私だけの希望にしたいんだ
人目が離れた一間の空間で、長旅を予想させるような荷物を堂々と横に置いて会釈する老紳士を目の当たりにしてしまい、密かに嘆息を漏らした。最も、この嘆息はこの老紳士との会合が始まったら最後、おしまいになるまでかなり長い時間を取られる、という諦めの意味で吐いたものである。
そのような部屋の主の心境を差し置いて老紳士は恭しく会釈した。本当に白々しいという単語が、この老紳士にはよく似合う。
「セイシェル皇太子殿下、ご機嫌麗しゅう御座います。いやはや、驚きました。諍いを避ける為にアイシア皇太子殿下に後継をお譲りになられるとは」
開口一番、何を言うかと思えば本当に白々しい。
名家に名を連ねるだけの有象無象なら兎も角として目の前の老紳士がこれを口にするのは悪趣味以外の何者でもない。そもそもアイシア皇太子殿下――通称セイシェルの弟にした発端は老紳士含む先代の過ちだろう。
セイシェル皇太子殿下と呼ばれた人は、とうとう耐え切れず真顔で老紳士を見据えた。
「アイシアの素性を私に探らせておいてその態度が取れるのは最早面の皮が厚いどころではないぞ、ジェイソン・キース。貴殿のその顔の下には鋼鉄でも仕込んでいるのかと疑いたくなる程だ」
元々アイシアは現当主の実の妹ラサーニャの『一人息子』であり、大都市アエタイトの発展の為に降った人間だ。つまり、アイシアが後継になるような未来は天地が覆るような天変地異でも起こらないと有り得ないという事である。
すると、老紳士は目を見開き、わざとらしく首を振る。
「これは。まるでわたくしが人の情を喪った正義の機械だと言わんばかりの。人聞きの悪い人ですね、セイシェル皇太子殿下。これでも、ハイブライト全域の秩序が保たれることをわたくしは願っているのですよ」
弁明を聞いたセイシェルはまたしても老紳士の白々しい態度に嘆息し、老紳士がもたらした一連の功罪を突きつける。
「その為に東の地にノアシェラン家の侍女フレア・ハーバード御一行を追いやったり、ノアシェラン家をハイブライト先代第二王子の監視下に置く事を、か?」
理論上は間違っていない。当人達が納得するかはさておき、現実問題として秩序者や自分の力では侍女フレア・ハーバードを東の地に置き、争いの火種を抱える砂上の楼閣を厳重に監視するのは何もおかしな事ではない。ただ、その結果としてノアシェラン家に降った先代第二王子や重要人物である夫人が犠牲になったという事実が突きつけられるまでは、の話である。
結果として秩序者と語られた名の通り、秩序を守るために二人は犠牲になったのだ。これを功罪と言わずして何と呼称すべきなのかとセイシェルは自問自答する。要は、手が込んでいるだけの、ただの八つ当たりである。
「セイシェル皇太子殿下、ノアシェラン家がどのような成り立ちかはご存知でしょう。現当主と先代第二王子が王妃を巡って争い、王妃が第二王子と疾走したなどという陳腐な噂のほうがまだ救いがあるほど、ノアシェラン家は砂の上の城のような儚さでようやく成り立っているのです。それこそ、数多の血で血を洗うような厳しく儚い成り立ちですが。それとも、そこまでして護られたふたりの末弟であるカイン・ノアシェランが疎ましいですか?」
疎ましい、という単語が老紳士の口から出た瞬間、セイシェルは身を焦がす程の感情を覚え、とうとう口調を荒げた。
「疎ましいと感じていたら貴殿の提案を呑んだりしないと思うが? こう見えても人の情くらいは持ち合わせているのだ、ジェイソン・キース。血を分けた弟の行く末を案じるくらいの情は、な。カイン・ノアシェランは血で血を洗うような王族の諍いの生贄になってしまった。何も知らず、突き付けられた孤独を耐えなければならないカイン・ノアシェランの心境、貴殿にはわかるか? 本当に趣味が悪い」
そうだ。カイン・ノアシェラン。まだ年端もいかない少年が無理矢理大人として不自由な身の上になってしまった。
確かにカイン・ノアシェランさえいなければセイシェルは平穏に生きていただろう。母――ソフィア夫人と現当主に囲まれて誰もが羨む天竜人のような生活を送っていた。それでも、セイシェルの胸の内にあるものは血を分けた弟がいるという喜びだった。
後継を担う唯一人の存在から、血を分けた弟妹を導く兄であったと知った時の希望と、母を連れ去った愛憎など永遠にこの老紳士には分かるまい。
