マーガレットクライシス
「セイシェル皇太子殿下、ご機嫌麗しゅう御座います!」
樹木に懐かれた古めかしい部屋には似つかわしくない太陽を模した声がした。その声の主は、まるで、春の訪れに咲く花を閉じ込めたかのような色彩を全身に纏う少女であった。
「ティア殿、単身での偵察、いつも助かる」
「いいえ! セイシェル皇太子殿下が援助してくださるお蔭で私のお父様の悲願、何とか達成できそうです! 南西部を開拓し、畜産と農業を中心にすれば皆様の生活も守れますし、大都市に征かなくても住み慣れた地で暮らせる。お父様の長年の夢だったのです。確かに王城に登壇すればもっと豊かにはなりましたが……」
「未開の地を開拓するのは一大事業だ。私でよければ手を貸そう。アイシア……皇太子殿下にもあとでオールコット家の増援を依頼しておくのはもちろんだが、他に何かあるかな?」
「いいえ! セイシェル皇太子殿下にはいつも大都市までお越し頂いているのにこれ以上の無茶はできませんわ。あまりセイシェル皇太子殿下のご厚意に甘えてしまうと、リデルから指摘されそうね」
立場の違う相手に対しても花が綻ぶような眩さで話す少女ティアの耳に咳払いが起こる。
「……ティア、オールコット家の増援は当然だが、大都市への視察は私でも良いと思うが、何故いつもセイシェル皇太子殿下に?」
リデルの不満そうな会話にティアは満面の笑みで答える。
「リデルにはラルクがいるから! ラルクといるほうが色々話せるし楽しいと思うわ! あとね、セイシェル皇太子殿下じゃないと馬車や汽車の切符を発行いただけないの。いつもそういうのは手伝っていただいたのだけど、最近譲渡されたばかりで」
「すまない、ティア。リデルに承認書を作らせるからひとまずもう少し耐えてくれ」
「大丈夫ですよ、セイシェル皇太子殿下! 私、こう見えて、我慢比べ得意なんです!」
そう言ってティアはリデルの方に向かって頷き、部屋を後にする。花のような色彩がいなくなった事で部屋は元の古めかしい樹木だけの空間に戻ってしまった。
「春嵐のようですよ、全く」
後ろ姿を見送りながら嘆息するリデルを見てセイシェルは柔らかく笑ってみせる。
「私とティアの間に何かあったのか気になったのではないかな、リデル」
ただの噂話じゃないかと笑ってみせるセイシェルにリデルは半ば恨めしそうに睨み、承認書の原本を手渡す。
「気になっていませんよ。それより早いところ承認書発行してしまってください。乗船券や汽車の乗客を確認する作業は楽じゃないし、高頻度で賊が紛れ込んでいますから」
リデルがこのように、尤もらしい事を捲し立てるように急かす時は大抵図星なのだ。
それに、オールコット家の立場を加味せず客観的に見れば、春嵐と呼ばれた少女ティアのリデルに対する振る舞いは【満更でもない】様子だった。春の芽生え、と言ったところだろう。
「わかったわかった、承認書を発行するからリデルはティアを労いに行くといい。ティアが直々にリデルを指名している」
「……はあ……またどうせ大都市の雑貨屋の話や雑貨の飾り方でも聞かれるのでしょう……あそこまで浪漫に振り切ってしまうと些か頭が痛いですね……本当に」
いよいよ深刻なまでに頭を抱えるリデルだが、それでも彼女の元に向かう足取りを止めようとはせず歩いていく。行先はもちろん彼女のいる待機室だ。
イリアが彼女を見舞ってはいるものの監督役ではない彼女の待機室は女性専用の共同生活の場になっており、加えてイリアの許可がなければリデルが待機室の扉を開けることはできない。通常はできないが、そこは密かに花咲く乙女の力業である。
恋というものはこうも人を変えるのか、と、セイシェルは半ば感心すらしてしまった。
「お兄様、リデルが訪問する時間を事細やかに記載してください。私がいないとリデルはティアに謁見する事もかなわないのです。ティアがリデルのことを語る時、とても嬉しそうなんです。お兄様、わかりますよね」
もはや恐喝に等しい気迫に押し負けたセイシェルはイリアに降伏し、リデルの行動をそれとなく伝えた。
こうして、イリアの巧みな話術のおかげでリデルとティアが会える僅かな時間を細かく捻出できたのだが、ある日突然訪れた変化が自身の第二の悩みになった。
トールス家第一位に位置する騎士王の名を冠する者、アーサーの要求はふたりの絆を引き裂くものだった。しかも、オールコット家の事業援助をすると宣言されてしまった。これでは流石にイリアとセイシェルにはもう手の打ち様がなかった。
リデルの表情に昏い影が帯びるのは、この時からだったのだろう。暗い道を往くと決めながらも自身を慕う人や愛する人を利用できない様があまりにも悲しくて、やるせなかった。
暗い道から救うことも、燃える焔を止めることもできない自身が唯一リデルにできる事は、リデルを覆う昏い影を奪い取るだけだった。
もしも、リデルがこの身を暴いて貶めしたいと願うなら、幾らでも叶えてやりたいと望むほどに、リデルを掛け替えのない友人だと思ってしまった。この身を涜して気が晴れるのなら喜んで差し出したいと思っている。だからこそ、あの黒い色彩に放った宣誓は偽りではない。
