猫のお腹はおひさまのにおいがする。
猫の毛並みは幾つか種類があるとおもう。短毛と長毛以外にも、ツヤツヤだったり、さらさらだったり。何で急にそんな話を持ち出したかと言うと、私の首の上から顔面にかけて……ふわふわというかごわごわというかがさがさというか。やわらかいのだけどまとまりのない毛並みの感触がしているからだ。
……猫って何で飼い主の顔の上で寝たがるんだろうね?という疑問と共に私の意識が段々とハッキリしてくる。それでもまだベッドに寝たままなのは休日になると私の部屋に息子が「起きた?ごはんは?!」と起こしに来るからだ。休日の朝はそうやって私の部屋にやってきた息子を広いベッドへ誘い、20分くらい話をしながら本を読んだり、動画配信サイトで海外ドラマを観るなど時間を過ごしていた。その後は朝ごはんの支度に階下へ向かう事もあれば、別室で起きた旦那と息子の3人で喫茶店に朝ご飯を食べに行く。なんて事もしていた。東海地方でいうところの、モーニング。というやつだ。
あ、寝室は旦那とは別だけど、仲が悪いとかじゃなくて、旦那が夜中までオンラインゲームをボイスチャット繋いでやってるからだからね。誤解が無いように言っておくね?私寝たいのに眠れないのが一番嫌なタイプなのよ。
ともあれ、そんな休日の朝のひとときが訪れるわけもなく。異世界に飛ばされたのは悪い夢なんかじゃなかった。
[んへへへへぇ~……]
私の顔に抱きつくような体勢のキキの口から機嫌の良い寝言が漏れる。さて、寝ぼけて爪を出さないうちにそろそろ起きるか。
「あぁぁ~~……きーちゃんがママのお顔にふわふわのお腹をくっつけてくれるなんて幸せだなぁぁぁ~~~くんくんっ」
わざとらしい声を上げて、キキの両脇に手を入れ、お腹の匂いを吸い込む。おひさまの匂いがする。知っている匂いが胸いっぱいに広がる。
[え?!ちょっと!ヤダ!]
うみゃおうっという声を覆うように人の言葉が紡がれる。映画やドラマの副音声みたいだ。
なるほど、これが私の遣い魔になったって事なんだろう。
[ほんっとそういうのきらい!!]
私の手から解放されたキキは床の上で毛づくろいをしながら悪態を吐く。さっきまで人の顔に貼りつくように寝ていたのは誰だと言いたいけれど言葉を飲み込んだ。
「ごめんごめん。キキがあまりにも可愛かったからついね。ほらほら、ご飯にしようよ。お腹すいてるでしょう?」
[……すいてる]
「プレシーの中に入ってる荷物はそのままこっちに持ってきてるんだったら病院で買ったカリカリも入ってるはずだし」
[……おトイレは?]
私室から出たキキは神妙な面持ちで私を見つめた。聞いてくる、という事はもよおしているのだろう。
遣い魔となってもトイレが必要なのかな……と思ったけれど食べたら出すし飲んだら出るのが私とキキの常識だ。恐らくキキが遣い魔になって変わったのは病気をしない体になったという事と寿命が私と同じになった。という事なのか。
「出そう……?」
[……]
無言は肯定と何処かで聞いた事がある。すぐに抱き上げるとトイレの置いてある洗面所の扉を開けた。
洋式トイレだから行けると思う。ペット番組で洋式トイレで用を足す猫とかたまにみるし。
[ヤダヤダお水怖い!]
「漏らすわけにはいかないの!!」
それが出来るようになるかはまた解らないのだけれど、洋式トイレの縁に猫を座らせ、落ちないように支えるとジョボジョボとした水音が響き安心する。
トイレが間にあって良かった、というこの安堵感は久ぶりな気がする。
キキを拾った日、手の平サイズのキキをはじめてネコトイレに連れて行った時や息子がまだ小さかった頃布パンツになって数カ月くらいかな。出先のトイレに苦労したんだ。
[次は……1人でいく]
屈辱的。という言葉を背負いキキはトイレの縁から降りた。
「そう?出来る?大丈夫?キキはママに似てどんくさいから」
[出来るよ!ホントそういうとこママうざい!]
