車のなかで父に殿下からの言葉を報告すると、普段はこれでもかと表情筋を凍らせている父が、顔を引き攣らせながら歪に微笑んだ。


「会いたくない…だと?リーディエ、お前は殿下の行動や言葉をどう思う」

「そうですね……『しばらく』の具体的な期間を告げられておりませんし、再来月の殿下の生誕祭に、どなたをエスコートなさるのか見届けたいと思います」

「ああ…そういえばそのような催しがあったな。なるほど、そこで別の娘をエスコートしたいから、あのような言葉を発したとお前は思うのだな?」

「いえ……」

「リーディエ?」

「きっと殿下は、本当にわたくしに会いたくないだけです」


怪訝そうな顔をした父は、少し思案してから「さして会話をもったことのない私より、お前の方が殿下の機微には詳しかろう」とこの一件の判断をリーディエに託した。



それから一ヶ月後、侯爵家には、生誕祭の招待状とともにリーディエ用のドレスが殿下の名義で贈られてきた。


「あの小僧……私的に会うのは嫌だが、公的には役目を果たせということか?リーディエ、必要ならば王にご忠言を…」

「いえ、お父さま。生誕祭に参加しないと返事を送る許可をくださいませ。ドレスも返納しようと思います」

「……お前と殿下が交わした『会わない』という口約束はあくまで内々におこなわれたものだ。理由もなく公的な祝事を欠席することは無礼にあたる」

「ではわたくしは『殿下からのお言葉に心を痛めたため、領地にて療養中』としましょう」


いざというときにその言い訳を使うため、この一ヶ月間リーディエは殆ど屋敷から出なかった。もともと貴族の娘は家で大事に囲われて育つものだ。屋敷の奥に引っ込んでいれば、存外ひと目には晒されない。


絶対に行かない。という意思を汲み取ったのか、父は嫌味ったらしい至極丁寧な言葉で手紙をしたため殿下に送った。もちろんドレスも返納した。

そして数日後、王宮に呼び出された父と母は王妃殿下直々に謝罪を受けたのだという。


そしてリーディエは王妃殿下の謝罪を受け入れるという意思表示のためにアドリアン王子の11歳の生誕祭に参加したものの、どこか余所余所しい態度のままその日を終えた。


それ以降、ふたりは不仲であるのではという噂が影を引きずるように付き纏っている。






貴族の学び舎が形式上共学になったのは、出会いの場を広げる為であるという。


近年の時代の流れで、結婚は親が決めるものではなく、当人同士の気持ちが重視されるようになってきた。

だが年若い男たちは何を勘違いしたのか「自由恋愛万歳!」とデビューで見初めたご令嬢と盛り上がるだけ盛り上がってしまい、のちに揉めに揉め、婚約破棄や大規模な訴訟騒動が相次ぐ事態となった。

それを重く受け止めた国が、男児のみ入学を許されていた教育機関に一年間限定で女児も通学を許すことにした。

つまりは、デビュー前にある程度の顔合わせを済ませ、結婚についてしっかり考慮する期間を持ちなさいという通達であり、結婚はあくまで家同士の契約であると学生たちに教え直すためであった。


デビューを控えた16歳前後の女性たちは学園指定の藍色のドレスを身にまとい、自宅から馬車で通学する。学園ではダンスとマナーを中心に学び、政治経済を学びに来ている12歳から17歳の男子生徒を見てはきゃっきゃと黄色い声を挙げるのだ。



今年16歳になるリーディエも例に漏れず学園に入学した。

婚約者であるアドリアン王子は12歳の頃から通学しており、今年で卒業となる。

卒業後は婚約を発表し、一年間の準備期間を経て婚姻を結び、国内の大聖堂で挙式することが内々に決まっている。

正式に第一王子の婚約者、そして王子妃となれば、生活上の制限も多くなる。

最後の自由期間である学園生活くらいは心穏やかに過ごしたいものだわ……と、ダンスレッスンを終えて車寄せのある正面玄関へ向かうリーディエの耳に、耳障りな笑い声が聞こえてきた。


淑女にあるまじき、キャハハと大口を開けるような品のない笑い。

中庭を挟んだ向こうの通路では、装飾の少ない紺色のドレスを台無しにするような、大ぶりの髪飾りをゴテッと髪に乗せた女生徒と、彼女に呼び止められたのか足を止めて向かい合っているアドリアン王子とその取り巻きたちがいた。

