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4-30.【Side:イザベラ-3】銀のトーデスは身体の扱いに覚悟を決める

前回に引き続き、よっかめ。のキーパーソンであるイザベラの回です。今回も分量はかなり長く、内容的にも非常に重くなっています。ご容赦ください。

直接的な描写はほとんどありませんが、内容が内容だけに、状況によってはこの回だけバッサリ消す可能性もあります。

 その瞬間。


 体の外側にナメクジがはい回るような、体の内側に蜘蛛くもがうごめくような、そういう感覚が弾けて、ぞるぞると全身を駆け巡る。


 この商売をするようになって以来、これを、毎度毎度、繰り返している。でも、とてもじゃないけど、慣れるものではない。


 こんな行為が、快楽だの愉悦だのにつながるなんて、何遍繰り返しても、わからない、体感できない、理解できない。反射的に、体がビクッと動くだけ。


 毎日何度も気持ちいい思いできるのって、いいよね、なんて言われたことは、一度や二度ではないけれど。それも“気持ちいい思い”をした男たちから。


 でも、わたくしは、この方一度も、これによって快感を得たことなどないのだ。


 ただ、こうやって、体を密着させること、肌の温かさを感じること、欲望を受け入れること、それだけで、わたくしはとても安心できる。


 かりそめのものであっても、誰のものであっても、人肌の温もりに触れられるだけで、生きていることが許されているんだと、実感できるから。


 それを裏返せば、相手なんか誰でもよくて、男である必要さえなくて。でも、直接触れていなければ、自分が居るということを、自分で認めることができない。


 腰を振り。シーツを握り。体を反らせ。脚を震わせ。嬌声きょうせいを上げ。そして、ためらうことなく、自分の中で果てさせる。


 そうすれば、相手は喜ぶ。


 例えそれが、わたくしという人間を見ているものではなくても、わたくしによって、その相手が喜ぶのは事実だ。


 相手が喜んでくれるというのは、わたくしが、わたくしとして、存在している証。


 どう見られているか、どう思われているか、それは二の次。いや、恐らく、何も思われていないだろうが、それでも、物質的な肉体を使ってもらえるだけでも、安らげる。


 気持ち悪さはいつまでたっても慣れないけれど、それ以上に、心に安寧がもたらされる。


 自分は、この世に居ていいのだ、この大地から離れないことを許されているのだ、と。


 それによって、わたくしという自分が居ると、実感できるから。


 そうしなければ、わたくしという自分は、この世から消えてしまっていい、いや、消えてしまうのが当然となってしまうから。


 どうせ、幾たび、行為を繰り返そうが、わたくしはすでに女であって女ではない。いえ、そもそも、女にはなれなかったのだから。


 だから、わたくしは、体を委ねる相手を、ひたすらに求める。


 行為自体を求める気にはまったくなれないけれど、文字通り、肌を重ねる機会を渇望して。最初から抵抗がなかったわけじゃないけど、そんなのは二回目で消えうせた。喉が渇いたら水を飲むように、人の肌を求める、それだけのことだ。


 報酬としてお金を得られるし、それがもろもろの資金源になってはいるけれど、それは主な理由ではない。


 場合によっては、情事の間、ひたすら優しくしてくれる人もいたし、そういう時だけは、幸福を感じる事もできた。


 たとい刹那のものであっても、それは間違いなく、わたくしをこの世界につなぎ止める、一つの理由になっていた。


 それなのに、皮肉なもので。誰が呼んだか、いつの間にか、銀のトーデスなどという二つ名を頂戴してしまった。


 なんでも、一度抱いたら離れられなくなり、ひたすらに精を吸い尽くされる様が、緩やかに死へといざなう死神のようだから、ということらしい。トーデストリープ(死への欲動)の略か。エロスの対義語、確かにわたくしにぴったりではある。


 しかも、右肩にはトライデントのタトゥーを入れられているのだから、なおさらだ。もちろんこれは、奴隷的に所有されている客体という証に他ならない。


 それだけ、いわば道具としての“具合”はよろしいのだそうで。それで喜ばせたい者がいるはずもないけど、商品価値としては高いのだし、損はなくていいしと、割り切って考えている。


