失われていく資産
彼女は鏡を見ていた。
そこには二十八年間、見慣れた顔があった。
そして、じっくりと鏡を観察した。観察しているのは勿論、鏡の作りなんかではない。
慣れ親しんだ顔の目尻に皺、まだ張りがあると言える頬にシミ、ほうれい線などが出来ていないかと確認しているのだ。
何より真剣な目つきで、何か見落とす物がないように、細部まで確認をしていた。
「何もできてない」
彼女はそれが確認できると、深いため息をついてから鏡をテーブルの上に置いた。それは近頃、彼女にとって、毎朝の日課の一つになっていた。
毎日、鏡で顔を観察したからと言って、何かが大きく変わる訳ではない。
そんな事は彼女も分かっていた。
しかし、それが日課になってしまったのは今年の正月に実家に帰った時、五つ下の弟の何気ない一言からだった。
「姉ちゃん、老けた?」
唐突なその言葉に彼女は一瞬沈黙をしてしまった。
そして、その言葉を発する事に対して、なんの悪気も感じていない様子の弟に向かって、
「まだ早いわ!」と怒りを込めた返答をしたのだ。
だが、家族の団欒がひと段落した後、彼女は賑やかな正月番組を付けながら一人でソファに座っている時に、その内心で誰でも歳を取るし、実際に私も老けたのだろうと思ってしまっていた。
彼女は歳を取るのが怖かった。
最近になって若いうちでは気づけなかったその大切さを思い知ったのだ。
どこか体力が落ち疲れやすくなり、ちょっとした体質の変化にも気づくようになっていた。
彼女は二十八歳だった。
その事を母親に相談すると、「何を言ってんの?まだ若いじゃない」と言われ、職場でそれとなく年齢に関する悩みを話した時、年上の女性の先輩に「喧嘩売ってんの?まだまだ若いわよ」と笑いながら言われた事があった。
確かにまだ二十代であり、悲観する年頃ではない。
しかし、二十歳を過ぎてからの時間の経過の速度を考えてみると、若さなんてものはあっという間に消えてしまうのだろうと思っているのだ。
それに加え、肉体年齢と精神年齢のずれも気になっていた。
子供の頃、想像、想定していた大人と今の自分とでは随分ギャップがあるように感じていた。
だからと言え、ギャップを埋める為に具体的な行動をする訳でもなく、年々そのずれの溝が段々と開いていくのをただ傍観しているだけだった。
彼女 深津さやかは独身だった。
最後の彼氏とは半年前に別れていた。
その人は久しぶりにできた彼氏だったのだが、二カ月ほどで別れてしまったのだ。
その彼と付き合う前、深津さやかは勤めている不動産会社で仲のいい同僚に恋愛相談をしていた。
社内で恋愛相談をしたくなかったのだが、ここ数年、社外ではいい出会いがなく、誰か良い人がいないか?とちょっとした出来心で聞いてみたのだ。
それで、紹介されたのが、半年前に別れた彼だった。
深津さやかは彼を紹介されてから、その彼と、とんとん拍子で交際まで至った。
初めて二人で食事をした時、彼女は直観でこの人がいい!と思ったのだ。
そんなに重視している訳ではなかったのだが、彼は有名企業に勤めていたし、仕事へのバイタリティもあったし、場を楽しませる富んだウイットも持ち合わせていた。
三回目のデートも彼女から誘ったのだが、そのデートの別れ際、予想外の事に、彼の方から告白され付き合うようになった。
その後で彼から話を聞くと、彼の方も付き合う事に最初から乗り気のようだった。
だが、彼女からアプローチした恋愛も、二カ月後には彼女の方から別れを告げた。
彼は最初、なかなか引き下がらなかった。別れの理由がよく呑み込めなかったからだ。
だが、彼女は何度も謝り、半ば強引にお別れを告げた。
その別れの理由は、付き合っていく内に外側の皮が剥がれ、内側から見えてきた彼の共感能力のなさだった。
他者への共感能力の低さに、彼女は次第に冷めていったのだ。
その事で、彼女は自分の直感、見る目の無さを痛感し、酷く肩を落とした。
今より若い時なら、私が彼を変えてみせる!などと豪語したかもしれないのだが、経験上、人は簡単に変わらないと思い知ってから、諦める事の方が多くなった。
それからはどこか恋愛に冷めている気分でいた。
だが、将来的には結婚をし、子供も欲しいと思っていた。
そんな願望がちゃんとある一方で、彼女は本心で焦っているか?と聞かれれば、不思議とそんなに焦ってはいないと思っていた。
その理由として、彼女はそれなりに美人だったからだ。
十代の頃、地元の地方誌にスカウトされ、ほんの少しばかりモデルみたいな事をしていた時もあったし、よく知らない男性からいきなり告白された経験も何度かあった。
そんな過去の遍歴を理由に、彼氏なんて作ろうと思えば作れる。
そんな自負が今でも彼女を保っていたのだ。
一方、今まで寄ってきた男たちは彼女の容姿しか見ていない事も彼女は分かっていた。
出会いの最初の入口が見た目なのは仕方のない事だが、それがずっと続いてしまうと、自分の価値は容姿しかないのだろうか?と彼女は自問し、悩むようになっていったのだ。
それから、彼女は向こうからやってくる男たちを蹴散らし、自分の方からアプローチをしていく女になった。
選ばれるより、選んだ方がいい、それが彼女の意思であった。だが、それも失敗続きに終わっていた。そして、失敗が重なる度にその容姿という資産が段々となくなっている事実に恐れていた。