その女生徒は、甲高い声で笑ったり何事か熱心に話しかけたりしながら、馴れ馴れしくもアドリアン王子の腕や肩に触れている。


すかさず、リーディエの後ろを金魚のフンのようについて来ていた名前もよく覚えていないご令嬢が、わざとらしく扇子で口元を覆って声をあげた。


「まあ、ご覧になって!なんてはしたないのかしら……あのような振る舞い、自分は卑しい出自ですと公言しているようなものではありませんか!ねえ、リーディエ様!」


「品がないのはあなたの大声です。あの方のお父上は由緒正しき伯爵家のご当主ですよ」


「で、ですが、産み腹は平民の女ですよ!?」


「その物言い、無作法にも程がありますわ。あなたの主張とわたくしの思想が同一と思われてはなりませんので、今後の交流は控えさせていただきます。……どうぞご家族様によろしくお伝えになって」


すかさず、荷物持ちを務めているリーディエの侍女がその令嬢との間に割って入る。

リーディエとそのご令嬢との交流が断絶するだけであるならまだしも(といっても次期王子妃であるリーディエから交流を拒絶された時点で大きな失点なのだが)、家同士の交流さえ控えるという旨の言葉を付け加えられたせいで、女生徒は言葉を失って立ち尽くしている。

背後から小さな声で謝罪のような言葉が聞こえるような気もするが、そんなものに一々取り合っている暇はないとリーディエはさっさと馬車の待つ車寄せへと足を向けた。



学園から屋敷までの距離はさほど遠くはない。

帰宅し、身なりを整える前にお茶が欲しいわと自室の椅子に腰掛けたリーディエは控えめにため息をついた。

お茶を運んできた侍女は困ったように苦笑し、学園に同行している侍女は軽く目を伏せる。


「最近あのような……まるでわたくしがミルシェ嬢に悪感情を抱いていると周囲に思わせるように振る舞う者が増えましたね」


「調査しておりますが、ミルシェ嬢ご本人に依頼されたなどという証言もあり…」


「つまり、わたくしが周囲から失望されるよう画策していると?」


「……次のパーティーにお出になるのは控えられたほうが宜しいかと」


明言は避けたものの、ミルシェという名の品のない笑い方をする伯爵令嬢が、何らかの形でリーディエを陥れようとしているのは確実なのだろう。

彼女の狙いは明白。アドリアン第一王子のお嫁さんになりたいの!と、リーディエが廊下を通るのを狙ったかのようなタイミングで、はしたないほどの大声で囀っていたのを耳にしたことがある。


「王家はこのこと、把握していらっしゃって?」


「あちらはあちらで、かのご令嬢の言い逃れの出来ぬ失態を待っているのでしょう」


「その失態を演じさせるためにわたくしが利用されるのだとすれば、不愉快この上ないことです。お父さまが戻り次第、次のパーティは欠席するとお伝えしましょう。執事を呼んできて頂戴」


「呼んで参ります」


「ですがお嬢さま、王子殿下とは既に同伴のお約束を交わしておられますし、ドレスも贈られてきております。お断りするにしても角が立たぬ方向に仕向けなければなりません」


「そうねぇ……パヴリナ。右の三列目、薄紫のドレスを用意して。髪型や装飾品もそれに合わせて、殿下からの贈り物のなかから選んで頂戴」


「かしこまりました」


ノックと共に入室した執事には、取り急ぎ話をしたいという父への伝言を預かってもらうと共に、離宮でのパーティへの参加を見送る考えを伝えておく。


「アレシュ、当日は我が家の馬車に細工をしておいてくれる?」


「心得ました。旦那さま方の許可をいただくことが前提になりますが、手配致しましょう」


「それから…貴女たち、当日の『ごめんなさい係』を決めておいてくれる?手当ては出すわ。立候補でも押し付けあいでも、勿論、これからカードで決めても怒らないわよ」


リーディエの部屋には個人付きの侍女二人とは別に、部屋付きのハウスメイドが三人ほど控えている。

明後日に控えるパーティは、あくまで不測の事態により参加できなくなった事を演出しなければならない。『ごめんなさい係』とは、当日殿下に叱責されてしまう可哀想な役割を担う者だ。ただ、その係になれば僅かではあるが特別手当がもらえるため、ハウスメイドたちからは人気の役目でもあった。

