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第1話 少年と狂犬

 春の匂いは、案外嫌いではない。ほのかに湿った土と、どこかで舞い散る花雨(かう)の甘ったるい香りが混じった春の風は、何故だろか。ひどく心地の良い懐かしさを覚える。


 ぬるい風は、少年の珍しいプラチナブロンドの短髪をこそばゆく撫で。風に運ばれてきた甘い香りは、少年の青空よりも海よりも鮮やかな——しかし、眉間に皺を寄せた鋭い目つきの青い瞳を、少しだけほころばせる。

 そんな柔い春風に包まれて。少年、如月(きさらぎ) 朝緒(アオ)はいくつもの蓮の葉が浮いている大きな池を擁するほどの広い庭先で、ようやく全ての洗濯物を干し終えたところであった。


「……量が多い」


 朝緒(アオ)は風にはためく洗濯物の数々を半眼で眺めながら、小さく舌打ちをする。すると、それを見計らったかのように朝緒の背後にある屋敷の縁側から、笑いを含んだ声が掛けられた。


「相変わらず手際がいいな。おまえは良い旦那になる」

「やっぱり来てやがったか……てめぇ、(モモ)! やけに洗濯物が多いと思ったら、いつの間にてめぇの分まで混ぜやがった!? ここはてめぇの()()()()()()じゃねぇんだぞ!? 黙って家に入ってきて、黙って出ていくんじゃねぇ! ちゃんと声を掛けやがれ、びっくりすんだろうがこのヒモ野郎!」


 噛みつくように振り返った朝緒の視線の先。木造の古びた屋敷の縁側で胡坐をかいていたのは、その顔だけで勝手に飯が差し出され、寝床と人肌が自ら群がってくるような。まさに〝魔性〟という言葉を体現したような、暗い赤毛の男。その名を落神(おちがみ)(モモ)といった。

 桃は恐ろしく端整な顔に怪しい笑みをニヤリと浮かべ、その場に立ち上がる。


「悪い。ついでにおれの布団も後で干しといて、朝緒。あと冷蔵庫の朝飯美味かった」

「はあ!? ふざけんじゃねえ! てめぇも手伝うんだよ! おい待ちやがれ、桃……」

「そういや、また〝狂犬〟が暴れ出しそうな匂いがした。早く店の表に行ってやれ」

「な!?」


 朝緒は〝狂犬〟という言葉に思いがけず身を固くすると、後ろ手に片手を振って屋敷の奥へと消えた桃の背中をそのまま黙って見送ってしまう。

〝狂犬〟といって思いつくのは、近頃の朝緒の一番の悩みの種の他にない。朝緒はこの屋敷にふらっとやって来ては、人知れず勝手に飯を食って勝手に朝緒の布団を使ってだらだらと入り浸る、桃への文句もすっかり忘れて走り出す。

 向かうのは、この古い屋敷の玄関にもあたる正面入口。朝緒は息を切らして屋敷の正面まで駆けてくると、その大きな木造の戸口を見上げた。


 屋敷の正面には、達筆な字で「如月屋」と記された大看板が立てられている。

 ここは、人ならざる者——所謂、〝異形〟と呼ばれる存在に関する相談や依頼を受け付ける「祓い屋」を稼業とする店であり、朝緒は祓い屋を経営するここ「如月屋(きさらぎや)」で働く従業員の一人であった。


「……よし。まだどこも壊れてな」


 朝緒の安堵の言葉を遮って。

 バキッ! という気持ちの良いほどの破壊音が、朝緒の頬を猛烈な勢いで掠る。恐る恐る背後を振り返ると、朝緒の目の前にあった如月屋の木製の引戸の片方が、綺麗に吹っ飛んでいた。


「……」


 続けざまに、ガシャン! と、屋敷の奥で何かが破壊される派手な音が轟く。


「のわああああああ! 死ぬ! 死ぬ死ぬ死ぬ! 助けて……朝緒!」

「クラゲ!?」


 壊れた戸口の中から、何か白い包みのようなものを抱えた一人の少女が飛び出してきた。

 朝緒に「クラゲ」と呼ばれたその少女の名は、海月(うみつき) 弥朔(ミサク)弥朔(ミサク)は如月屋店主の弟子であり、祓い屋見習いの一人でもある。

 朝緒は半泣き状態で飛び出してきた弥朔を咄嗟に背後に庇うと、小さく息を吞んで、壊れた戸口の向こうにある薄暗闇をじっと見つめた。


「アオ」


 短く朝緒の名を呼ぶ無機質な声が、ポツリと薄暗闇から零れる。今や聴き慣れたはずの声だというのに、朝緒はその声だけで全身の肌が粟立ってしまうのを感じて、大きく舌を打つ。


「そこ退()いて」


 冷え冷えとした声と共に屋敷からぬらりと出てきたのは、スーツをかっちりと着こなした長身瘦躯の男。しかし、肩につくほど伸ばされた艶やかな濡羽色の髪と、線の細い輪郭に凛々しくも可憐な顔立ちから、一瞬女性と見紛うような美丈夫であった。

 男が一歩、また一歩と歩みを進める度。男の右耳に付けられた銀色のピアスが涼やかな音色でチリリ、と鳴く。

 朝緒はこちらに近づいてくるその男の名を、苦々しく呟いた。


「……逢魔(オウマ)


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