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5-2.幸せなひとときを過ごしたんですよ

 時は少しさかのぼり。


 どうしてわたしが朝帰りなんかする羽目になったかというと、わたしが強く強くトビアスに迫って、根負けしたカレと共に一夜を過ごして、幸せなひとときを味わったから。


 ……。


 間違ってないよ。


 事実だよ。


 ……。


 いいじゃんか、これぐらい! 言わせろよ! 少しぐらい盛ったって!


 実際には、イザベラを見送ったわたしがトビアスのもとに突撃して、まあ落ち着けと座らされて。わたしから、手伝ってほしいことがある、って話をして。


 それで、気が付いたら、なんだかとっても、暖かくて、安らげる場所に居て。


 こっちに来てから、ずっと肩肘張ってて、感情の振れ幅が随分大きくなってたけど、それが嘘のように、体全体がリラックスできて。


 だけど、なんだろう、こう、ゾクゾクワクワクするようなものがあるように思えて。


 そこへ導かれるように、そう、蜜へと引き寄せられる虫のように動くと……後頭部に衝撃が走る。


《いい加減起きろ、このエロ娘が》


《っったぁい……あにすんの、よぉ……》


 むくりと頭を持ち上げると、ジト目がこちらを見下ろしている。


《いいじゃないの、だいたいアンタ、こんなに朝早く起きることなんて、めった……に……、アレ?》


 キョロキョロと周りを見渡す。ここ……ビルジー侯爵家邸の応接間だ。


 わたしの目の前に居るのは、トビアス。そして、耳に入ってくるのは、日本語だ。


《うわあ、思い切り寝ぼけてた……って、この姿勢……》


 すげえ格好になっていることに、今さらながらに気付く。ソファの上で四つんばいになっているってことは、ここでうつぶせになって寝ていたってことか。


 いや、それはまだいい。


《そう、ぐったりしたまま眠ってるのもかわいそうだと思って、膝枕してやったのはいいけど、人の腰をがっちりホールドして動けなくした揚げ句、鼻を股間に擦り付けてきやがって》


 そっか、さっきのゾクゾクワクワクの正体、それでしたか。気まずい。慌てて、ソファに座り直す。


《ごめんなさい……ううー、恥ずぅ……》


《でもまあ、ゆっきーのああいう表情を見られて、嬉しかったぞ。まあ、眼福ってとこで》


《人が発情しかかってるのを見て楽しむな、悪趣味だぞ》


《悪い悪い。でもな、俺だって、女っ気がまるでなかったんだから、自制するのがけっこう大変だった》


 少しむくれたような顔だけど、内心は、こちらがどう反応するかを見たいと思って、わくわくしているな、これは。


《ふふっ》


《何がおかしいんだ》


《だって、その顔。やっぱり、わたしが知ってる、あの顔。やっと、見せてくれた》


 この世界に来てから、何回会っても、見ることのできなかった表情を。


《わたしって、すごいぜいたくな環境で育ってきたんだなって。その顔を見ながら、生きてきたんだなって》


 日常的な習慣というものは、それになじんでいる間にはまるで空気のように当然のものだけど、そこからいったん離れると、たちまちのうちに、その価値を認識するようになる。失って始めて気付くっていう、あれだ。


 間違いなく、わたしと二人きりの時だけに見せてくれる、心のガードを完全に解いている時だけに見せてくれる、この表情。


 日々、自分の脇にあるのが当たり前だったけど、そのありがたさを痛感する。そして、そう知覚できたこともまた、とてもうれしくて。


 二人だけ、というのが、自分の中にある独占欲をグイグイと刺激してくるけれど、それだけじゃない。二人だけの時にしか見えないことを、今の自分に見ることができる、それがとってもうれしいんだ。


 ぐぐっと、体の中にこみ上げてくるものがあるけど。


 ううん、まだ、ダメ。“それ”をするにしても、今じゃない。


《こんな形だけど、こんな体だけど、この世界に来られて、よかった。わたしって、客観的には一方的な被害者だろうけど、でもね、感謝してるんだ、レオノーラには》


 わたしの隣に座っているトビアス、いや違う、トビアスの隣に座ったわたしは、彼の顔を見上げる。けっこう背丈の差があるんだね。有希江とたっくんとの差はあまりなかったんだけど。


《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。でもね。流したくないもの、とどめておきたいもの、いっぱいあるんだ。わたし、欲深だし。だから、この世界で、あがいてみせるよ。何を引き起こすかはしらないけど》


 たっくんという人間は、もう居ない。しかし、トビアスという人間が、ここに居る。それをすんなり受け入れられるには、まだまだ時間がかかるだろうけど、少なくとも、受け止めることはできるようになったと思う。


 そうなれば、いよいよ、次の段階だ。つまり、有希江であると同時にユキエという人間“も”、ここに居る、と言えるようにしないと。


 そうじゃないと、いつまでたっても、わたしは、この世界で“ユキエという人間”になれない。仮想的分身アバターのままだ。それでは、人格を備えてはいても、人としての条件を満たしていない。


《だから、覚悟を決めた。漢字の“有希江”は、もう捨てる。カタカナの“ユキエ”になる、ってね》


 二十一世紀の日本では、子供の名前は、親が勝手に付けることができる。親の趣味が露骨に反映されることになるから、年を取るほど違和感を強く抱くようになる人も多いというけど、わたしは幸い、そう思うことはなかったし、有希江という名前には愛着もある。


 でも、この世界に骨を埋めて、トビアスと一緒に生きるなら、有希江である必要はない、ユキエで十分だ。


《そっか》


 すぐ脇に座っているトビアスが、ポン、と、わたしの頭に左手を置く。


《ちょ……》


 彼も、トビアスも、そうなんだ。


 わたしの、今のあり方に、戸惑っていて。そして、この状況が解消すれば、また、新しい関係になれることを考えていて。


 なんだろう、すごく、体が暖かくなってきて、同時に、いろいろと燃えてきた気がする。アドレナリンが出てきたっつーか。


《でもな、ゆうべのアレは、やっぱりいただけないぞ》


《ゆうべのアレ?》


 なんだろう。


 そうだ、確かわたし、トビアスの屋敷へ突撃したんだけど、その時に頼んだのが。


《あれは驚いたぜ。いきなり、成人男性を一人殺したいから、武器か薬か、そんなのを貸してくれ、ってのには》


《いや、それにはね、しっかりしたワケが》


《たりめーだろ、ゆっきーじゃなくたって、そんなことを言い出す以上、かなり重い理由があるに決まってる。それに、デリンジャー伯爵家邸で別れた直後だ、すぐに見当はついたさ》


《そこまで、きちんと説明、したっけ?》


《肝心なところを隠していたつもりだったんだろうけど、丸わかりだ。ターゲットは、ドゥルケン男爵家当主だろ?》


《うん》


《やっぱりな。それなら、手は貸せない》


《え、で、でも》


 トビアスが、その左手でわたしの顔の向きを変える。目と目が正面を向き合う。


 彼の真剣な目を見ると、胸の鼓動が高まって、頭の中もグラグラになって。


《だって、だって、このままじゃ、いつまでも、イザベラが》


《そうだな、イザベラが自分で手を下そうとするなら、いくらでも助けるさ。でも、昨日の依頼は、ゆっきーが自分で事をなそうというものだっただろ?》


《だって! 自分を縛っている鎖って、自分で切ることはできないの! だから》


《だから、レオノーラ嬢に、父親殺しの汚名を着せるのか?》

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