 無用にびを売ることはないから、愛想がないと言われてるのは知っている。金の分までしか仕事をするつもりはないから、商売気がないと言われてるのも知ってる。


 でも、この界隈かいわいでは、客に対してひたすら卑屈になり、相手をしてくれとすがりつくのが一般的だ。わたしは、この年齢もあって、黙っていても固定客が増えていくけど、恵まれているのは確かだろう。客に対して尻尾を振らないのは珍しいらしい。振るのは腰だけで十分だ。


 だからこそ、固定客はしっかり確保していて、相手には全く困らない。むしろ、自宅での“お勤め”が続いてこちらをご無沙汰していると、文句を言われることさえある。


 そういうしだいで、下心に満ちた欲望と、物理的な温もりを、双方の合意の上で、交換し続ける。


 それに、怖かったから。


 見返りを要求しない、具体的には体を求めることのない、優しい素振りは、下心の裏返し、偽善、自分勝手。そう、決めつけて。


 むしろ、痛めつけられる方が、気が楽だった。それは、その人の、正直な感情の発露だから。


 だからこそ、ごくまれに手が差し伸べられることがあっても、わたくしは、それを振り払い続けていた。


 わたくしには、心を交わすことなく、体だけつなげている方が、ずっと安心できたから。


 醜悪は正直の証、美麗は偽善の証、そして偽善は、どうせわたくしを、さらに傷つけることになるのだから。


 理性的には、そういう感情がゆがんでいることは、わかる。でも、人を実際に目の前にすると、そんな理性など、何の力も意味もない。


 事を終えた後、それでもわしわしとわたくしの体をなでさする男が、話しかける。


「トーデスちゃん、なんでこんな仕事をしてるんだい? 君ぐらいの器量なら、いくらでもできることはあるだろうに」


 自分の欲望を満たすために女を買っておいて、よくも言えたものだと思うけれど、この商売をやっている女なら、絶対に一度は聞いたことがある言い回しだ。


 でもまあ、それには、特に腹を立てることもないし、こういう言葉が出てくるのは、自然なことだと思う。


 だって、こういう場所に来る客が望んでいるのは、単なる性欲の充足だけじゃないから。


 相手の肉体を壊さない範囲で、自分が一方的に相手を支配できることに対する満足感、それを求めているのだから。


 性に関する判断は、男性よりも女性の方が、より重要かつ深刻に受け止められる。それを踏まえて、男は、相手の性的決定権を完全に停止させることで、征服感を強固に抱き、性欲に起因する以上の快楽を得る。


 もちろん、それは客としての、当然の権利だ。


 肉体的にも、精神的にも、相手を自由にできることを実感する時間を満喫することも、支払っている料金の一部なのだから。


 そしてまた、商売人として顧客の求めに応じるのは、当然のことだし、そうあってしかるべきだと思う。わたくしは、雇用関係にあるわけではないのだから、なおさらだ。


 だから、肉欲だけでなく、実施可能なあらゆる範囲で顧客に奉仕することは何らおかしいことではないし、それによって堂々と対価を得て、商品としての自分の価値を高めるというだけのこと。


 プロと言えるか微妙ではあるけど、これでも商売女の端くれ。金をもらった分は働き、それ以上の満足感を提供する。そして、次の商機を得る。それが、商売としてあるべき姿だろう。


 そして、わたくしは、少し焦点をずらした目を相手へ向けつつ、こう答えるのが常だ。


「こうなることを、望んでいますから、止められないですし、我慢できないんですよ」


 好んで自分の体を売る娘の行動理由なんて、大半が金で、ある程度が快楽を伴う肉欲で、一部が暇つぶしだ。最後のは理解不能だけど、そういうのが居るのも知ってはいる。


 でも、わたくしの場合は、少し違う。恐らく、男の頭に浮かぶことはないだろうけれど、行為そのものはしたくないのに、つながることだけを切実に求めているのだ。だから“こうすること”ではなく“こうなること”になる。


