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葉隠のこころ

作者: 腰越 おん

 嗅ぎ慣れたはずの匂いを何処かに忘れてきたようだ。

 地面には彼岸花が咲いていたというのに、金木犀も咲き終わり、とうとう、水仙のラッパが何かを演奏するのに心地良い季節になってしまった。

 今思い返してみると、息を引き取ってすぐの祖母の顔は温かくて、穏やかな表情だった。触れた覚えのない祖母の額と髪の毛を、時間の許す限りめいいっぱい撫でた。美にこだわる人だったとは思えないくらい、白髪頭になった祖母の姿は見るに耐えず、社会に怒りを覚えてしまった。

 何時間前だったかはわからないが、受付で香典返しを渡す手伝いをした。その時にもらった「残り」の紙袋片手にお座敷に腰を下ろし、「残り」が終わるまでの時間、私は紙袋の正体を考えることしか進んで行えなかった。

 腫れた目を開ける必死さと闘っているうちに、親族だけで精進料理を食べる時間になった。祖母の御膳に目をやると、温かい嬉野茶も供えられていた。供えられたものたちに思いを馳せていると、未熟な私を成熟させるための何かが、私を襲おうとしていることに気づいた。

 私の涙が枯れた頃、「ばあちゃんの部屋掃除、手伝いにきなさい」そう私に言い放った母を、『なんてこの人は強いのだろうか。どういう経験をすれば、私もこの強さを手に入れることができるだろううか。』と思わされたのを今でも覚えている。

 いつからか孫達の身長を記録するようになった柱は本物の物差しと化していた。その柱のある、私の第二の居場所だった部屋は、介護ベットが設置されており、ツンとした匂いと使い捨てシーツが一面に広がっていた。生前、祖母が「トイレにはトイレの神様がいるから、トイレ掃除はきちんとするんだよ」と言って整頓していたトイレは、この前来た時はまだ従甥のおむつがあったというのに、今は違う種類の『残り』もので溢れ返っていた。

 『ここはもう、祖母の生きた証になっている』これこそが私の受け入れなければならない現実そのものであった。

『私も何十年かしたら母の立場になる時がきっと来るー。その時には私も母のような強さを持って、子どもに接してあげられるだろうかー。生きている限り、全てに必ず終わりが訪れるー。こんな当たり前の事実に、子どもが気づいた時、私はその子に、私の言葉で何を伝えてあげられるだろうかー。その恐怖にどうやって立ち向かっていけばいいのか教えてあげることができるだろうかー。』

 祖母がいつも猫みたいに丸くなっていた炬燵の上には残薬の山、底が緑色に変色した使用済みの紙コップが何重にも重ねられていた。すぐ横にはペットボトルを楽に開けるための道具があった。祖母の愛用していた急須と吉田焼きの湯呑みは食卓テーブルの上で埃を布団にして眠っていた。冷蔵庫を開けると、二〇二一年で消費期限が切れている未開封の嬉野茶と十数本のお茶のペットボトルが入っていた。

 いつからか、私はどこかで「喪失を埋めてくれる代わりの何か」や「私自身でもわからない、私が求めている何か」は、高層ビルが立ち並ぶ街には存在していて、そこに行きさえすれば、すぐに見つけることができると勝手に思い込んでいた。

 如月から弥生に変わろうとしていた頃、意を決して一人旅をした。スマートフォン片手に、右も左もわからないまま、新しい世界に踏み込んだり、数年ぶりに再会した友人と一緒に太宰ゆかりの地を巡ったり、初めて食べる坦々麺の美味しさに感動したり、日本で一番美しいと言われている夜景の中で、他愛もない会話を楽しんだりしたものの、私が求めている「何か」を、誰もが憧れるこの地では見つけることができなかった。


「出会ったら、必ずその人との『別れ』が来るから、怖くて仕方がなくて、自分でもどうしたらいいかわからなくてさ」

「いつか必ず終わりが来るように別れが来るのも変わらないことだから、『別れ』が来るまでの今を満足させればいいと思うよ」


 「皆様、只今から着陸体制に入ります。シートベルトをお閉めください」というアナウンスがイヤホン越しに聞こえて間も無くして、金の名刺が散らばった有明海と佐賀平野に一本だけ伸びる滑走路が目に入ってきた。

 「線香あげたー?」母の声で我にかえり、音が鳴っている冷蔵庫の取手を慌てて握った。

 祖母の遺影の前に座った。今、私は、祖母が望んでも飲めなかった嬉野茶を彩るために、佐賀錦も一緒に供えているのだ。

 庭掃除をしていると、聞き慣れたメロディーと鯖を醤油で煮ているような香りを野焼きした風が運んできて、私の身体を優しく包んでくれた。

 目の前に広がる菜の花を、よく花束にして祖母に渡したものだ。別れも終わりも知らないてんとう虫が菜の花の先に辿り着こうとしている。

 急須で淹れたお茶を愛していた人が、湯呑みを持てなくなっても尚、どうにかして飲もうとしていたものがお茶だ。「残り」の紙袋を、真っ新になった部屋で開けてみると、正体は嬉野茶だった。包装紙越しに伝わる嬉野茶の香りは、私にとって「残り香」そのものだったことに気付くまでに半年もかかってしまった。

 私は今日、祖母が最後持てなくなった吉田焼きの湯呑みに嬉野茶を注ぎ、いのちをいただく。

 そして、嗅ぎ慣れたはずの匂いを思い出し、私が求めている「何か」は私の中にあったことに気付かされ、誰かに思いを馳せながら今を生きる。


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