全員が立候補してしまうため最終的にはカードで決めることが多いと知っているリーディエは「わたくしの入浴が済むまでに決めておいて頂戴」と立ち上がる。


その後も寝るまでに細々とした指示を出し、リーディエは大層疲れた心地でベッドに横たわった。





そして二日後の夕刻。


夜のパーティに参加するべく迎えに来たアドリアン王子は、玄関ホールへ出てきたリーディエの格好を見てわなわなと震えた。怒りすぎているのか顔が強張っている。

アドリアンの叱喝と同時に、リーディエの斜め後ろに控えた『ごめんなさい係』のメイドが勢いよく頭を下げた。


「なんだそのドレスは!わたしの用意した衣装はどうした!」


「申し訳ありません殿下!本日の給仕の者が粗相をいたしまして…!」


「なぜ本人が出てきて謝罪しない!」


「その者はただいま懲罰室におります。身を以て反省させたのち、しかるべき場で再教育されるよう手配いたします……何卒ご慈悲を賜りたく」


哀れなほどに恐縮しながら、同僚が粗相をしてお嬢さまのドレスを汚してしまったと謝罪するメイドは、殿下から「下がれ!」と厳しく言われ、深々と頭を下げて他の使用人と同じ列に並び直した。

完璧な『ごめんなさい係』っぷりだわ…とリーディエは内心で拍手を送る。

そして一歩前に進み出ると、ドレスの裾を摘んでふわりと礼をした。


「本日は紫の衣装であると既に周知してしまいましたので、手持ちのなかで最も殿下からの衣装に色味が近かった、こちらのドレスに致しました」


家格の高い女性たちはそれぞれ、ドレスの色や雰囲気が被らないよう、内々に当日の装いについて共有することがある。リーディエは王妃殿下や公爵家のご令嬢など幾人かの女性と情報を共有しており、急な色の変更は相手側への迷惑にもなるからと殿下の用意してくれたラベンダー色に似た、薄紫のドレスをクローゼットから選び取った。


残念な点はといえば、殿下の用意したものとは形が異なる点だ。

スカートの形はAラインでよく似ているのだが、殿下の用意したものは襟ぐりが詰まっているヒラヒラふわふわと装飾的なドレスであったのに対し、リーディエが身に纏っているのは襟元が大きく開いたオフショルダーの開放的なドレスだ。もちろん下品なデザインではなく、最近の流行である『鎖骨を見せる』程度の深さではあるが、見る角度によっては少しばかり、胸元に潜ませた下着を思わせるようなレース地もちらりと覗き見えてしまうかもしれない。

肘上までの手袋で必要以上に肌はさらしていないし、これみよがしに胸の谷間をボイーンと強調して見せているわけでもない。

けれども殿下はリーディエを見るなり「破廉恥な!」と叫んだ。

殿下の背後に控える従者が、苦悩の表情でそっと眉間を押さえる。


「き、きみはこのようなドレスを着てどこぞの夜会に出たのか…ッ!?

いや、問題はそこではない!今すぐ王宮へ通達し、同系色のもっとマシなものを手配させろ!

リーディエ!きみは王宮からドレスが届くまで家から出るな!着替えが済み次第、父君とグレンカルラ宮へ参上するように!」


「急ぎ、当主に取り次いで参ります」


王子の指示を聞いた執事が頭を下げ、素早く屋敷の奥へ戻る。

リーディエは殿下に向き直ると、先ほどよりも深く腰を折った。ハーフアップの髪がさらりと肩を流れる。


「お父さまには殿下から賜ったドレスを汚してしまったことは既にお伝えしておりますわ……此度は侯爵家の不手際です。心より謝罪致します殿下……どうぞお許しくださいませ」