 まあ、単なる好き者と思わせておけば、それで十分だ。大きいくくりなら、それで正しいし。


 わらわれようが、憐れまれようが、さげすまれようが、別に構わない。他人に理解してもらおうなんて、思ってもいないから。


 しかし、わたくしが嫌悪感を抱くのは、そういう客ではない。いや、客に限らない。


 身なりだけは、いや見かけだけはキレイな格好をしているのに、自分が引いた線の“外”に居る“キタナイ人間”を蔑視し、彼らを踏みつけるのを当然視する、そういう浅ましい連中。こいつらは、大っ嫌いだ。


 身分制度という安全柵の向こう側で、大事に大事に守られながら、そういう防具など何もない者を嗤い、虐げ、あまつさえ、それを娯楽として楽しむ連中。


 いや、貴族の平民に対する視線は、まだましかもしれない。貴族は、普通の生活をしていれば、屋敷に出入りしている者を除いて、平民を直接目にすることはあまりないし、話すことなどまずあり得ない。接することがなければ、きれい事の範囲内で解釈、処理できるから、彼らを守るべきと、素直、いや無邪気に思うことも多いだろう。ただし、相手を人間ではなく、愛玩動物のように見ているのだろうけど。


 より醜悪なのは、王族や上位貴族が、下位貴族、下級官僚、兵士、使用人、出入り業者、そういう人に向ける態度だ。つまり、身近に居る、弱者に対するもの。


 相手が逆らえない立場であるのをいいことに、自分たちが縁のない彼らの苦労を無視して、その存在がいかに愚劣なものかを語り、悦に入る。


 尊大な態度が先鋭化すると、貴種の血がどうの、貴族の誇りがどうの、などと、自分の功績でさえないものに依拠した物言いをするけれど、そんな言辞には、反吐へどが出る。


 あるいは、キレイ事を称賛して、それができる自分の特権的環境を棚に上げつつ、それをなし得ない者を、あたかも不徳者かのようにこき下ろす。まっとうな形で民に尽くして、その暮らしを安んぜるべき、なんて、ご立派なことを語る輩が、どれだけ多いことか。


 そういう連中に限って、彼らが、守るべきもののために心血を注ぐことなど、まずない。


 理由は単純だ。彼らにとっての倫理というものは、それに向かいあう自分の程度を高めてくれる範囲でのみ、支持するに値するものなのだから。


 末端とはいえ、これでも貴族家の娘。そういう、地位と誇りをおぞましい形にねじ曲げて悦に入る愚物は、飽きるほど見ている。いや、愚物とは限らない、下衆な知恵者の方がさらにたちが悪いか。


 そして、偉い者が、偉くない者に向ける視線。権力的視線といってもいい。それは、潜在的に、暴力への萌芽ほうがを含む。換言すれば、権力は容易に暴力へと転化する。いや、物理的な暴力に留まらず、社会的、経済的暴力も、日常的に見られる。


 これは、人の目が届かない場所では、なおさらだろう。


 だいたい、わたくしがこういう場所で働くようになったのも、血族である男爵家当主に犯され、彼が連れてきた貴族家子息の接待をさせられ、値引きを求めた出入り商人の相手をさせられ、その結果、こういう行為に何ら抵抗も抱かなくなったのが理由だ。それも、自分が生まれ育った、自分の住まう家という、あらゆる面で逃げ場のない空間で。


 早い話が、男が女を、年長者が年少者を、地位の高い者が地位の低い者をといった具合に、強い者が弱い者に対して、体の取扱いという、人間にとって最大級の誇りを、一方的に蹂躙じゅうりんする仕打ちを、何度も、継続的に受けてきた結果だ。


 こんなだから、貴族家の娘という身分を持っていながら、権力が人を壊す様を十分に知っている、そう、胸を張っていう権利があるだろう。


 もちろん、暴力なき権力など、あり得ない。あり得ないが、属人的に権力を振るう者の倫理が自己正当化によって形成されている以上、統制するすべはなく、結果として、無制限の暴力が次々と生まれ、再生産されていく。地獄の永久機関だ。


 そういうのが嫌だからこそ、社交界なぞとは正反対の、苦界で泳ぎ続けている。見かけだけはきれいに澄んでいても実際にはすっかり汚染されている水より、欲望が隠れることなくドロドロに淀んだ泥水の方が、わたくしには心地いい。