しかし、その胸を焦がすほどの熱がありながら、日影で他者を見守る朝焼けのような清廉さを伴う憧憬を滲ませているリデルに、自身の献身はあまりにも場違いだ。かえってリデルを追い詰めてしまう。だからこそ、宣誓の証も責め苦も拒んだ。
自身がリデルに向ける感情はどこまでいっても親愛という淡い憧憬が全てだった。
リデルが自身に対して向ける感情とはあまりにも違いすぎるのだ。互いに違い過ぎるが故に理解できないのだ。
ああ、未だ囚われている。確かに存在していた友情が走馬燈のように過る。
「セイシェル第二王子、もうすぐ夜明けです。さて、太陽が昇る頃にはカイン達が庭作業を始めます。その後はイリア様が大聖堂に赴かれるとか。流石にカインだけでは不審に思われますから同行されたほうが良いでしょうね」
「リデル……」
真綿で首を絞めるような緩やかで苦い感覚が身体に広がる。いっそひと思いに涜してしまえば互いに楽になる筈なのに何故踏み留まるのか。
リデルはただただ寂しそうに笑って答えるだけだった。
「まだ貴方をどうこうするつもりはありません。多分、ですけどね。私は貴方を【理解したい】のかもしれませんし、どこかで貴方には誇り高いままでいて欲しいと願っているのかもしれません」
恐らくリデル自身も胸に芽吹いた感情を処理しかねているのだろう。答えになっているようで、其の実、全く答えになっていない程の曖昧な返答からリデルの感情を読み取った。
「リデル……それは」
答えを告げようとして言えなかった。
リデルは直ぐに笑みを消してセイシェルを睨んだからである。
「貴方に私の感情を推測する権利は与えていません。次は絶対に赦さない。その瞬間、貴方は此処で、私自身の手で、容赦なく、躊躇なく辱めますよ。よろしいのですか?」
「……穏便に頼みたいところだ」
「そこはご安心ください。苦痛というものはいずれ忘れてしまう。人間はそのようにできております。でも、快楽は一度覚えたら忘れられないそうですよ。何故知っているかお教えすると、騎兵団として有志を招き入れる為にそのように仕込みました。丁寧に手厚く、です」
「……リデル……」
其処に至るまで、どれだけの無念が彼の胸を掠めたのだろうか。その決意が灯るまで、どれだけの凄惨な道があったのだろうか。その憎しみを形にするまで、どれだけの悲哀が彼の目を濁らせたのだろうか。
リデルの所業は決して赦される内容ではない。生き抜く為に足掻く人々に幻のような輝きを与えながら生贄として捧げられるまで甘い希望を与えられる。幻に近い輝きに身を焦がしながら甘い希望を強請る人々が煉獄に灼かれる様を想像し、この胸が切り裂かれるように痛むのだ。
「私が悍しいですか? 親愛なる『セイシェル』」
「……しかし、リデルをそのようにしたのは、私だ……」
「そうです。ハイブライトの成し遂げた偉業が怪物を産んだのです。そのような悍しいものに愛されてしまうなんてあまりにも憐れで見ていられない。ハイブライトの誇りであれと乞われ、礎を築いたその後は無しと定められた。それが貴方だ。誰も彼もが『セイシェル皇太子陛下』や『セイシェル・ハイブライト』の事を心から望みはするが『セイシェル』は望まれていない。貴方の歩んできた人生は人の悼みや人の業の深さばかりを目に焼き付ける凄惨なものですよ……。少しは可笑しいと、これは理不尽だと、何故気付かない、セイシェル」
「リデル……」
そのように言われたのは初めてだったのかもしれない。リデルの言う通り、誰もが『セイシェル皇太子【陛下】』や『セイシェル・ハイブライト』を慕うことはあっても『セイシェル』を望むことはない。そのような概念も恐らく王城には存在しないのだろう。リデルの怒りの正体を、セイシェルは初めて知った。
オールコットの新たな春を呼ぶ花として望まれた『ティア・オールコット』を人々は歓迎するだろう。しかし誰も『ティア』の事は望んでいない。彼女の持つ花のような眩さがオールコットの家紋を彩ることだけを望まれている。
「リデル……それは……」
リデルの胸の内にあるものは激しい憎しみだけではなかった。朝焼けを模した憧憬が自身の胸を焦がすからこそ、リデルは白亜で彩られた美しい理想郷を煉獄の中に招き入れて焼き尽くしたいと願ったのか。
その胸を焦がす感情こそが、王城を包む穏やかで平和な時代に対して牙を剥く。繋がれた枷を外され、横たわっていた身を支えられ、ゆっくりと起こされる。
「さあ、行ってください。日が昇る今だけは貴方の名は『誇り高きハイブライトの第二王子、セイシェル皇太子殿下』なのですから」
そう言って見送るリデルの目はあまりにも寂しそうで、胸が切り裂かれるように痛んだ。
【予定調和の道を、歩いてきたはずだった。定められた道を歩んでいる。決められた結末が迫る】
『何故、今、君の、幻が、胸を灼く』
【迫る嵐に身を委ね堕ちる。未だ知りたくない詩が掠めた】




