カボチャのスープ
彼女は鏡を見ていた。
そして、じっくりと顔の点検をした。
目尻のシワの具合や変な所に毛が生えていないか、ニキビができていないかと、いくつかの要点を丁寧にチェックし、それが終わると、鏡をテーブルの上に置いた。
さやかはその日も仕事に打ち込み、気づけば、あっという間に時間が過ぎていった。
今晩、あきなが部屋に来て一泊する事になっていた為、さやかは仕事が終わると、真っ直ぐ家に帰り、部屋を片付け、冷凍していたストックからご飯を作りはじめた。
昨晩作ったカボチャのスープも温め直した。
友達とお泊まりするなんて、もう随分久しぶりだった。
最後がいつだったのか思い出せもしなかった。
準備がひと段落し、十五分ぐらい経った時、あきなが部屋にやってきた。
さやかは駆け足で玄関に向かった。
ドアを開けると「よっ!」とあきなはいつも通りのテンションと笑顔だった。
それは一昨日の電話の声からは想像できない程の落差だった。
さやかは見慣れた友人の顔を見た。だが、特に目などが腫れている様子はなかった。
「全くもう最悪よね〜。こんな事があるなんて。ドラマかよって思ったわ」とあきなは明るいテンションでそう言った。
さやかはその事について特に何も言わずに、あきなを部屋に招き入れた。
あきなは部屋に入ると「はいこれ、お土産」と言って、職場の近くにあるという有名な洋菓子店のケーキを手渡してきた。
さやかは受け取りながら「ありがとう」と言うと、あきなは「いえいえ。へぇ〜変わってないね〜」と部屋を見渡しながら言った。
「まぁねぇ」とさやかは言ったが、もうそろそろ引っ越しをしたかった。だが、それも面倒で、重い腰が上がらなかった。
「さやかの部屋に来たのは三年ぶりぐらいかな?」とあきなは言った。
「嘘でしょ!?そんなに来てなかったっけ?」
「うん。三年以上は来てないと思う」
「随分前だね。それなら、久しぶりだね」
「時の流れは速いね。怖いわ」とあきなは言った。
さやかはあきなをテーブルの椅子に座らせた。普段、さやかが使っている椅子だ。そして、今日、さやかが使うのは部屋の隅で埃を被っていた折り畳み椅子だった。
「さっそくご飯にする?」とさやかは聞いた。
「いいよ!何か手伝おうか?」とあきなは言ったが、
「大丈夫。もう作ってあって、温めるだけだから」と言い、さやかは断った。
「へぇ〜なんだろうな〜」
「煮込みハンバーグだよ。」とさやかはすぐ答えを言った。
あきなは見てもいないのに「良く煮込まれていて、美味しそう〜」と言い、さやかはそれにちゃんとツッコんだ。
さやかは一人だと作る事はない量と盛り付けにも手の込んだ料理をテーブルの上に手際よく並べていった。
煮込みハンバーグ、サラダ、玄米ご飯、そして、カボチャのスープだ。
ニ人はさっそく、食事をはじめた。
「さやか、プロじゃん」とあきなは並んだ料理を見ながら言った。
「いや、ネットのおかげだし、いつもはもっと手抜き。今日は仮初だよ」とさやかは笑いながら言った。
二人は食べ始めた。
さやかは自分で作っておきながら、美味いと思った。
あきなも美味しいと言いながら、どんどん食べていった。
時折、あきなのオーバーなリアクションにさやかはツッコミながらも、食事を続けた。
さやかはいつも通り、このまま時間が過ぎればいいと思っていたが、勿論、婚約解消の話は避けられない話題だった。
「いい人だったでしょ?」とさやかが昨日会った、あきなが紹介してくれた男の話にまずなった。
「まだわかんないけど、まぁそうだと思う」とさやかは言った。
「さやかとお似合いだと思うけどな〜」とあきなは言った。
あきなは男の元カノとの別れ話をどれほど知っているのだろうか?とさやかは思った。
男は昨日、あきなにその話を少ししたと言っていた。そして、さやかは昨日男と話した内容の触りの部分だけをあきなにも話した。
まるでお互いにカウンセリングみたいだったと。
あきなはその話を聞きながら笑った。
あきなはその男に会った事があるのは、三回だけで、それもグループの飲み会の場で、何度か話をした事があった程度だが、彼の元カノ話は深くまで知らないと言った。
それと、あきなはあの男になぜ私を紹介したのか?という昨日、強く疑問に思った事を聞いた。
すると、あきなは「私の勘よ。なんか、二人はちょっと雰囲気が似ているのよね。上手く言葉にできないけど」と言った。
「なんだそれ」とさやかは少し笑って言った。
「けど、良い人だったでしょ?の質問に、まぁそうだったと思うって、さっき言ったじゃない」とあきなはからかってきた。