「ッ!きみは、ドレスのセンスが悪すぎる!王子妃になるのだから、衆目を考えて衣装を作りたまえ!」


顔を真っ赤にした殿下からお叱りを受けていると、奥から盛装姿の父と母が姿を現した。

リーディエが父と離宮へ向かうことになる以上、殿下は母をエスコートすることになる。

母の身に纏うドレスもリーディエと似たようなオフショルダー型のドレスだったが、殿下は眉を顰めるようなことはせず、冷静に侯爵夫妻と向き直り事情を説明した。

父が重々しく頷き、母は恭しく殿下の手を取り、先に会場へと向かう馬車へ乗り込んだ。



嵐が去った侯爵家の玄関ホールでは、方々から呆れの混じった苦笑が溢れる。


「大きな声を出しおって…奥まで丸聞こえだ」


「あちらの従者の様子はどうだったかしら?」


「理解されたようです。あとはうまく調整なさるでしょう」


殿下からドレスを届け直せと命じられているものの、リーディエがパーティに参加する気が無いことはちゃんと汲み取ってくれたようだ。

これからの予定としては、ひとまず殿下の従者から替えのドレスが届けられるのを待ち、そのドレスに着替えて父と共に侯爵家を出て、ほどほど進んだところで馬車の車輪が壊れて立ち往生する…という流れだ。

殿下がいくら待てど、リーディエが離宮へ到着することは万にひとつもない。


「本日のパーティーはお母さまに丸投げね」


「あれで本当に大丈夫なのか?政務の処理能力は問題ないようだが……お前たち、白い結婚なぞしてくれるなよ」


父からの苦々しい忠言に「殿下にお言いになって」と返し、リーディエは自室へ戻るべく高いヒールで危なげなく階段をのぼった。







離宮では、従者からの報告を受けたアドリアン王子が顔色を悪くしていた。

談笑していた輪の者たちは、如何なさったのと心配そうに事情を問う。


「いや、遅れておられるブライトネス侯爵だが……どうやら馬車の不具合があったようだ。怪我などはなく、侯爵領内だったため早めに対処できたそうだが、さすがに今宵は屋敷に戻り養生されると…」


「まあ。リーディエ様も乗っておられたのでしょう?ご心配ですね」


「ああ………わたしが急かしたせいかもしれぬ。明日にでも見舞いに行かねば」


公的な場ではいつもリーディエをエスコートするため、彼女がアドリアン王子の婚約者として内定していることは公言されていないものの皆の知るところである。

婚約が内定したであろう11歳の頃から欠かさず、パーティの招待状と共にドレスも贈っているという噂は有名で、仏頂面したアドリアン王子が自分の贈ったドレスを着たリーディエの手を一生懸命引いては会場内を連れ回し、他の貴族令息たちに牽制して回る姿を眺めるのは、大人たちにとってはある種の娯楽でもあった。


反アドリアン派は、二人が公的行事以外で殆ど交流を持たないことを理由に不仲だ何だと噂しているようだが、アドリアン王子を見れば彼の心が誰にあるかは一目瞭然。

むしろ、リーディエ以外には、アドリアン王子はとても王子然とした態度でとても公正な人間なのだ。節度を重んじる彼らしく、いくら親しい友人であっても肩入れしすぎず、王族として相応しい振る舞いを常に心がけている。


今夜は事故にあった婚約者のことが気になるのか、どうにか表面上は取り繕っているものの、時折意味もなく窓の方をみたり、悩ましげに眉を寄せる姿に、大人たちはあらあらとほっこりとした気持ちになるのだった。



事故の報せを受けた侯爵夫人が殿下の隣に立ち、談笑していた者たちの輪が崩れたちょうどそのとき、ズンズンと足音でもしそうな足捌きでやってきたのはミルシェ伯爵令嬢その人であった。


「アドリアン様」と、公の場で呼ぶのは許可されていない王子の名を恥ずかしげもなく口にする令嬢に、周囲から冷ややかな視線が注がれるものの、本人は全く気付いていない。


盛大に寄せて上げた胸の谷間ばかりを強調するドレスは上品とはいえず、幾人かのご婦人が扇子で口元を覆い隠し、紳士らは道化がするような大袈裟な仕草で肩を竦めてみせる。

デコルテを見せるのはマナー違反ではないが、さすがに限度がある。

それに今宵は離宮で開かれている王妃主催のパーティで、正式にデビューする前のご令嬢はパートナーありきで参加を許されているに過ぎないため、男を誘惑するような衣装で臨むのはお門違いも甚だしい。