 この場所は、男が女に金を払って、その体を買う場所。権力によって女性が男性に組み敷かれているとはいえ、商行為という制度的緩衝があり、経済的理由を除けば女性が足を洗うことはいつでもできる。そのぶん、女性が自己を残せる、見せられる余地があるから。


 それに、この世界では、春をひさぐ女性たちの苦労があってこそ、男の行動が抑制されているということが、認知されているから。そして、男自身がそこで満たされることを、肉体的に感じて、知っているから。


 だからこそ、わたくしはこの世界で、安心して、存分に、体を開くことができる。


 そして、一人の男を送り出して、身支度を調えたら、また次の男を迎え入れる。


――立ち居振る舞いや会話からわかるさ、あんたは並の生まれじゃないだろ、トーデスなら高級娼婦としてしっかり稼げるよ、もうけの少ないこんな売り方すんのはやめなよ。


 ここを取り仕切っている女将おかみに、こんなことを、何度も言われている。もうけ、というのは、女将のもうけのような気もするけどね。


 確かに、一応名字のある階層の生まれではあるけど、ダンスを踊れるわけではなし、洗練された会話ができるではなし、貴族子女として当然のように身に付けているべき教養があるわけでもなし。いわゆる上流階級と付き合っていけるようなすべは身に付けていない。


 でも、それ以前に。


――高級娼婦なんかになったら、抱かれる時間が短くなるじゃないですか。わたくしは、少しでも長い時間、少しでも多くの男と、体をつなげていたいんですよ。後生ですから、このままでお願いします。


 間違ってはいない。女将だって、わたくしの接客が“濃い”ことは、よく知っているはずだし、日頃の仕事ぶりを見れば、説得力はある。


――何を言ってんだい、若いどころか、幼いくせして。せっかく、アレを飲まずに頑張ってるのに、子供産めなくなるよ、泣きたくなるよ。年取ってから、子供産めない女なんて、誰も認めちゃくれないんだからね。


 子供を産めない女、か。


 女将はこのことを知らないけれど、わたしは、その“アレ”を散々飲まされてきたからね。何を今さら。その正体を知った時には、もう、取り返しが付かなくなっていたのだから、涙を流すいとまもありやしない。


 この世界で、いや、この社会で、女の存在意義は、子供を生むこと。つまり女は、子孫を継続させるための保全装置。その機能がない女は、女としての価値がないし、人としての存在意義もない。


 働かざる者食うべからず、というけれど、妊娠、出産という“働き”ができない女は、人として認められないんだよね。


 その結果、出産を伴わない性交が、道理に背くものとされる。避妊は堕胎と同様の罪になるという法を持つ地域もある。


 そして、当然のように、この場のような空間、そしてそこに働く者、すべてが、蔑視の対象になる。


 生理現象に対して、後付けの理屈で意味を付与して、そこから逸脱すると、不浄だ不潔だと断罪する。そして“清潔”を維持する。


 まあ、社会秩序なんて、こういう形でしか、維持できないのだろう。外面だけであれ、汚れがなくて初めて、その対局に権威を持たせることができるから。


――だいたい、わたくしのような生意気な小娘よりも、お客様への対応が上手なねえさんたちが、おられるじゃないですか。抱いてくれる男を欲しがっているだけの、わたくしが押しのけるなんて、筋が通りませんよ。


 わたくしは、借金などで身体を拘束されているわけではなく、根無し草で行き場がないために身を寄せているわけでもない。通常の生活ができる程度には別口で稼いでいるし、食う寝るところに住むところを探し求めているわけでもない。いわば、道楽として、春をひさいでいるに過ぎない。自分としては、切実な理由があるけれど、第三者から見れば、趣味で売春しているようにしか見えないだろう。


 他にも食べていく手段はあるけど、生来の淫乱が好んでこの場に居る。これでいいのだ。


 しかし、ここで働いている同僚には、そんな“ぜいたく者”はまず皆無。これが天職だとか、けっこう気軽でいいのよとか、いろいろ言う者もいるけど、それは現在の境遇に理由付けをすることで、精神の均衡を維持しようとしているにすぎない。そういう事を言う者を含めて、ほぼ全員が、条件さえ整えば一日も早くここを出たい、と言うだろう。