この「ママに似て」というのは血が繋がってるとかそういうのではなくて「ペットは飼い主に似る」というところから来てる。調子に乗りやすい所とかうっかりな所とか。食い意地が張ってる所とか。そういうのもまた「うざい!」って思われる要因なんだろうね、きっと。
猫の姿で副音声みたいに言葉が聞こえるからダメージは少ないけれどこれが人の姿だったとしたら可愛い娘に「うざい!」って言われた日にはショックでお赤飯を炊いてはしゃいじゃうかもしれない。息子の反抗期の時にはやってやろうかと思ってたんだけど出来そうに無いからなぁ……。
反抗期の反応は確かにショックではあるけれど、反抗期があるという事は順調に心も成長していくという証拠であるらしい。動物的本能が遺伝子の近い相手を遠ざけようとするのだとかなんとか言われている。何処でみたか覚えてないからコレが正しいかどうかも解んないけど。
んで、キキのこの反応はというと人間で言う所の反抗期ではなく。
猫だから。
の一言に尽きる。
ともあれ砂をかくようにぬんちやちっちの沈んだ水をパシャパシャやらなくて本当によかったと思うよね。
1人でやる前に駄目だって伝えておかないといけないけどまた「うざい」って言われるんだろうなぁ……流石に腹が立ってきたから忘れたころにもふもふしちゃおっと。
トイレを流し、洗面所で顔を洗い、身支度を整えてキッチンダイニングへ向かう。
びったーんっと機嫌悪そうに尻尾を床に叩きつけるキキを横目に冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には牛乳、タマゴ、トマト、バナナ、チーズが入っていた。何なんだこのラインナップは。牛乳はいつも買うメーカーの美味しいものだったのが地味にありがたい。
調整乳を以前間違えて買った時は保育園の頃に飲まされた脱脂粉乳の記憶が蘇ってしまってどうやって片づけようか悩んだもんね。調整乳さんは最終的にクリームシチューになったけど個人的に苦い思い出になっている。
バナナが冷蔵庫に入っているのも疑問だけれど恐らく『食糧庫』的なものになっているのだろう、きっと。
ダイニングの椅子の上に置かれたエコバックの中からキキのカリカリを取り出し、器が見当たらなかったのでエコバックの中に入っていたスーパーのチラシで器を折ってカリカリを入れると座って待っているキキへ渡した。
器が無いとなると牛乳も飲めない。パックから口でいこうかとも思ったけれど不器用な私がやればきっと大惨事になる。飲む量よりも零れる量の方が多いんじゃないかな。
「う~んんんんん……」
最悪喉が乾いたら水を手ですくって飲めばいいし、今はキキも何をしてほしいか伝えてくれる。とりあえず冷蔵庫からトマトを1つ取り出してがぶりと喰らいつく。
もう片方の手で冷蔵庫に貼り付いていたタブレットを取るとそのままダイニング席へ移動した。
タブレットのホームボタンを押すと幾つかのアプリが表示されていて、その中のひとつ[モトカミマーケット]なるものをタップする。
≪こちらはモトカミマーケットです。初回ログインを記念して30,000G支給致します。≫
残高表示0となっていた所に30,000の数字が追加される。
「モトカミマーケット……って元神が運営してんのかな」
≪こちらではモンスターを倒した際に入手する魔石の買い取り、生活に必要なあらゆる物の購入が可能です≫
「えぇ?モンスターと戦うの?!危険なの?!私でも戦える?!」
そうだった、私が今居るプレシーも魔機哭とかいうモンスターの一種じゃん。プレシーは仲間だけれど、プレシーサイズのモンスターは間違いなく何処かに居るだろう。それが急に飛び出して体当たりなんてしてきたら……
うわぁ……何だかとても恐ろしくなってきちゃったよ。
≪本日のオススメ品はこちらとなっております。どうぞごゆっくりお楽しみください≫
私の独り言を無視して音声のガイダンスはオススメ品の一覧を並べた所で終わったらしい。
とりあえず今ハッキリ解っている事は。
・この世界は少なくともプレシーサイズのモンスターが生息している世界であること。
・モンスターを倒せば魔石?という換金アイテムが手に入るということ。
・このモトカミマーケットでは生活に必要なあらゆるものが手に入るということ。
……くらい?
