プロローグ 流れ星は双花を照らす
今日は特別に素敵な日だった。暗くひんやりとした静寂が私を包む。幸せに触れた日の夜はどうしてこんなにも暖かいのだろう。楽しかった会話が頭をふわふわと漂い、いつの間にか夢へと溶けて行く…
いつもと同じ朝に、見覚えある空が浮かんでいる。変わらない日々こそが幸せだと言う人がいる。時間はまるで光の矢だと、歳を重ねるほどにそれは早くなるのだと、嘆く人もいる。
似た景色ばかり見ているからそうなるのに…
でも私にとって今日は特別に特別だ。モミジと一日過ごすことができる!!
ちゃんと早起きできた。お顔を洗ってメイクの準備をする。ついでにぺちぺち叩いて気合いを入れる。カラコンをつけて、短めの髪を軽く巻いて、服はお気に入りのワンピース。
忘れ物が無いかを確認して家を出る。この後のことを考えると、一歩進むにも心が躍って顔は緩み、体がぎこちなく動いて深呼吸も止まらない!!
晴天を飾る小鳥のさえずりは少女の歩みを祝福していて、しかしそれも耳に入らない。
陽光がいつもよりキラキラと舞う道を行き、心を落ち着けながら待ち合わせの場所へ向かうのだった。
着いちゃった。無事に着いて良かった。モミジはもう着いてるらしい。
辺りを見渡してモミジを探していると、後ろから綺麗な声が響いてきた。
「カエデ!!」
聞き慣れた大好きな声。いつ何度聞いても可愛くて、優しくて、目を離せば消えてしまいそう。
「おはようモミジ。今日もかわいいねぇ〜」
私は満面の笑みで振り返ってそう言いながら今日の彼女を見る。ふわふわとした落ち着いた雰囲気にサイドテール。ゆるい白色のブラウスに紺色の上品なロングフレアスカートが靡く。新しい香水かな?金木犀の香りが気持ちいい…とか考えていると。
「ふふ、あなたには勝てないのよ?さ、まずはどこかに行く?」
「えへへ〜今日はもう決めてあるの!!えーとね…科学博物館!!今日で終わっちゃうの〜ちゃんとチケット取ってあるよ!!」
「普通はそんなにはしゃぎながら向かうところじゃ無いけど…カエデらしくて素敵ね」
「決まりだ〜さあ行こ行こ?」
私はモミジの手を取って歩き出し、彼女はその華奢な手で優しく私を握り返す。私たちは道中他愛も無い話に花を咲かせ、初夏に咲う短い道をゆっくりと進んだ。
薫風の眼差しは幸福な少女たちを包み、深碧の葉音が世界をくすぐる。
昼下がりの太陽もまた、彼女たちの目の輝きを見ると遠慮がちに背中を追った。
博物館に着き、早速色々と見て回る。この星のこと、この宇宙のこと、この世界のこと。色々な化学や物理が紹介されていた。そんな中、少し不思議な雰囲気の展示が私たちの目に入った。
『夢』の科学だ…
科学的には睡眠は脳のお掃除とでも言うもので、夢はその過程での記憶のリピートのようなものらしい。だが、夢の多くは覚えていない。
夢は非科学的にも興味深いものだ。非論理的な世界が映し出され、人々の想像力を掻き立てるそれを、ただ科学的な分析だけで終わらせるのはつまらないと思う。夢は古代から神託や予言と結びつけられ、現代でも夢日記のような都市伝説がある。
『時間の概念』に関するお話だ…
物理的には時間が一方の向きにしか流れないというのは不可思議なことであるという。もし時間が逆向きに動いても、全ての物理法則は成り立つ。私たちは振り子が動いているのを見て、逆再生かどうかわからない…確かに。私たちは「時間が立つと物が散らばっていく感覚」を時間の流れと認識しているけど…それが真に時間の概念かは確定していない。ふむ。
『並行世界』の最新の考察がわかりやすく紹介されている…
並行世界は10^10^118くらいの距離にある可能性がある?多次元宇宙論…観測が世界を分岐させるという仮説。量子力学がなんだって?この話は何回聞いてもわかりづらい…ん〜ちょっと難しすぎる。
—この展示、何が不思議なんだろう。博物館にあるのが変なのかな。いや、じゃあ何故こんな展示があるの?違う、この話、どこかで…
「カエデも気になる?私、何か引っかかる感じがするの…」
驚いたハムスターのように固まっていた私にモミジが話しかけてきた。
「ん〜初めて見たことなのに、知っていた気がするかも?それに、これを知りたがっていたように感じる」
「私もなの。二人揃ってこんなこと、あるの?」
少し考えたが答えは出ない。お揃いで仲良しだしいっか〜!!と笑ってそこを後にした。
他の展示もぶらぶらと見る。モミジはちょくちょく黙ると何か考え込んでいて、私はその横顔に見惚れてしまう。笑顔も素敵なのに真剣な表情も可愛いなんて卑怯すぎる。
見つめていたのにやっと気づいたモミジは、微笑みながら声をかけてくれる。
「一通り見たし、そろそろ出よっか?」
「そうだね〜このままだと遅くなりすぎちゃうから」
博物館を出ると少し赤くなった太陽がお出迎えしてくれて、それを横目に私たちは一伸びする。
「映画館とか博物館とか、出た後ってこうしたくなるよね」
モミジがクスッと笑う、ああかわいい抱きしめたい。
「よしよしどうしたの?寂しくなっちゃった?」
おっと体が心の先回りをしていたようだ…あったかいなぁ…
