理由なき別れ
翌日の朝、さやかはあきなに今晩会えるかどうか?と連絡した。
あきなは、「昨日はごめんね。今日、会う約束の日でしょ?前日にあんな電話してごめんね。気が合うといいね」と早朝にも関わらず、すぐ返信をして来た。
さやかは事前に今日男と会う事をあきなに連絡していたのだ。
そして、あきなはそんな日の前日に電話してごめんね。と何度も謝ってきた。
さやかは、「まぁ今回はパスでいいかな」と返信をしたら、あきなは「会ってきて!ニ人に悪いから!」と笑顔の絵文字をつけて、また返信してきた。
それはこのやり取りでの初めての絵文字だった。
それで予定はそのままにし、仕事終わりに男と会う事にした。
さやかはスマホをカバンにしまい、気持ちを切り替えようと、朝の支度を急いではじめた。
だが、その間ずっと、女の幸せは、どういう男と結婚するかで大きく左右される、祖母のその言葉がまた彼女の心の中で、波のように寄せては返すのだった。
彼女は初めて会う誰かが、女性の場合、お洒落を意識し、男性の場合、いつも通りの服装をした。
友人のあきなが紹介してくれた男とは仕事終わりに会い、食事をする事になっていた。
だが、彼女はいつも通りの服装をした。
変に異性を意識し、着飾る事はしたくなかったし、そもそも、この出会いをどうにかしたいという気持ちも未だに芽生えて来なかったからだ。
職場でさやかはいつも通りに仕事をこなした。
あきなの事も考えず、仕事終わりに男と会う事も考えなかった。
一度、深く考え始めると、仕事に支障が出そうだったからだ。
そして、昨日のように残業もなく仕事が終わると、エチケットとして身嗜みを整え、職場で歯を磨き、待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせの場所は、さやかの職場の近くの小洒落た大衆向けレストランだった。
さやかは以前にあきなと一緒に来た事があるし、男の方も来た事があったようで、男の指定でその場所になった。
男は少し離れた職場からわざわざそこまでやってくる事になっていた。
さやかが先にレストランに到着し、すぐ分かるように入口に一番近い席の入口方向を向いた椅子に座って男を待った。
人を待つのも久しぶりなような気がした。
店内にはカップルらしき男女の姿もあった。
そんなカップルを見ると、さやかは今から何を男と話すのだろうと思ってしまった。だが、別に緊張はしていなかった。
席に座ってから十分ぐらいが経過した。
とりあえず注文しておいた紅茶が届いても、さやかは一口も口にしていなかった。
仕事モードから解放された思考で、彼女は今から会う男の事ではなく、あきなの事を考えていた。
あきなは今、大丈夫なのだろうか?と心配していたのだ。
しかし、そればかりを考えていても埒が明かない。
さやかは暇を潰す為にメニュー表を見たり、スマホでニュースをチェックしたりしていた。
だが結局、あきなの事が頭に思い浮かび、あきなに、明日、泊まりに来ないか?と誘いのメッセージをしておいた。
今、さやかができることは、慰めの言葉をかけるより、一緒にいる時間を作る事だろうと思ったのだ。
それから程なくして、約束時間の十分前に男は姿を現した。
誰かが入店した時に鳴るベルの音で、さやかはスマホをカバンにしまい、姿勢を正した。姿はまだ見えなかったのだが、女の直感だった。
そして、直感通り、男は姿を現した。一目見ただけで、あの男だと確信できた。
さやかは視線をお店の入り口の方にずっと目を向けていた。
すると、男は店員さんの方を見る前に、店内、さやかの方をチラッと見てきた。そして、さやかと目が合った。
それから、男は駆け寄ってきた店員さんに視線を向け、「待ち合わせです」と説明し、さやかの方向に手を向けた。
さやかと同様に、男の方も一目でさやかの姿に気づいた様子だった。
そして、男は店員さんとの話が終わると迷う事なく、こちらに近づいてきた。
その瞬間、流石にさやかの鼓動は早くなった。足音が近づく度、更に鼓動は早くなった。
男はさやかが座っているテーブルに数歩足らずで来ると、少し張りのある声で「深津さんですか?」とさやかの名字を言い、本人かどうか確かめてきた。
まるで何もかも知っている探偵が犯人の名前をわざわざ言うかのようだった。
さやかは「はい。そうです」と言って、椅子を引き、立ち上がった。
それから、「あぁ、どうも、こんばんは、はじめまして」と男は白い歯を見せながら挨拶をしてきた。
対面で合うと、見せてもらった写真とでは受ける印象が全く違うなとさやかは思った。