ニ人は晩ご飯を食べ終え、今度はあきなが持ってきてくれた、ケーキを食べ始めようとした。その時、ようやく婚約解消の話に足を踏み入れた。
さやかは自分が作った食事の最中に、その話を持ち出さなかったのは、あきななりの気遣いだったと思った。
「一昨日はごめんね。いきなりあんな電話しちゃって」とあきなはまた謝ってきた。その声音は今さっきまでとは、少し違い弱弱しかった。
「大丈夫だよ。謝らなくていい」
「けど、タイミング悪かったし」
「全然、タイミング悪くないよ」
「なら……良かったけど」
「うん。気にしないで」とさやかが言うと、あきなは言葉を発さず、目を次第に赤くしていった。
抑えていた感情が少しずつ、溢れてくるのが目にとれた。
「ごめんね、情緒不安定で」とあきなは言い、鼻をすすった。さやかは立ち上がり、ティッシュ箱を持ってきて、テーブルの上に置いた。
「まぁ、色々あるよね」とさやかが言うと、あきなは小さく頷いてから口を開き、ゆっくりとその話を語り出した。
婚約解消の原因は彼の浮気だった。そして、その浮気はニ年も続いていたという。
浮気相手の女が二人の結婚話を聞きつけ、あきなたちが同棲している部屋へと怒り心頭で現れ、そのニ年間の出来事を事細かく話したのである。
その時、あきなは訳も分からず、パニックに陥った。前触れのない出来事に感情の拠り所が見つからなかった。
そして、その出来事は、さやかとカフェで会った日の夜の事だった。
一旦、話の途中であきなは、「信じられる?」となんとか明るい顔をしようとしていたのだが、表情とは裏腹に、どんどん涙は溢れていた。
あきなは目に涙が溜まる度に、畳んだティッシュで抑えていた。
その後、話がさらに詳細になるにつれて、あきなはさらに泣きながら話をした。
耳を塞ぎたくなるような話が沢山あった。あきなは苦しみながらも、その話を続けた。
さやかはその話を聞きながら、何度も信じられないと思ったのだ。
あきなはまだ彼に思いはあると告白したが、浮気された事はどうしても許せない、今は心がバラバラになっている気がすると言った。
さやかはあきなの話をただ聞いて受け止めた。友人の心のこりをほぐすように、頷き、話を聞いた。さやかに出来る事はそれぐらいだった。
どうしてあきながこんな目に遭わないといけないのだと思った。
さやかはあきなの元婚約者とは何度か会った事があった。
ニ人の関係は五年ぐらい続いていたはずだし、あきなの元彼はそんな事をする人の様には到底思えなかった。
あきなは話を終えると両肘をテーブルに置き、ティッシュで両目を抑えた。
さやかは立て続けに二組のカップルの別れ話を聞いた。それにニ人とも傷ついた側の人の話だ。
さやかはその話の間ずっと、小さなフォークを握っていたのに後で気が付いた。
あきなはしばらく同じ体制のままだったが、気持ちがひと段落したみたでこう言った。
「カボチャのスープ、おかわりできる?凄く美味しかった」
あきなの目の前には先端部分だけが削られたケーキがまだあったのだが、さやかは「あるよ」と言い、立ち上がり、カボチャのスープを温め直し、新しい容器に入れてあきなの目の前に出した。新しいスプーンも用意した。
顔を上げたあきなの顔はほんの少しだけスッキリした顔になっているように見えた。
「ありがとう」とあきなは言って、スプーンでカボチャのスープを掬って、口に運んだ。
さやかはあきなのその顔を見てから、食べかけのケーキを食べながら、深い海の底にあったカボチャの夢の話を唐突に始めた。
さやかも気づいたら口にしていたのだ。もうつぎはぎの記憶になりかけた、その夢をもう一度頭の中から引き摺り出し、あきなに話した。
その話を聞いて、あきなは作り話だと少し笑った。
さやかも笑いながら、否定した。本当にそういう夢だったと。
大きなカボチャと私の足が繋がれていたと。あきなは笑い、涙を拭きながらこう言った。
「だから浮上する為に、カボチャを食べるんだね」と。
「浮上する為に、カボチャを食べる。」
さやかもその言葉に対して笑ったが、心の底ではそうかもしれないと思ってしまった。カボチャを食べる事によって、私は解放されるのだと。
「で、最後は笑いながら目覚めたの?」とあきなは聞いてきた。
「笑ったのは確かだけど、起きた時はなぜか泣いていたの」とさやかは言った。
「なんだその夢」とあきなはまた笑った。
それからニ人は深夜遅くまで話をした。
なるべく明るい話を選び話した。少女だったニ人は、昔に戻ったかのように、楽しかった思い出を話し合った。もう二度、戻れない時代の話を。
さやかは大学生時代に長く付き合っていた彼と別れ、一人で泣いていた。