 実際に、こういう悪所で客を引く女性に対して、人を縛り付けるのはよくない、解放して自由の身にすべきだ、という人も、ごくごく少数派ながらいる。奇特というか、殊勝なことだとは思う。


 でも。


 ここに集まっている女は、家なりなんなりで立場を失い、社会から事実上追放され、最後にここへたどり着くという流れにさらわれてきた。いわば、制度化された身体拘束といえる。


 しかし、この場に居ることで、むき出しの暴力から身を守れている一面もある。いちいち聞き取りをしたわけではないけれど、ここで働く同僚たちの多くが、性暴力等々によって心身に傷を負った者なのは間違いない。


 女性を制度から解放し社会に戻して自由にすべきなのか、制度を社会に適合させて女性の保護を維持するか。深く検討するまでもない。身体の解放によって別の社会的抑圧を一身に受ける女性が自由になって、どうなるか、容易に想像が付く。籠の鳥がかわいそうだと、何も考えずに籠から逃がせば、五分とたたぬうちに、ネコだのカラスだののエサと化すに違いない。


 机上の空論ではあるけれど、結局は、どのような人であっても、最低限、生き続けることだけは認められるべき。それが当然の認識になって初めて、ここで働く女性の“解放”に着手できるのだろう。


 まあ、こんな生意気なことばかり考えていて、しかも、女将に目を掛けられていては、同僚たちに、よく思われるはずはないし、それは自分でもわかっている。


 だからこそ、実入りが少ないのに体への負担が大きくて不人気な、短時間コースばかりを選んでいる。客の入れ替わりが激しいということは、多くの客と接することができるから、刺激があって、面白い。


 そして。


「今日も来てくださったの? こんな子供くさい、わたくしに。うれしい」


 すでによく見知っているなじみ客の手を取って、ベッドへと引き倒す。


 常連さんだから、好みはだいたいわかっているけど、いつも同じでは芸がないので、いろいろと変化を付ける。その過程で、不思議と澄んだ頭を回し、とりとめもないことを考える。


 もっと、別の形で、生きることもできるのかな。生き方を、変えることって、できるのかな。わたくしだけでなく。人一般が。


 負の方向に働く心情、例えば、当惑、不安、恐怖、劣等感、嫉妬、それらは避けられないかもしれないけど、絶望へと成長しさえしなければ、いいのかな。


 絶望?


 そう思った瞬間、気が付いた。


 そうか。簡単なことじゃないの。


 人が、絶望を抱かず、希望を持てるようになるというのは。


 現在に向かって、将来に向かって、生を感じていけることなんだ、と。


 生を感じるということは、人が人として、進んでいこうとする意思を持てることなんだ、と。


 為政者の最大の義務は、人が生きていける環境を用意することだけど、そこには、生理的なものだけじゃなくて、精神的なものも含まれるのではないかな。


 いや、それは本来、為政者=権力者という“人間”の責務としては重すぎるのかもしれない。それなら、その責を追うのは、そのような環境を形成、維持していく、制度になろう。


 人がそこに居ることに対して、自分自身でおびえ、否定せざるを得ない状態に、追い込まれる。


 そんな人間が当然のように作られ、当然のように捨てられていく世界なんか、真っ平。


 人は、人として、人らしく生きていくべきであると共に、その権利があるはずだ。


 そういえば、ユキエの世界では、法の下の平等、国民は差別されない、とのことだった。


 そこから考えれば、人が有する固有の権利は、善人、悪人、強者、弱者、そのような社会的基準で区別されてはいけない。


 ただ、悪事をなす者については、その行為をもって、法の下に制裁を加える。


 それだけだ。それだけなのだ。


 人はどのように生きていくのかと、いう命題は、永遠に回答が出ないものだろうし、わたくしの知能には手に余るものだ。いや、人間の手に負えるものではないのではとさえ思う。