確かに顔はそのままだが、写真で見るより背が高く感じ、下ろしていた前髪はワックスで後ろに固め、服装はシンプルなものではなく、ドレスライクなものだった。
さやかも「こんばんは、はじめまして」と業務的な挨拶を返した。
今度は何かの商談が始まるかのような対応だった。
ニ人は席に座ると、店員さんが男の分のメニューと水とおしぼりを持ってきた。
男は店員さんの目をしっかりと見てから、少しダンディな声でお礼を告げた。
さやかはその時、個性的でいい声だなと思ったと同時に、聞き覚えのある声のような気もした。
それから二人はまず食事を頼んだ。
お互い、この店に来た事があるからなのか、メニュー選びはすんなり決まった。
「お腹、減っていますか?」と男は聞いてきた。
「まぁ、ぼちぼちですかね」とさやかは笑顔で答え、「減っています?」と聞いた。
「僕は空いていますよ。腹ペコです」と男も笑顔で答えた。
「そうなんですね。……ところで、あの、かっこいいスーツですね」とさやかは男のスーツに話題を振った。
「いや、普段、仕事は私服で、もっとカジュアルなものです」と男は少し恥じらいがあるような感じで言った。
「そうなんですね」
「はい。ですから、これは今日の為の仮初です」と男は笑いながら正直に言った。
その後、二人は天気の話、このお店の小話などもした。
メッセージでやり取りしていた人と初めて会うのは、やはり独特の雰囲気が漂うものだった。
だが、さやかの目には、男は気張らずに、とてもリラックスしているように映った。
本格的な会話の始まりは、まずニ人を繋いだ人である、あきなの話だった。
さやかは勿論、あきなの現状の話はしなかった。
男はあきなを明るくていい子だと褒めた。それに、よく気を使う子だと。
さやかはそれに同意した。
出合って八分ぐらい経った頃にさやかは感じ取ったのだが、二人の会話のテンポ、間合いはよく、スムーズだと思った。
ここでつまずくと、後が大変なのは過去の経験から分かっていたのでまず一安心だった。
しかし、逆に言えば、男に女性慣れをしている感じも取れた。
一方で、メッセージでやり取りしていた時にガツガツ来る印象とは違い、落ち着きのある感じが意外だと思った。
それは男が仕事終わりで疲れているからなのか、そこまでは分からなかった。
あきなの話が終わると、さやかは話題に困り、男の仕事について少し聞いてみた。
男は軽く笑みを浮かべてから、仕事について話を始めた。だが、IT関連の事について彼女は疎く、相槌を打っていたが、出てくる単語などがよく理解できなかった。
そして、話の最後に、「こんな話をしても、まぁ面白くはないですよね」と男は笑いながら言った。
「いえいえ、そんな事ないですよ。私の知識不足ですから。聞いておきながら、すみません」と言った。
さやかはもう、恋愛のドキドキ感を楽しむより、安心感を得られる方を好んでいた。
だから、今日は最初から自分自身をさらけ出すつもりでいた。
それと、何となくだが、さらけ出しても大丈夫な相手だろうと思った。
そうこうしている内に、二人の前に注文した料理が届いた。
立派で美味しそうな料理だったが、味わう事より、慎重に食べる事に意識を優先しなくてはいけなかった。
さやかは料理を曲芸みたいには食べず、丁寧な所作で食べ、男と趣味の話やよく行く場所の話、苦手な食べ物など、当たり障りのない話をした。
さやかはさほど面白くない話でも愛想笑いをしたり、苦手な豆が入ったサラダを残さずに全部食べたりして、相手にあまり悪い印象を与えないように振る舞い、話をしていた。
私自身も仮初なのだと思っていた。
そして、お互いがメインディッシュを食べ終えた時、さやかは自分の足元に来たボールを拾い、今までとは違い、鋭い会話のボールを投げはじめた。
いつまでもこうしてはいられない。やはり、自分自身をさらけ出したい気持ちが出てきたのだ。
さやかは特に脈絡もなく、元彼の話をし出した。
数ヶ月前に別れた男の話だ。
初対面でそんな話をするべきではないと勿論、分かってはいたが、彼女は自分の経験、意見を伝えたかったのだ。
それは昔の彼女では確実にしなかった事だった。
何が彼女をそうさせたのか、やはり、あきなの事でこの出会いを発展させるつもりがない為なのか、それとも年齢的な事なのか、はたまたその両方なのか、それはわからなかった。
さやかは少し駆け足だったが、自身の恋愛についての経験や意思を話した。
だが結局、途中でボールはブレ始め、速度が落ち、終わり際に来て、私、何話しているんだろう?とアホらしくなり、最後は適当にはぐらかして話を終えてしまった。