ましてやミルシェ嬢は母親の代理として伯爵のパートナー役で参加しているのだから、伯爵に随伴して挨拶周りや社交の補佐に務めるべき立場である。

ひとりでフラフラと歩き回り、伯爵が挨拶に来るよりも先に第一王子へ声をかける非常識さは「まだデビュー前だから」と目溢しをもらえる範囲を超えていた。


学園にいる時と同じような距離感と馴れ馴れしさでアドリアン王子の前に立ったミルシェ嬢は、上目遣いで可愛くご挨拶をしたあと、

「色々なところでお話は聞かれているとは思いますけど、改めてお耳にお入れしたいことがございますの」と猫なで声で言った。


それから自己陶酔のままに語られたのは、リーディエ嬢が学園でいかに酷い振る舞いをしているかという内容で。

ダンスレッスンではわざとぶつかってきたり足を引っかけてきたりする。マナー講座では人を見下してくる。取り巻きを使って嫌がらせをしてくる、などなど。

周囲で聞き耳を立てていた大人たちは、あまりの内容に別の意味で言葉を失った。


ここには侯爵こそ居ないが、殿下のすぐ隣には侯爵夫人が控えて居るというのに。


ひと通りミルシェ嬢の言葉を聞き終えたアドリアン王子は、表情こそ取り繕っているものの、目の奥に燃えるような怒りを滲ませてミルシェ嬢を見下ろした。


「……………きみは何を言っているんだ」


「信じたくないのはわかります!ですが、リーディエ様が裏で何をなさっているか真実をお伝えしなければと決心してここに来たのです!アドリアン様は騙されているのです!」


「ブライトネス侯爵令嬢はそのような浅慮な人間ではない。それに、彼女の動向は王家の把握するものであり、きみが報告したような行動は取っていないと明らかにされている」


「ですがこの方は!誰も見ていないところで何度も私に酷いことをしたのです!」


ビシ!とミルシェ嬢が指差したのは殿下の隣に立つ人物。

不躾にも指を指された侯爵夫人は扇子で目元以外をすっかり覆い隠すと、冷ややかな視線でミルシェ嬢を見つめた。


流石にこの事態は看過できないと、成り行きを窺っていた騎士がミルシェ嬢の肩を掴む。


「きみ!侯爵夫人に失礼が過ぎるぞ!」


「ふ、夫人!?」


素っ頓狂な声を上げたミルシェ嬢に、ブライトネス侯爵夫人は感情の籠らない冷たい声を返す。

無視したままでも良かったが、さすがに腹に据えかねたのだ。それに、ここで徹底的に潰しておいた方が娘のためにもなるだろう。


「貴女、わたくしの娘の顔をご存知ないのね」


「ち、ちがいます、今のは見間違えただけで」


「そう。わたくし、娘とは髪色も違うのに、大層な見間違いねぇ……きっと、貴女にしか見えていないものもたくさんおありなのでしょうね」


侯爵夫人の言葉に、周囲のご婦人方が扇子の向こうでクスクスと笑う。

侮蔑と嘲笑を過分に含んだ視線と声にミルシェ嬢が真っ赤になって立ち尽くしていると、事情を聞きつけた伯爵が大慌てで駆けつけ、娘を床に引き倒した。そのまま頭を鷲掴み、額突くほどに深く深く謝罪をさせる。

可愛いらしい意匠の大きな髪飾りは伯爵に掴まれてクシャクシャで、勢いよく引き倒されたせいで足首も捻っている。


けれどもそんな哀れな伯爵令嬢には目もくれず、侯爵夫人はアドリアン王子に向き直ると、退出する旨を告げた。

事故の報告を受けた時点で王妃殿下からは中座を許されているし、もともとエスコートをしてくれた殿下にひとこと断りを入れるために隣に来ていたのだ。

愚かな小娘の暴走などにこれ以上関わる気はなかった。


「殿下、夫と娘が心配ですので今夜はここまでで失礼いたしたく存じます」


「表まで送りましょう。改めて書状は送りますが、明日の午後、閣下とご息女のお見舞いに伺っても宜しいでしょうか」


「ええ、きっと娘も喜びますわ」


アドリアン王子もまた、訳のわからない令嬢の寸劇に付き合うつもりはなかった。

騎士たちに「伯爵とその令嬢を控えの間にお連れしろ」と言い置いて、侯爵夫人の手を取ると馬車のもとまでエスコートする。


馬車に乗り込んだ侯爵夫人にアドリアン王子は縋るような目を向けた。


「リーディエ嬢には、出る前に厳しい言葉を掛けてしまい申し訳なかったと伝えていただきたい。事故は災難だったが、怪我がなくて良かった、とも…」


「殿下。それは明日、直接お伝えくださいな」


にこりと微笑んだ侯爵夫人に頷き、発進した馬車が見えなくなるまで外で見送る。

アドリアン王子が室内に戻ったときにはもう、会場はあのような混乱はなかったのだという穏やかな雰囲気を取り戻しており、美しい音楽と豪華な食事が並び、華やかに着飾った人々が談笑するいつも通りの社交場になっていた。