 でも、これだけは、絶対に伝えていきたい。


 人間には、人間として、当然持っている基本的な権利があり、これは、何人たりとも、犯すことはできないのだと。


 有能な為政者だろうと、無能な為政者だろうと。立派な領主だろうと、愚劣な領主だろうと。王族だろうと、貴族だろうと、平民だろうと。


 経済的に困窮し、犯罪に手を染めるような者でも。社会的に蔑視され、人目につかないところで生きざるを得ない者でも。


 昼には刃物に血を吸わせる死神、夜には男に体を開く淫売、そんなわたくしでも。


 そして、社会を構成する人間の間で、それを当然とする規範を、作り上げていかなければいけないと。


 強者と弱者の関係という存在を一律に否定することは、間違いなく無理だ。


 しかし、人殺しは罪だ、という規範は、ほぼあらゆる社会に共通して存在しているし、それを疑う人はまずいない。殺人を犯す者は、その規範に逆らっていることを、当人だってよくわかっている。頻繁に手を血に染めているわたくしでさえ思うのだから、衝動的に人を殺してしまった人の意識は、より強く、そう感じることだろう。


 それなら、人を人として扱うことが、ごく自然な社会の規則になることも、不可能ではないはずだ。


 人の悪事が消えることはないだろうし、体や心を壊される人がいなくなることはないだろうけれど。


 そういった行為、加害者の行為が、単なる人間性の問題ではなく、社会的に指弾されるべきという共通認識を持たせていかなければいけない。


 しかし、それには、政治的、社会的に、現状を根本から変えなくては、不可能だ。やはり、新しい国が必要、という結論になる。


 そう、人の人たる権利を守るための、そして、それを定着させていくための装置として。


 本来、そういう権利は、その権利主体たる人自身が求めていくべきものであると思う。


 でも、現在では、人は、支配されることだけでなく、抑圧されることにも、疑問を持てていない。


 肉体的な奴隷を作ることには嫌悪感を抱いても、精神的な奴隷を作ることには何ら違和感を抱かない。


 そういう意識を、下から変えていこうとするには、相当の時間を要するだろう。


 その時間が経過する間にも、人として認められない人が、どんどん作られていく。


 そして、人として認められない人は、自分が人らしくあろうと思うことができず、醜悪な現状を維持するための肥料と成り果てる。


 悪循環だ。


 それを断ち切るためにも。


 精神的な奴隷として、いや、奴隷であろうとしなければ、生きていけない人間を、極力減らしていくためにも。


 肌の物理的接触を常に求め、自分へ欲望を注がれることに、生の実感をつなぎ、それが終わると同時に、自分の存在に不安を感じるような人間を、これ以上再生産させてはいけない。


 この国を、作り直すために、動きだそう。


 そう、あの方に出逢えたのは、運命だと思うから。


 それに。


 あの方に出会ったせいか、男に抱かれている時の感覚が、少し変わった気がする。


 わたくしが、体を売りに出かけると、それがいつものことだと言った時。


 あの方の目から読み取れるものは、軽蔑ではなく、同情でもなく、憫笑びんしょうでもなく、幻滅でもなく。


 強いていえば、多めの悲しみと、少しの怒りだろうか。


 恐らく、わたくしがこういう行いをすること自体ではなく、この行いを自分から求めるようになった経緯に対しての。


 わたくしがどうして、次から次へと男を求めるようになったか、それに対しての。


 それでも。


 わたくしは、こういう選択をする原因になった過去について、それを消そうとは思わない。


 過去を否定することは、現在をねじ曲げることだし、未来の可能性をゆがめることだから。


 どれだけ忌まわしいものであっても、過去を否定することなく、でも、自分が変われるのなら、その枠の中で、変わっていきたい。未来は、過去と違って、変えていけるものだから。