だが、男はその間、話を黙って聞き、「そういう男性もいるもんです。共感性の欠如、僕にもあるかもしれません」と笑って言った。
その後、「僕にも似たような話があります」と次の話は自然と男の元彼女の話になった。
さやかはその展開に少し驚いてしまった。
二人の会話は、商談話の雰囲気から打って変わり、久しぶりに会った同級生みたいな感じになっていた。
男は話を始めた。
「僕の場合、別れたのはもうニ年前以上です。彼女は僕より歳上で、四年付き合っていたんです。こう言うのも何ですが、僕は結婚する気があったのに、向こうは無かったんですよ。
彼女の年齢の事もあって、と言うのは失礼かもしれませんが、まぁ実際、年齢の事も考えつつ、僕から結婚の事を何度か口に出しました。だけど、その度、彼女にはぐらかされて、終いには僕が振られる形になりました」と言って笑った。
「あっ、あの、元カノさんの年齢はおいくつでしたか?もし宜しければ……」とさやかは話の途中で聞いた。
男は「六つ上でした」と即座に答えた。
さやかは「そうなんですね。すみません、話を遮ってしまって。別れの原因、何か心当たりとかあったんですか?」と続けて質問をした。
そして、さやかは今の自分と男の関係を奇妙な物だと改めて心の中で思った。
「心当たりはないですね。全くわかりません。僕が知りたいくらいです。同棲していても、喧嘩をほとんどした事なかったんです。二人とも仕事をしていて、家事も分担で協力してやっていました。こんな事を自分で言うのもなんですが、僕は彼氏、もしくは夫にするなら、そんなに悪くないと思うんですよ。だけど、ある日、彼女は急に別れようと言ってきたんです。そう!その前日、一緒に遊園地に行っていたんですよ!信じられますか?」と男はずっと笑顔だったが、その目にはどこか哀しさが見て取れた。
「……それはなかなかですね」とさやかは言った。
「いきなりそう言われても、はい、別れましょうなんて、勿論言えなくて、理由を教えて欲しいって言ったんです。だけど、彼女の答えは、あなたの事は嫌いにはなってないの、だけど、別れて。の一点張りだったんです。もう意味不明、お手上げですよ。
ちゃんとした答えが欲しいと聞き返しても、結局、明確な返答を得られずに、彼女は出て行きました。恐らく、僕の想像ですが、他に男がいたと思います。そう思わなきゃ、僕がやってられません。僕の完全否定ですから。だけど、もしいるとしたなら、そういう素振りを全く見せなかった。彼女は仕事が終わっても、すぐ帰ってきて、休日は殆ど一緒に過ごしていましたから」
さやかから見ても、男は話ながらテンションがどんどん下がってきているのが分かった。
「本当に理不尽だと思いませんか?その別れは本当に堪えました。理由が分からない別れほど、心に突っかかりができ、忘れられないものはないです。何がいけなかったのか、改善のしようもありませんから。で、更に堪えたのは、数ヶ月後、どっかの男と結婚したという噂を聞いたんですよ。それにはね、もうね、本当に……心が折れました。僕の想像が当たっていたというか、そういう次元ではないですが、あの四年間は何だったんだろう?と心底思いましたよ。空白の四年です」
男は辛そうな顔をして、次の言葉を探していた。
さやかはその元カノがどんな人なのかと、一度見てみたくなっていた。だが、勿論、そんな事を聞けるはずはなかった。
「それから、少し女性不信になってしまいました」と言った。
さやかはそうなってもおかしくないと思い、頷いた。
「それ以降は、新しい恋をするというより、今までずっと仕事に打ち込んできたんです。けど、まぁ今、僕はこうやって、出会いを求めているのですが……こうやって女性とニ人で食事をするのもニ年ぶりです。あきなちゃんからの紹介で、今こうして、僕はさやかさんに会っているんです。ずっと深い海の底に沈んでいた気分から、今はちょっとだけ浮上している気分なんです」と男はまた笑いながら言った。
さやかはその言葉への上手い返答が思いつかなくて、「なんで、私と会おうと思ったんですか?」と率直に聞いた。
「綺麗だと思ったからですよ」と男は恥ずかし気もなく言った。
さやかは面と向かってそう言われると、動きが一瞬止まった。だが、その後、「あ、ありがとうございます」と謙遜せずに言った。
「あきなちゃんに今の話を飲み会でほんのちょっとだけしたんです。そしたら、親友の美人さんを紹介しようか?という話になったんです。後日、写真を見せてもらったら、本当に美人で驚きました。勿論、実際にお会いした方が、美人だなと思っていますよ」