その話を耳にしたあきなは寒い冬の夜の中、さやかの家に駆けつけて来た。
そして、新しい太陽が顔を出すまで、慰めてくれたのだ。
さやかは今、あきなと話ながら、そんな過去を思い出していた。
そして、笑い話の途中で、ふと時計を見ると、その間も時計の針はずっと動き続けていた。
さやかはこの瞬間の儚さを胸に感じながらも、さらに話を続けた。
カーテンの隙間から、朝日が溢れていた。
この季節にしては力強い、陽の光だった。朝になると、さやかはあきなより先に目を覚ました。
あきなは背の低いテーブルの横に布団を敷き寝ていた。チラッと見える寝顔は十代の頃のままだとさやかは思った。友人を起こさぬように、静かに朝の支度をはじめた。
日課の顔のチェックはしなかった。それは勿論、あきながいるからだ。
だが、その暇もなく、ちょっとした物音であきなはすぐに目覚めた。
「おはよう」とあきなは言った。
「おはよう」とさやかも言った。
今日はニ人とも休日だった。だが、あきなはこれからやる事がいくつかあるという事で、朝のうちに帰る事になっていた。
さやかは朝食の準備に取り掛かった。あきなは持ってきた寝巻きを脱ぎ、昨日着ていた服にまた着替えた。
さやかはそんな朝を不思議に思ったのだ。誰かが居る事で、彼女自身の行動も変わる。
環境が変わってしまえば、思考も変わるのだ。それはとても大切な事だと、久しぶりに感じていた。
ニ人の朝食はトーストとまだ残っていたカボチャのスープだった。食事を始めるまでは静かだったが、あきなはカボチャのスープを一口食べてから、こう口に出した。
「さやかがさ、歳取るのが怖いってよく言っていたじゃん。心も年齢のずれも気になるって」
「うん」さやかはと言った。
以前何度も、あきなに歳を取るのが怖いと話した事があった。だけど、皆んなそうだよ、特に女子は。だから今を楽しもう!と言われ、いつも深い話にはならなかった。
「私も急に怖くなったんだよね。彼と別れてから。五年も彼と一緒にいたのに、また振り出しに戻った
気分で……私、今から新しい恋をしようなんて、考えられないけど、結婚を早くしたかったから……」と言うと、再び暗いムードが部屋に漂い始めた。
「今、新しい恋をしたとして、結婚しても三十……子供は三十一か二……昔思い描いていた未来と今が全く合ってなくて……ただ歳を取っただけな気がして……それこそ、気持ちとしては、海の中に沈んでいくみたいな感じ……」
あきなは話しながらも、恐らく感情をあきな自身でも、コントロール出来ず、渦に巻き込まれているような感じがしてとれた。
「けどさ、このカボチャのスープ……」と言ったところで、あきなは少し笑った。
「このカボチャのスープのおかけで、また浮上できそう」
さやかはその切り返しに笑って「馬鹿にしてんの?」と言った。
あきなは笑って、ちょっと頷いた。
「そんな事言ったら、私もどうすんの?って感じだよ。現代じゃ、三十代で結婚、子供を産む人も沢山いるからね。そんなに悲観する事じゃないよ」とさやかは強い口調であきなにそう言った。
二人は温かいカボチャのスープを飲み終え、それぞれ朝の支度をし、玄関まであきなを見送り「またね、ありがとね」と言いお別れをした。
さやかは部屋に一人っきりになると、またいつもの彼女に戻りそうだった。
環境が心を変える。それはよく分かっているのだが、環境から抜け出すのは難しかった。今いる環境は私たちの足を強く掴むのだ。
さやかは皿洗いをし、部屋の掃除をした。
そして、ベランダに出て、見慣れた風景をしばらく眺めた。
外の風は相変わらず冷たいが、あの力強い陽光を浴びたかったのだ。
ここに引っ越してきてから、街の風景は少し変わっているはずだった。
だけど、その変化が彼女にはよくわからなかった。分かるのは看板の張替えぐらいだった。
一方、私はどうなんだろう?と彼女は思った。ここに来てから、何か変化があったのだろうか?
それからさやかは数日間、毎朝の日課をしなかった。
鏡は見ていたのだが、細部までは見なかった。
友人には悲観するなと言ったのに、彼女は自分自身を悲観していたのが嫌になったのだ。
それからまた、いつも通りの日常を過ごし、淡々と若さを失っていた。
だからといって何か新しい事を始める事もしなかった。
季節は新しい季節へと足を踏み入れている気がしたのに、彼女は置いてけぼりな気分にもなっていた。
耳をすませば、足枷の鎖の音がまだするのだろうか?
私はまだ水面下にいる。私はまだ浮上できていないのだ。
続きます。
読んでいただき、ありがとうございました。