アドリアン王子とリーディエ侯爵令嬢が無事に学園を卒業し、婚約を公表したのが先月のこと。

王城での生活に慣れるべく、リーディエは月ごとに王城での生活と侯爵邸での生活を入れ替えながら、王子妃教育や結婚式の支度に奔走している。


今日はアドリアン王子の執務室にて、婚礼の衣装についての打ち合わせなのだが。

ソファテーブルに広げられた衣装候補の図案を引っ掴み、王子はわなわなと肩を震わせた。

その手にあるのは、純白の絹を素材に身体のラインに沿うようにと描かれたドレスと、綿を素材にふんわり仕立てでと描かれたドレス。どちらも腰回りの締め付が少なく、一級品の素材を使う代わりに装飾は控えめで、襟元が大きく開かれているデザインだ。


「きみのドレスのセンスはどうなっているんだ!こんなものを候補にするなど…!」


「殿下、そちらは夜の衣装ですわ」


「夜の、………………ッッッ!!??」


意味を理解したアドリアン王子は手にした紙にもう一度視線を落とし、まるで毛虫を払うかのような仕草で床に投げ捨てた。顔は耳から首まで真っ赤だ。

あらあら…と向かいに座っていたリーディエ嬢が、落とされた図案を拾うべく立ち上がって王子の方へ回り込むと、真っ赤な顔をさらに赤く染めながら後ずさる。


「離れろっ、それ以上近づくな!」


「まあ酷い。殿下がそのように仰るからわたくしたちの不仲が噂されてしまうのですよ?」


紙を拾い上げて長椅子の隣に腰掛ける。「く、来るな!」と身を反らせながら逃げ腰になっている王子に対し、リーディエ嬢は、ずいと身を乗り出した。


「それにね殿下、わたくし王妃様より妃教育の仕上げの宿題をいただいていますの。殿下がご協力くださらない場合には、王妃様が用意した者と練習することになってしまいます」


「母上からの宿題だと……?」


「そうです。王妃殿下は『結婚式までに公然の場で口付けができるよう練習しておきなさい』と仰せですわ」


「は!?」


「その場には国王陛下もご一緒におられましたから、寛大にも『息子の唇を奪うことを許そう。何度でも練習するがよい』と頷いてくださいました。それに、殿下がお逃げになる場合はわたくしが主導するようにと頼まれましたの」


「な、なにを……!」


ずずい!と身を乗り出したリーディエ嬢に、長椅子の端に追い詰められたアドリアン王子は周辺に立っている護衛騎士や従者らに救いを求める視線を投げた。

けれども護衛騎士は誰も彼も「窓の外は異常ないかなぁ」「ドアノブ、鍵穴、問題なーし」とあらぬ方向へ視線を投げているし、従者と侍女は急にお茶やお菓子のおかわりについての打ち合わせを始めてしまい、誰とも目線が合わない。


ふわりと芳しいコロンの香りがして、アドリアン王子が思わず視線を元に戻すと、リーディエ嬢はすぐ間近に迫っていた。

朝露に濡れた花のような清楚で可憐な香りに理性がくらりと揺れる。


「殿下……」


「ま、ままままて!まて!!王族は節度をもった交際をせねばならんのだ!!」


リーディエ嬢の両肩をぐわしと掴んで押し退けると、アドリアン王子は座右の銘でもある必殺技『節度』を持ち出した。

リーディエは予測していた言葉に、にっこりと微笑み返す。


「ええ。ですので、殿下の我慢がきかなくなっては困ると思いこれまでずーっと距離を取って参りました。ですが…」


肩を掴む王子の手の甲に、そっと手のひらを重ねる。そのまま首を捻り、ちゅっと可愛らしい音を立てながら筋張った指先に口付けを落とすと、アドリアン王子は驚愕の表情のまま固まってしまった。

