ライヘンリバーの畔
カインとの仲をどこまでも応援してくれるラルクと分かれ、イリアはいつも向かう部屋の扉の前に立った。まだ、日が昇る前である。恐らく今この時が最初で最後なのだ。
「お兄様、入っても大丈夫ですか?」
イリアの声に応えるかのように扉が開かれ、セイシェルがいつものように歓迎する。
「ああ、待たせたな。ラルクからカインは暫く預かると報告があった。あとで連れてくると」
「ラルク……わかりましたわ。私もお兄様にお話があって来たのです」
ラルクの元には既に嵐が来ていたのか。日が落ちて、感謝の言葉を述べるためにセイシェルのいる部屋を訪ねようと足を運ぶカイン。然し、此処最近はセイシェルが返答する形跡がないのだという。
『イリア様、セイシェル様はお見掛けになりませんでしたか?』
庭仕事に専念するカインに自身から話す事はあっても、カインから話す事はあまりない。カインがこちらに対して気を遣っているのは知っている。
『そういえば、最近はリデルと一緒にいるわ……』
『リデル? 上級生監督役のリデル殿が?』
『ええ、そうよ』
『どうしてリデル殿が騎兵団を指揮できるのですか? キース家やトールス家の方が率いるならまだ分かりますが、リデル殿はあくまで監督役ですよね? それに何故ラルクが中央に残ってラルクの兄上殿が南西部に?』
『……カイン』
カインに言われるまで、愚かにも気付かなかった。確かにリデルは上級生監督役だ。騎兵団になる者たちの育成は指揮できるだろう。然し、護衛としての任務を与える程の権限は厳密には無い。
セイシェルがリデルの動きを承認しない限り、偵察や視察を行う事は出来ないのだ。
あまりにも自然に溶け込んでいて、あまりにも有り触れた日常になってしまっていて、目が曇ってしまった。
セイシェルが第二王子に転落した理由、それは。
『カイン、今すぐラルクの元に行って頂戴。カイン、お兄様の事は私が何とかするわ』
『イリア様……』
『カイン、カインの事は必ず私が守るわ。さぁ、行って』
『……イリア、様』
カインは一礼し、ラルクの待つ待機室へ向かった。そして今に至る。
恐らく、ラルクは追及するカインの心情を察し、暫く落ち着かせようとしているのだろう。無邪気な気質ではあるが友達思いでもある。その、ラルクの思いに鼓舞されてイリアも前進する覚悟ができた。
「お兄様、最近様子がおかしいですわ。リデルがいつもお兄様をお出迎えになられるのを見ています……お兄様、リデルは【お兄様を巻き添えにしたい】のではないですか?」
なるべく言葉を選び、その上でセイシェルに質問した。そして、先程まで穏やかに振る舞っていたセイシェルが僅かに動揺するのをイリアは見逃さなかった。
「お兄様がリデルを大切に思う心は素晴らしいと思います……だからリデルは思い留まったのではないのですか? でも、カインの事も考えて欲しいのです。お兄様がいなくなったらカインがどれほど悲しむか……」
「……カイン……」
セイシェルは愕然としたまま立ち尽くす。あまりにも愚かで、あまりにも身勝手だった自身の感情に気付かされた。リデルを憐れむあまり、カインの心を傷付けてしまったのだ。
イリアはセイシェルの様子を見て、彼の心情を察した。恐らく、セイシェルは知らなかったのではないか、と。
カインがセイシェルに対してどういう想いを抱いているのか、考えもしなかったのだろう。あまりにも自身を蔑ろにして『セイシェル皇太子殿下』を演じるあまり、いつしかカインを侮ってしまったのだろう。
カインの懐いた想いを知り、噛み締めるように返答するセイシェルにイリアはもう一歩踏み込んだ。
「お兄様、カインの事も考えて欲しい。確かにお兄様は第二王子であり、ハイブライトの礎となるべくして生を受けた。ですが、それは【カインには関係ないこと】なのです。カインにとってお兄様は【唯一人の大切な兄】なのです……お願い、お兄様。もうやめて」
「イリア……」
此処に来てイリアがカインを思うあまりさめざめと泣いてしまっている様を目の当たりにしてセイシェルは愕然とした。
イリアが自身の身の上を思い、そこまで思い詰めている事も、ハイブライトに赴いたカインが自身に対して切実な想いを抱えて此処に来たことも知らなかった。
尊ぶべき喜びが胸の内を満たしていくのに。その喜びが胸を満たす度に、湧き上がる悲哀が胸を引き裂いていく。
どうしてもできなかった。
ふたりにはどうしても、どうしても【迫る嵐の渦中にいてほしくない】と思った。ただ、そう思った。
