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地竜神官の苦悩

夜すらほんのり明るい月長石の都にも、影があり、闇がある。


建物の密集するバルスドーラの四カ所、地水風火の神殿地区。直接日の当たらない通路には月華石の蓄光効果も意味が無い。

しかし魔術師の都でそんなことは何も問題ない。火の精霊を使役して明かりを得るのは初歩中の初歩だ。

ところがそこを明かりもなしに早足で行く男がいる。地竜神殿地区大病院の通路のことは実家のそれよりよく知っている、元病院長にして地竜神官のネルである。

ネルにとって、ノスコン・ダークがこの病院に運び込まれたのは全くのアンラッキーだった。頭が痛い。

元々健康な青年であり実家は薬草屋であるノスコンは病歴らしい病歴がない。通院もなく主治医もいない。


しかし水の地区で瀕死で倒れていたノスコンは、わざわざこの大病院まで運ばれてきたのである。

「こちらの診察券を持っていたもので」

そう。大祭のとき地竜神殿前広場にいた彼は、突然の魔力異常でこの病院に飛び込んできた。

「主治医はネル神官だとカルテにあります」

事実その時診たのはネルである。バルスドーラ唯一の成長した第三世代である彼の失調に、現役神官ながら知的探究心に負けてしゃしゃり出てきてしまった自分が悪い。

挙げ句、神殿のもろもろの多忙を棚上げして大病院に詰める羽目になった。近いうちに神殿の棚は重さで落ちるだろう。

とはいえ重傷のノスコンの命を救えたのは、まったく元病院長であるネルの技術の賜物であった。


ネルがよく知ったその暗い通りから

「わーーっ!!!」

突然の大声があがった。

「『光を』!」

驚いて略式詠唱をとなえれば杖が答える。灯火になった杖が、暗がりに溶け込んでいた男……日焼けして消炭色の作業着を着ていた石工の姿をあきらかにした。

「ネ、ネル神官じゃないですかー!??」

ネルも十分驚いたが、相手はお化けでも見たようにおびえている。

「だって!暗い通路に白い顔が、こう、すうーっ……と浮かんだんですよ!いやあびっくりしました!」

なるほどネルは色白で黒い服を着ていたから、相手から見たら暗い通路に首だけが浮いて見えたのだろう。

「君は……」

大祭の時の記憶がまだ新しい。ゼム・セラレンスス、ノスコンの友人の一人である。

そして彼の母もかつて教授としてこの病院に詰めていた。助手をしていた彼も明かりがいらないほどこの病院の通路をよく知っていたというわけだ。

「教授……セラレンススの息子か。ずいぶん……」


ゼムはネルをよく知らないが

「……変わったな。暗い通路で白い顔を浮かべていたのは君の方だったのに」

紫外線の強い天空都市では、日焼け止めを塗るのは顔を洗うくらいの生活の一部だ。肉体労働にあけくれる石工だけが流れる汗で日に焼ける。

「神官は……オレを知ってたんですか?」

「君は私を知らなかったようだがね」

今44歳のゼムよりネルは10は年上だろう。

「恩師についてここへ勉強に通っていた目立たない学生の一人だった。昔の君は人気者だったね。こんな通路を明かりもなしに白くて細い手足で元気に走り回って……」

そんな少年はすっかり逞しくなり日焼けして見違えた。

「バルスドーラ初の女性神官になるのはセラレンススだろうと話していたのは恩師だ。君のことも、書類も計算も正確で自分の弟子にできないことを悔しがっていた。私は君に嫉妬した。もちろん彼女は無料の助手を手放さなかったが」

「あの」

言葉尻に毒を感じてゼムは反発した。

「あなたはオレの家族のことを、搾取とか、そういう風におっしゃいますが」

母の研究には多額の費用が必要で、利発な息子のお陰で助手分の給金を減らせたのは事実だ。くわえ借金と父の介護と妹の養育を全部息子に投げて突然亡くなったことも。

「何度も言いますがオレは後悔してません。だって家族が助け合うのは当然じゃないですか」

迷いなんてひとかけらもない瞳で言うものだから

「……ああ」

ネルはそっと反対側に顔を向けた。

「やはり私は君に嫉妬していたようだ」

神官の表情は見えない。

「家族というものには縁がなくてね」

交わされない視線にゼムは全身を固くした。

そのまま神官は片手をあげて

「父君の本も実に興味深く読ませていただいていた。惜しい方だった」

唐突な言葉を残して去っていった。

「……え……?」

本当に予想外だったのでゼムは呆けた。

「……あ……あれ?……あんなの……??」

医師であり神官であるネルという男が途端にわからなくなって、先刻自分の心に抱いたものさえゼムは忘れてしまったようだった。


<続>

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