 まさに今こそ、変わっていくための機会が与えられているのではないか。そして、この身命を投げ打つに値する時機なのではないか。


 わたくしという人間であっても、この存在でも、求められるように実感できるようになるのではないか。


 そして、すっかり満足した男がわたくしから離れた時に、いよいよだ、と感じる。


 こちらの仕事も、店じまいしなくてはいけないようだ。


 この境遇は、それなりに気に入っている。


 けれど、“決行”後も漫然と続けていては、単に男あさりをしているだけになって、わたくしが足を引っ張ることになる。


 この先、人肌に触れずに生きていけるか、不安は大きい。ひょっとすると、ユキエたちと完全に別れて、肌を求めて流浪することになるかもしれない。


 でも、いつかは、離れなくてはいけないのだろうとは、薄々思っていた。それが、予想していたよりも少し、早くなるだけのことに過ぎない。


「感動しない、誰にも関心を持たないのが、キミだったけど。何か、あったのかな」


 ベッドに腰掛けたままの、なじみ客である男が、こちらに背を向けながら、気だるそうに声を絞る。


 わたくしが相手をしてきた客は、ほぼ全員、相手に対して、肉体的だけでは物足りず、精神的にも組み敷こうとする、無責任な熱を帯びていた。一時的にであれ、相手を従属させ、その関係性を確認して、多分に加虐的な感情を高揚させる。少なくない金銭を支払ってまで求める情交とは、そういうものなのだろう。


 ところが、この客には、そういう熱情が何もない。体をつなげている相手は徹頭徹尾他人であって、生きた肉の塊がぶつかっているだけにすぎない、それを行為の最中でもしっかりわかっていて。関係性を探るような関心を持たない、いや、持てないまま、わたくしを抱く。


 最初から、空虚というか、静寂というか、とにかく、熱情のないまま、それでいてひたすら、わたくしの肉体をむさぼる。


 何ら臆することのない、ただただ繰り返される本能に基づいた行いに対して、それを美化するつもりもなく、自分を正当化するでもなく。飾り気もなく。儀式化しなければいけない性行為などは求めず、純粋に淫欲だけを動機にして、わたくしを求める。


 そんな彼と過ごすひとときを、わたくしは、心地よく感じていた。性的快感などは相変わらず覚えられないにもかかわらず。


 こういった動物的な行動が、何らの装飾をまとうことのないまま、人がそこに居る生々しさを淡々と感じて。そしてまた、その生々しさに耐えられず、しかし本能的欲望にも耐えられず、その乖離が、人間のウラとオモテを作り、それが正邪や尊卑といった暴力的分離につながることを思って。逆説的に、装飾と破壊を繰り返すことが、自然の本能に加えて、知恵を持ってしまった人間ゆえの宿命的な新しい本能なのだと理解して。


 何回目に相手をしたときだったか。唐突に、憎んでいる? と言われたことがある。恐らく、肉体の感動を抱くことのないわたくしの目から、境遇に対するぼんやりとした負の感情を読み取ったのかもしれない。別に、何に対して憎んでいるつもりはなかったけれど、その問いには返事を発することができず、目をそらすことしかできなかった。


 でも、今は。


「そう、ですね。どうやら、いろいろな“音”が入ってきたようです」


「そうか」


 多分、今度はない。このお得意様の顔も、もう二度と見ることはないだろうし、どうやら、彼も薄々察しているようだ。


 わたくしが、男の体の助けを借りて、心の平安を保てるのは、今日で最後になる。そして、この部屋から彼が出て行った時点で、この仕事をたたむことになる。


 感傷的になったのだろうか。無意識のうちに、わたくしは、彼の背中に抱きついていて。


「……もう一回、しませんか? お代は、わたくしが持ちますから」


 そんな言葉がするりと出てきたのには、我ながら驚いたけど、この行為自体を、前向きに受け止められるようになったのかもしれない。


 右手に添えていた薄衣が、はらりと床に落ちて、東の空から差し込む淡い光を、きらきらと反射させる。


 それからの時間は、長いものではなかったはずなのに、濃密なもので、そして満足感を抱かせてくれた。

セックスに対して抵抗感が皆無だったり、不感症だったりというのは、幼少期に性的虐待を受けた人にしばしば見られる傾向の一つです。そういう人が行為に及ぶ時は、頭が空っぽになって、いろいろなことを考えられる場合が多いといいます。

イザベラは、それを思索の時間に使っており、彼女の発想が思想へと昇華していく契機になったという設定。十五歳の天才少女が育った背景です。

最後の客とのやり取りには元ネタあり。

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