迫る嵐に立ち向かうような勇ましさも、迫る嵐を断ち切るような輝かしい勇敢さですらも、ふたりには【決して持ってほしくない概念】だとセイシェルは思っている。
例えこの身がリデルと共に堕落しようとも覚悟は出来ている。この手が同胞達の血に塗れてしまうことも、だ。それは自身の血脈が発展する度に生み出してきた功績と罪の証であったからだ。
大地を染めるほど流れ出した血が罪を生み出したなら、この身に流れる血で贖われるべきだ。
だがそれはあくまで『セイシェル・ハイブライト』自身の身の上だけであり、ハイブライトを渦巻く怨嗟の源にイリアとカインを焚べて巻き添えにする事はしたくないのだ。そのような真似はできない。そのような所業などしたくもない。そのような所業を合理だと考えるだけで視界が真っ赤に染まり、堪え難くなるのだ。
「イリア……許してほしい。それでも私にはこうする事しかできない」
「お兄様……」
胸を満たすような暖かさは常にあるのに、兄という人が出した結論は胸を引き裂くような答えだった。そして兄はこう告げた。
「カインの傍にいてやってくれないか。イリアならカインの生きる道を真っ当なものにできる……」
そうだ。別れは辛いものだ。だが、何れその辛さは乗り越えていけるだろう。
イリアがいればカインは生きていける。カインの父母が道半ばで散っていった無念を思う度にカインの末路を想像しては堪え難い痛みが奔る。
それに、幸いイリアが懐くカインに対する想いは純粋なまでに一途で、見ているだけで幸福でもあった。イリアのまっすぐな想いを利用するようでセイシェルは苦々しく思ったが、こうするより他はない。だがイリアは違った。
彼女は激高し、セイシェルを見据える。
「お兄様、今の言葉取り消して! カインが弱いと言うの! それはカインに対する冒涜よ! 例えお兄様でもカインを冒涜するなんて赦さない!」
「イリア……」
「カインの想いはどうなるの! カインは貴方がいないといけないんです! 誰も彼もカインを憐れみ、お父様達と同じような末路を辿るのではないかとばかり吹聴する。カインの勇気をどうして信じてくれないのですか! 確かにカインには残酷な運命が横たわっている。でも、カインは違う。真っ向から立ち向かって、カインはいつかきっとその道を切り拓くのよ」
「……イリア」
「お兄様、お願い、私とカインを信じて! だって私とカインは知りたいと思ってハイブライトまで来たのよ! どんなに苦しくても!」
イリアの切実な叫びが、またしても胸を引き裂いていく。
決して、カインの勇気を信じていないわけではない。父母の末路を知りながら、父母の背景を察しながら、立ち込める暗雲に対して怯みもせずハイブライトまで赴くカインを見て、暗澹とした思いに日が差すのを感じたほどだ。
噂でしか聞かなかった血を分けた弟という存在。そして、その弟は決して諦めずに、秩序者を踏み台にしてまでハイブライトまでやって来たのだ。
イリアも同じように立ち向かい、そして今やカインの末路を払拭する希望になりつつある。
だからこそカインやイリアには嵐の渦中にいてほしくない。例え自分自身であってもふたりにその所業を強いるのは決して許せない。
セイシェルは、あの時のリデルと【同じような痛み】を湛えている。そうか、これが憧憬と呼べるものの正体なのか。これが■というものなのか。ならばリデルがハイブライトを憎むのは当然だ。リデルが懐いた想いの正体を、この時初めて理解した。
そして、どう足掻いても自分はリデルの想いを受け取ることが出来ないのだ、と。
とても名残惜しかった。離したくないと願っていた。それでも迫る嵐はいつまでも待っていてはくれない。時は刻一刻と進んでいく。
胸に染みる雫が自身の内側を満たしても、時を止める事は出来ないのだ。自分に縋るイリアの肩を抱いて、自分の懐からそっと離す。
涙に濡れている青い瞳の煌めきが、とても美しかった。
「とても素晴らしい日々だった」
例え、二度と手に入らない走馬灯のように儚い煌めきであっても、あの日々は胸を満たすほどの素晴らしい日々だった。
「お兄様……いや、行かないで、お兄様! お兄様……!」
イリアの慟哭が背中を突き刺した。
なんという身勝手な感情だろうか。ここまで残酷な概念など有り得ない。
でも、そう思った。確かに、思ってしまった。
どうか、この背を、蒼い空を模した瞳に灼きつけてくれないか、と。
迫る嵐になぞ、決して渡すものか、と。