一瞬の抱擁は彼女たちの永遠であり、一陣の緑風も今は緩慢に吹き抜ける。
夕日も二人を慮ると雲に隠れ、今度月とお話しするのを楽しみにしている。
「はあ〜〜〜チャージ完了!!」
「ふふ、よかった…ねえ少しカフェでも寄らない?カエデもお話したいでしょ」
「よいよ〜この辺ぶらぶらしながら探してみよっか。」
それを聞いたモミジは優しく頷いて私の手をそっと取ると、またゆっくりと歩き出した。
大通りから少しそれた場所で、いかにも年季の入った風のカフェが目に映った。
「私の勘が囁いているよ〜ここにしなよと!!」
「ふふっ、いいとこ見つけたね?このお店にしよっか」
混んでないといいね〜と話しながらお店に入ると、気のよさそうなおじさんが席に通してくれた。
「どんなのがあるかな~とりあえずコーヒーと…」
少し傷んだメニュー表をぺらぺらとめくり、二人で肩を寄せて眺める。
「プリン!こういう懐かしいお店のプリンは食べたくなるんだ〜」
モミジは少し悩んでいるのかゆっくり目に言葉を紡ぐ。
「私は紅茶…ミルクティーかな。あと…チーズケーキで」
私は店員さんに声をかけ、二人分の注文をした。
こうして二人でいると、ご飯を待っている間の時間も楽しい。今日感じたことを語り合う。
「いやー今日も新たな知見を得てしまった…頭良くなっちゃって困る~」
「いいことじゃない。『これでもっと時間がゆっくり流れる』でしょ?」
「そうそう。流石私のことわかってるね〜!」
特に意味も無くモミジの手に触れる。ふにふに。…そのまま話していると店員さんがお食事を持ってきてくれた。
「はい、プリン。一口食べるでしょ?」
ありがと~と言いながら顔を出してくるモミジがかわいらしい。
「ん」
今度は私がお口を開けて待つ。特に何も言わずチーズケーキを食べさせてくれる。
「うん美味しい〜よきよき」
今日見たこと、最近のこと、今度はどこへ行こうか…そんなことを話しながらゆっくりと時間が過ぎていく。もうぬるくなったコーヒーをやっと飲み干してから結構経って、私たちはようやく立ち上がった。
「お会計は私が払うね。チケット分のお礼」
ありがと〜と言いながらなんとなくモミジの手に目をやる。かわいいお財布を綺麗な手が包んでいる。はあ…
お店を出ると辺りは暗くなってきていて、仄かに夜の足音が聞こえてくる。私は軽く体を伸ばしながら言う。
「ちょっとアクセサリー見に行きたいな〜ピアスとか欲しいんだ、新しいの」
「了解。選んであげるね」
そう言いながらカエデは私の髪を掻き上げて耳に触れてきた。くすぐったくって心地よくって笑顔が我慢できない。
「もう!早く行こ!!」
私はくすくす微笑むカエデの腕を掴んで歩き出した。
太陽は暫しの間席を外し、月光の祝福が二人を照らす。
大地から零れ落ちる靴音は星々と踊り、静謐を湛える夜空を彩なした。
モミジと一緒にアクセサリーを見て回る。これとか彼女に似合いそう。でもお揃いとかにしたいなあ。色とか形が近いのにするのもありか?うーん…
「カエデ、これ似合うよ」
そう言いながらモミジが耳にピアスを合わせてくる。
「お揃い?」
「うん、お揃いにするよ」
「ん〜…ならこれにする!」
「どんなピアスか見てないでしょ。いいの?」
「その方が楽しいかな〜って」
「ふふっ、じゃあ買ってくるね」
モミジは軽やかな足取りで歩き出し、私は周りを眺めながら少しゆっくり着いて行った。
モミジがピアスの入った袋を私の胸に押し付けてくる。
「次に会う時、これを付けてきてね?」
「モミジこそ忘れないでね〜私泣いちゃうよ?」
お店を出ると辺りにはとっくに夜が降りてきていて、星が透き通って見える。
そろそろ帰らないとかあ…ありきたりだけど、いつまでもこの時間が続けばと、ずーっと一緒にいられればと、願わないなんて私には無理だ。それに気づいてか気づかずか、モミジが私の頭を撫でてくる。絶対わかってるな。私の表情を見てモミジはちょっといじわるに笑う。
「いやだった?ごめんね」
「いやじゃないよ、なんでやめるの…」
月明かりは二輪の花を静かに讃え、夜風がその頬を優しく撫でる。
穏やかな願いの煌めきに、暗くなった夜が色づいていく。
——夜天を旅する流れ星は昏々と蕩け、世界は鈍色に掻き曇った。
気がついたら私のお家まで着いちゃった。あ〜あ、今日はお開きか…
「また会えるんだから、そんなに寂しがらないの」
「わかってるよ。わかってるけどさ…ね?」
モミジは少し微笑むと優しく私を抱きしめてくれる。夜だから?余計にぽかぽかする。
「気をつけて帰ってね。絶対」
「ふふ、帰ったら連絡するから安心して」
私は顔を彼女に埋めたままこくこくと頷き、頑張って腕を伸ばして彼女の頭を撫でた。
しょうがないから今日の別れを告げ、私はモミジの背中が闇に溶けて見えなくなるまで見守った。その後ちゃんとモミジから連絡がきた。これで安心してお風呂に入れる〜
ああ、今日は本当に素敵な日だった。暗くひんやりとした静寂が私を抱きしめる。幸せに触れた日の夜というのは、どうしてこんなにも暖かいのだろうか。楽しかった会話が泡となり浮かんでは消え、いつの間にか夢へと溶けて行く…
楽しかったです。