彼女はカーペットの上で胡座をかき、背の低いテーブルの上に置いた卓上仕様の鏡を見ながら、慣れた手つきで化粧をはじめた。
今よりもっと若い頃は化粧をパッパッと終わらせる事が出来たのではないか?と近頃はそれほど遠くない過去を思い返す事もあった。
もっと化粧のりが良かったはずだと考えると、一度、深くため息をついた。
どうあがいても仕方がない、時間はわたしの若さを無慈悲にも奪っていくのだ。
同級生との集まりでは年齢についての話がよく出るようになった。
アラサーになって、どこか視力が落ちた気がするとか、夜更かしが苦手になってきたとかだ。
先月、高校時代の友人と三人でカフェに集まり、お茶をしていた時、その中の一人が彼女に向かって
「さやかって、随分大人っぽくなったよね」と言ってきた。
彼女は「そうかな?」と言い、丁度昨日、美容室に行き、髪型を変えたせいだとその時は思ったのだが、そう言われても、もはや嬉しい言葉ではないと一人、帰宅途中で思っていた。
友人二人の内、一人は二十代前半で結婚し、子供を産んだ。
そして、もう一人は現在、彼氏と婚約中の身だった。
さやかはその二人と会っても、焦りを実感する訳ではなかったが、これから出てくるはずの夫婦間のあるある話、子供の話題にはついていけないだろうと思っていた。
女同士、そこには見えない壁があるのだ。
彼女はメイクの仕上げをしていた。数ミリ変われば顔の印象はガラッと変化する。
彼女は慎重な手つきで、アイラインを引き終えると、「よしっ!」と小声ながらも強く言い、満足いく化粧ができたと思った。
化粧道具をポーチに仕舞っていた時、つけていたテレビのニュースが芸能ニュースに変わった。
彼女はそれをラジオ替わりに聞き流していたが、ある芸能ニュースでテレビ画面を注視し出した。
それはとある五十代の男性芸能人が二十代の女性と結婚したというニュースだった。
ニュースの司会者、コメンテイターたちは「驚きました」、「知りませんでした」、「おめでとうございます」という言葉を繰り返した。
その番組を観ていると、どうやら相手の女性は彼女より歳下らしかった。
彼女は画面に釘付けになる前に、足元にあったリモコンを素早く手に取り、テレビ画面を消した。
そして、瞬時に部屋に重い沈黙が訪れた。
もし仮に、その女性が男性の同年代、又は少し年下だったとしても、その男性芸能人は結婚したのだろうか?と彼女は意地悪く思ってしまった。
「彼女の優しい性格に惹かれました」とその芸能人はインタビュアーの質問に答えていた。
数カ月前、彼女が同僚と居酒屋に行った時、隣にいたサラリーマングループの一人が大きな声で笑いながら、女性の価値は若さだ と言った。
彼女は普通の顔をして、チラッとその男を見た。
だが、顔の表情とは裏腹に、その男を心底、軽蔑したのだ。
テレビを消した部屋は沈黙に包まれているのだが、その憎たらしい声が、彼女の耳の中で今でもまだ反響しているように感じた。
その音をかき消そうと、彼女は立ち上がり、服を着替える事にした。
しかし、ここでもまた、彼女はその声に誘発されて考え込んだ。
アラサーになると着る服も変わると身をもって実感していた。
もうショートパンツなんて履けないし、大胆に肩も出せないと思っている。
それは一種の固定概念、同調圧力の影響もあるかもしれないが、年齢に縛られ、世間に前ならえをしている訳ではなく、彼女自身の意思でそれらを選んでいるのだと自分に言い聞かせていた。
単純に好みも変わるのだという理由もつけて。
彼女は洋服に化粧が付かないよう慎重にインナーの上に厚手ながらも首元がゆったりとしている白のタートルネックニットを着て、下はインディゴのジーンズを履き、コートは数年前に買ったグレイのチェスターコートを羽織った。
姿見鏡の前で、少し地味かな?と彼女は思ったが、これでいいや、もうこんなコーデばかりだしなと思った。
ここ数年、自然と派手な色を避けてしまっていたし、形も柄もベーシックな物ばかりだった。そもそも新しい服を買う事も随分と減った。
だが、せめてもの差し色として、靴下はマスタード色のものを履いた。
髪のセットは年々面倒になり、最近は巻く事もせず、少し寒かろうが、一つ結びをする事も多くなっていた。
靴はスニーカーでいいやと思い、アクセサリーはあれとあれ、と頭の中で一通りのコーデを組み立てた。
時計を見て、友人との待ち合わせ時間にはまだ時間がある事を確認した。
今日、友人は紹介したい人がいると言うことだった。
その友人は先月会った、婚約している友人だ。
彼女は乗り気ではなかったが、拒みもしなかった。
チャンスがあれば、チャンスを取りに行こうと思っているのだ。
一人でいるのはそんなに寂しくはなかったが、世間は彼女を寂しいと決めつけるようになってきたような気がしていた。
彼女はシンプルなアクセサリーを身につけ、これもまた数年前に買ったシンプルなデザインだが気に入っている黒のバッグを手に取り、その中に紺色のハンカチを入れ、スニーカーを履いて、家を出た。
外では冷たく、乾いた向かい風が吹いていた。
深津さやかは少し身を震わせ、バッグを肩にかけ、両腕を硬く前で組んだ。
そして、その手でチャンスを取りに向かったのだ。
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