これ幸いと、リーディア嬢は再び身を乗り出して顔を寄せる。


「せっかく陛下も王妃様もお許しくださったのですから、……ね?」


婚約者という確固たる関係であることを公言し、王と王妃から『練習』という大義名分をもらった以上、躊躇う必要はない。

むしろ結婚式当日に「やっぱり無理だ」などと醜態を晒されるほうが困ったことになる。

アドリアン王子にはこれから、キスだけでなく、腕を組んでピッタリ寄り添う姿勢など、慣れてもらわなければならないことが沢山あるのだ。


鼻先がくっつくほどに顔が寄せられる。

一瞬ぎゅっと固く目を瞑ったアドリアン王子は、再び腕に力を入れてリーディエ嬢の肩を押し戻した。


「ッ、だめだ!…これまでの努力が水泡に帰す!」


「キス?」


「違う!!く、口付けは諦めろ!」


「でもそれでは妃教育が修了せず、殿下との結婚式が挙げられませんわ」


「母上にはわたしから話す!結婚式での口付けは、こう…手で隠せばよかろう!」


あわあわと言い訳を募るアドリアン王子の様子に、幼い頃から仕えている従者は心底呆れ顔だし、護衛騎士たちも苦笑を浮かべている。


結婚式を誤魔化し切ったところで、その後に控える初夜はどうするつもりなのか。

それとも、寝所では節度を放り投げて獣の如く変貌するのだろうか。


リーディエ嬢は婚約内定からすでに五年以上も連れ添っている相手のうぶな様子に、堪らずくすりと笑いを浮かべた。

嫌われていると勘違いしたのは最初の頃だけで、「どうして僕の誕生日を祝ってくれないんだ!会わないと言ったのは、きみの顔を見るだけで、もっと近づきたいとか、もっと触れたいとか、そんな事ばかり考えてしまって、節度が保てなくなるからだ!」と半泣きで喚いた殿下のことを今でも覚えている。

誰にも公正で節度あるお付き合いをするアドリアン王子が唯一節度を保てなくなるのが、リーディエ侯爵令嬢を相手取るときなのだ。


「…かわいいひと」


「んな!?」


「……ですがあまりにも寄るな触れるなでは、余所見をしてしまいますわよ」


「リ、リーディエ!!?」


倒れ込むように縺れ合っていた長椅子から身を起こし、立ち上がったリーディエ嬢は、手早く身を整えるとおもむろに窓ぎわへ歩いて行った。

そこに立つ護衛騎士にそっと手の甲を差し出す。

見目のよい護衛騎士は心得たように恭しく礼をすると、細い手を取ってゆっくり唇を寄せた。


触れるか触れないかのところでリーディエ嬢の身体が後ろにぐいと引かれ、護衛騎士から引き離される。


「余所見など許さぬ!!」


必死の形相で肩を掴んで引き留めるアドリアン王子を見上げたリーディエ嬢は、狙いを定めてえいっと背伸びした。

唇の端っこに唇が触れ、互いの熱を一瞬だけ分け合ってすぐに離れる。


呼吸すら止めて硬直してしまったアドリアン王子の手を肩から外しつつ、リーディエ嬢は美しく微笑みかけると、王子の唇を指先でツンとつついた。その指先を自分の下唇にちょんと付ける。


「これからは節度をもって、たくさん口付けて下さいませ、殿下」


そのまま淑女の礼をし、侍女を伴って部屋を出る。

扉の前に立つ護衛騎士にぺこりと挨拶をしたところで室内からは大絶叫が響きわたった。


「お前が可愛すぎるからダメなんだ!!!!」


きっと今頃床に崩れ落ちているであろう婚約者のことを思い、リーディエ嬢はうふふと小悪魔的に微笑んで王城を後にした。






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― 新着の感想 ―
うーん、恋愛については流石に女性には敵いませんね。 惚れた相手なら尚更。 殿下も欲望を解放して(?)、素直になればいいのに。
結婚式のあと、王子様の節度を保たせるために躾をしないといけないですね 結婚までと押さえつけてた妄想と欲望がこわい
こんなうっとおしい婚約者は嫌だなと思いました。口を開けば怒鳴ってわめき散らすことしかしないなんてよく耐えられるものだな、と。
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