流石にセイシェルの逆鱗に触れた事は悟ったのか、老紳士は煽りを収めて現実的な話に持ち込む。
「だから、カイン・ノアシェランを連れてきて貴方の護衛をさせようとしているではありませんか。少なくとも貴方の護衛として置いておけば手を出すような無謀な真似はできないでしょう。もう、大都市アエタイトではカイン・ノアシェランを守る事はできない。シリウス前皇太子殿下の事があった後なのです。シリウス前皇太子殿下を以てしても、ソフィア殿を以てしても、もう止められません。カイン・ノアシェランを野放しにすれば彼は革命の先導として祀り上げられ、生贄になるでしょう。それこそ、自ら破滅した町医者レイモンド殿のように、です」
町医者レイモンドの自殺――。セイシェルはまたしても老紳士を睨む。
「そう仕向けたのは誰だったか忘れているのか?」
しかし、その視線を受けながらも老紳士は怯まず提言した。
「あの方法以外で町医者レイモンドを救う手立てが無かった。セイシェル皇太子殿下なら他に良き方法がおありで? セイシェル皇太子殿下も何故わたくしがカイン・ノアシェランの保護に奔走しているかくらいはわかるでしょう」
最も、老紳士の言い分は正しく、町医者レイモンドの一件は秘匿すべきだとセイシェルも納得している。つまりこれは先程まで老紳士にしてやられた仕返しというものである。
気が済んだセイシェルは視線を緩めることにした。老紳士にはこのくらい厚かましい態度でも十分だろう。
「そうだな、ジェイソン・キース。アイシアの素性を調べれば、数多の人間が紐づけされているからな。それに、本人自ら告解してくれた。だが、それで止まるとは思えない。自らを薪にして灼き尽くす為に人生を歩んできたその生き甲斐を奪うことも私にはできない。ましてや私は人間だ。私はどうしてもあの慚愧を見捨てられない」
胸に突き刺さるのは、先日の告解だ。友人と勝手に思っている同級生の、煮え滾るような告白を受けたセイシェルは人知れず思い悩んでいた。老紳士も同情するように頷いた。
「ならば一緒ですよ、セイシェル皇太子殿下。私は目の前にいながら町医者レイモンドの凶行を止められなかった。名もなき若き志望者がいなければあの者の行く末は凍てついた暗き路で果てる以外有り得ない。でもわたくしは最後の時くらいは灯に照らされた路を歩いてほしいと願ったのです」
そうだろう。大都市アエタイトの流行病を食い止めていたのは使命に燃える町医者レイモンドその人だ。町医者レイモンドの使命感に絆された目の前の老紳士が『人命救助』を申請した時は流石に驚いた。
秩序の為に少数の犠牲は已む無しと思っていた老紳士の冷徹な姿ばかりを目に写してきたからだ。
「セイシェル皇太子殿下、もしかしてわたくし、血も涙もない正義を成す英雄だと思われているのでしょうか」
「そもそも貴殿をジェイソン・キースと呼ぶ者はそういないだろう。大抵は貴殿を秩序者と呼ぶ。事実、貴殿の決断がなければ大都市アエタイトの発展と維持は在り得なかった。とうの昔に崩壊し、更地になっていただろう」
悪態はついているが、これでもセイシェル本人は目の前の老紳士を尊敬しているのだ。
事実、秩序者の名に相応しい役割を果たす老紳士の胆力がなければ大都市として君臨することもなければ、根付く恨みを鎮める事もかなわなかった。さすがは第一の称号を手にするだけはある。
「セイシェル皇太子殿下にそのようなお言葉をいただくとは。わたくし、身を粉にして尽くした甲斐が在りました」
「しっかりやり返しておいてその白々しさ、いっそ清々しいぞ」
取って付けたような謙遜が無ければ良いのにとセイシェルは今度こそ分かりやすく嘆息した。
「セイシェル皇太子殿下、夜の宿の手配はお済みですかな?」
「特等席だ。ティアに案内してもらうと良い」
「話が早くて助かりますよ、セイシェル第二皇太子殿下」
良いところを掻っ攫う狡猾さも含めて、秩序者なのだろうと、セイシェルはすっかり諦観して受け入れたのだった。
「これから君が騙る夢を、この手で塗り替えてしまいたい。胸に煌めく鈍色が、冒した罪を贖わせる。悼みと苦しみを繰り返して、戻る道も閉ざされてゆく。君が宣う夢の先を、せめて塗り替えてしまおう、この手で」