さやかは今度、謙遜して「いえいえ」と言った。
あきなはどういう意図、経緯で、私を紹介しようと思ったのだろう?とさやかは思っていた。
その後もニ人はあれこれと話をした。
さやかがその話題を振ったのだが、過去の恋愛話は結局、男の方がよく喋った。さやかは途中で、男は誰か知らない女性と話をしたいだけだったのではないか?と思い始めた。
内に込めたものを解放し、リハビリを込めた何かを感じたのだ。
「女性というのは分からないものです。僕にはニ人の姉がいます。姉たちは二人とも結婚していますが、今でもよく集まり、姉たちとは仲がいいです。昔、姉たちにその事について、話した事があります。姉たちは、僕を慰めてくれました。それはロクな女じゃないとか、なんとかって。けど、女の心の動きは読めない所もある。って言うんですよ。男の心の動きとは違うのよ、と。勿論、そんな言葉で慰められなかったですけど」と笑った。
「僕はあれから随分、元気になりました。ですが、心の傷は見えないし、癒え難いもんです」
一通り話し終えると、男は明日も仕事だからと言うことで、また会いましょうとニ人はそそくさとお店を出た。
外の空気は店内と随分違い、夜風を浴びると、さやかは身震いをした。
「なんか色々と喋ってしまって、すみませんでした。こんな予定ではなかったんですが……ではまた今度」と男は笑顔で言い、二人はそれぞれ別の方向へとあっけなく歩き出した。会った時間はニ時間半ぐらいだった。
さやかは男の後ろ姿を見送った。街に溶ける男の後ろ姿を見ていると、そんな恋愛をして来た人のようには見えなかった。人は見かけではわからないものだと思った。
さやかが歩き出して数分後、早速男からお礼のメールが来ていた。さやかはすぐ返信をし、また会う日時の約束をした。
なんかのカウンセリングみたいとさやかは思った。だけど、どちらかが医者ではなく、二人とも患者みたいだなと。
現在の時刻は二十一時三十分になっていたが、さやかはそのまま家の近所の二十四時間営業のスーパーに寄る事にした。
男と話した内容をゆっくりと咀嚼しながら、寒い夜の道を歩いた。
男の元カノはどうして男と別れたのだろう?と思った。
話を聞いた限りでは、その元カノの心の動きは、同性としても理解できなかった。
そして、男に対しては、悪い人じゃなさそう、そう印象として受け取った。しかし、さやかは自分の勘がそんなに当たらない事も理解していた。
さやかはスーパーに入り、カートは使わず、かごを手に取った。勿論、今日はもう何も食べるつもりはない。明日、友人のあきなが泊まりに来る事になったのだ。一時間前にそう連絡が来ていた。
何かしらの食材は冷蔵庫にあるが、念のため、適当に何かを買って帰ろうと思ったのだ。
彼女は入口近くの野菜売り場ですぐに足を止めた。目の前の小さなカゴに、四分の一カットにされたカボチャが売っているのが飛び込んできた。
「カボチャ」とさやかは口にした。
そして、彼女は薄っすらと夢の記憶を手繰り寄せながら近づいた。カボチャの籠の目の前に着くと、丁寧にラップで包装されたカボチャを一つ手に取り、その鮮やかで深い色をしたカボチャの様子をゆっくり眺めてから、カゴの中にそっと入れた。
買い物が終わると、さやかは急いで帰宅をした。
ビニール袋から買った物をビニール袋から出し、冷蔵庫に入れた。カボチャは台所に置いておいた。
手洗いを済ませて、カボチャをカットし、電子レンジに入れ、それから着替え、牛乳やバター、コンソメスープの素を用意し、玉ねぎを炒め、カボチャのスープを作りはじめた。彼女はその時、無心になっていた。そして、あっという間にカボチャのスープを完成させた。
その気分のまま、次にさやかはあきなにメールをしようとしたが、もう遅い時間だったし、どうせ明日会うのだからと送るのをやめた。
料理道具などを洗い、押入れに仕舞ってある来客用の寝具を数年ぶりに出し、乾燥機にかけておいた。
その後、お風呂に入り、上がるとすぐにベッドに入った。平日にしては随分遅い時間だった。
ベッドの中で、さやかは男の話をもう一度思い出してみた。突然、理由もなく別れを告げられた男の話を。そして、彼女自身が過去にしてきた別れの告げ方を。
「心の傷は見えないし、癒え難いのだ」
ある所で、さやかは自分の思い出から目をそらした。
そして、音のない深海を目指すかのようにそっと目を閉じた。
読んでいただき、ありがとうございます!
続きます!