3-16.【Side:トビアス】不可避のすれ違いに決着を付けられず
俺という人間がここに“居る”ことは、哲学的生物学的にはさておき、感覚的には考える余地もない、自明の事実だ。
しかし、俺の自我の中に、前世の知識、いや、感情を含めた記憶が“ある”ことは、それと分けて考えなくてはいけない。
そして、その記憶が今、大きく揺さぶられている。
原因は、言うまでもない。
久々に会えた、当時、最愛だった彼女。いや、現在形でそう表現してもいいかもしれない。少なくともこの世では、あのような気持ちを持っている相手は居ないから。
彼女の意識、それを眼前にするだけで、感情の高ぶりが抑えられない。
小っ恥ずかしい言い回しをすれば、俺は、半ば本能的に、彼女を求めているのだろう。
いや、求めるのではなく、側に居るのが当然と認識している、といっていいかもしれない。
これまで眠っていた、いや、抑え込んできた激情が、“彼女”との再会で、またぞろ首をもたげてきたのだろう。
――たっくんだけだよ、わたしをあれだけ泣かせてくれるのは。スッキリできたし、“生きる”気になれた。ありがとう。
顔は違うけれど、確かに、彼女が俺にだけ向けてくれた、あの表情だ。
そして、アナタのことなどお見通しだよ、と言わんばかりの表情。
照れるし、心地いい。
ただ、察しのいいはずの彼女が、わかっていないことが、少なくとも一つある。
それは、彼女に対する、今の、俺の感情だ。
そもそも、俺と彼女は、いつの時点でお互いに好意を抱くようになったのか、さっぱりわからない。記憶にないというのではなく、幼な恋が、そのまま恋愛感情になり、それが愛情へと、シームレスに移行していったわけで、ターニングポイントがあったわけではない。まあ、通学先が別々になったとか、体の関係を持つようになったとか、そういう行動パターンが変わったきっかけはあっても、付き合いの区切りになったわけでもなんでもない。
だから、俺は彼女から、彼女も俺から愛情を向けられることを当然と考えていて、疑念も疑問も入りようもなかった。
大学生だった時、友人にそう言うと、男女関係なく、信じられない、という反応が返ってきたから、俺と彼女の関係は、きわめて特殊なものだったのだろう。
だからこそ。
相手に向けている愛情というものが変質している可能性、そこまで考えが及ばず、旧来の感情を抱き続けることを疑うことがない。いや、疑うことなど思いも寄らない。
多分、彼女の中では、俺の戸惑いを、単純に“経験している時の流れ”に起因していると処理しているのだろう。
彼女は、過去の俺に対して、現世での俺が加わり、現在の俺が形成されたと考えている。
そして、それを踏まえて、過去も現世もひっくるめて、俺全体を好きになろう、射止めよう、と考え始めた。口には出していないけれど、言動や姿勢を見れば、一目でわかる。俺でなくても、ね。
でも、残念ながら、それは的外れ、というのは言い過ぎかもしれないが、正確ではない。
理由は単純だ。彼女が抱いてくれている思いに対して、俺が抱いている思いは、ずっと軽く、また存在の軽いものになってしまっているからだ。
薄情、と言われれば、それは正しい。彼女に対する感情。それが、俺の中では十数年の期間を経て、文字通り、薄まってしまったのは事実。相対的には重要なものだけれど、絶対的に重要なものではなくなりつつある。
一方、彼女の中では、俺が居なかったのは、ほんの十日少々の期間というから、薄まりようがない。自意識過剰かもしれないが、四六時中、俺の事で頭の中が埋め尽くされ、かえって濃密になっていたかもしれない。
もっとも、薄まっただけなら、これから時間を掛けて、濃く煮詰めていくこともできるだろう。
しかし、新しい作用が加わり、組成が不可逆的に変成したものを、復旧させることは不可能なのだ。
そして、俺はこの世界に転生して、十数年。多感な時期を、もう一度、経験している。
その間に、彼女への思い自体を、相対化してしまった。
いや、違う。言い訳だな。
そうじゃない。思いを、再び別の形で再生させること自体は、できなくはない。
そうじゃないんだ。
そう、俺の心変わりだけで語れる程度の運命だったら。
でも、この世における運命が、個人のあらがいだけではどうにもならないものであったなら。
彼女は、いきいきと輝きだしているけれど、その顔は、乗り越えることのできない“運命”を知った時、どうなってしまうのか。
怖い。
でも、それを知って、それを告げるのは、やはり、俺しかいないのだろうな。
もう少し調べてみるが、多分、時間的な猶予は、もうあまりない。
俺には、彼女を支える確率も、恐らくそう高くはない。
そして、彼女を支える誰かを見つけることも、厳しい。
ちくしょう。
いったい、どうしてこんなことに。
俺は、彼女と別れさせられたことよりも、このような形で彼女と再会せざるを得なかったことについて、運命とやらを、強く深く呪った。
相手のことを誰よりも知っていて、そして冷静でいるトビアスは、主人公の心情を、主人公本人よりもよく把握しています。だからこそ、辛い悩みを抱えることになります。
彼自身は非常に誠実で、判断も選択も適切なのですが、ある意味、汚れ役的なポジションになります。