私の残念な頭では中々に理解がしづらいのだけれど、とりあえず30,000Gぶんはお買い物が出来るらしい。まずはお皿とコップが欲しい。調味料と調理器具も欲しい。ネコトイレは……本猫が頑張ると言っているから今は大丈夫かな。
まずはオススメ一覧に目を通してみる。
≪本日のオススメ品≫
・はじめての魔法(本) :150G
・はじめての魔法陣(本):160G
・魔法陣練習帳:80G
・ノート(5色5冊セット):25G
・インク:15G
・ペン:30G
・樫の杖 :100G
・質素なフード付きマント:200G
なるほど、私が持っているのは魔法の才。だからオススメの品として魔法使い入門セット的なものが出て来たんだろう。インクとペンとノート2種類は3つずつ。あとのオススメの品は1つずつカゴに入れた。
ノート諸々を多めに入れたのは簡単に日記を付けておこうと思ったから。ゲームには攻略本が必要だけどこの世界はゲームみたいな?世界で攻略本が存在していないから残せるものはきちんと書いて残しておきたい。
オススメ品をカゴに入れた金額は今のところ1,060G。最初の必要経費として6,000G位つかっても良いかもしれない。
鍋とフライパン、菜箸、箸や器コップなど必要そうなものも籠に入れる。もちろんキキのご飯茶碗もね。ご飯茶碗といえば……お米も欲しいな。米びつは無かったけれどお米の保存が出来そうな大きな瓶もカートに入れておいた。
そして食料品。まずは塩と砂糖、お醤油なんかの調味料。あとはお肉類。気落ちした時は鶏肉が食べたくなるから今夜は唐揚げを作ろう。鶏肉だ鶏肉。あとはキャベツも買っちゃおう。油ものを作るのならついでに野菜の揚げびたしも作りたい。冷蔵庫があるから日持ちするとおもうし。あと無性に茹でたブロッコリーにかじりつきたいからブロッコリーも多めに買っちゃおう。
食料品の欄は見慣れた野菜もあれば聞いた事もない野菜もあって。(セロリヤックって何?)色とりどりの野菜達には心が躍ったし、果物のイチゴが目に入った時は少しだけ鼻がツンとした。思い出して哀しくなるのはこの先もきっと出てくるのだろう。無意識のうちに日常の色んなところに旦那や息子の影を探してしまう。大切に想うのなら良いけれど、自分の行動を妨げてはいけない。私がこの世界で生きている間2人は安全なんだから。泣いても良いし、寂しがっても良い。でも止まっちゃいけないんだ。
最後に衣類で下着やパジャマ諸々、シャンプーや洗剤等を入れて商品を購入した。6,500Gと少し予算をオーバーしてしまったけれど気にしない事にした。
でも購入した商品は何処から来て何処に届くんだろう……?
その疑問が浮かんだ瞬間、外から大きなものが落とされる音がした。
[きゅぉぉぉ~?!(なにごとぉ?!)]
プレシーの怯える声も聞こえ、扉から慌てて外に飛び出すと先程買った購入品が大きな段ボールに入って3箱程何もない空間からにゅっと現れ、プレシーの鼻先へと落ちていた。
「ごめんプレシー!ビックリしたよね」
ダンボールを退け、プレシーの頭を撫でてあげるとプレシーは[気を付けてほしいよぅ]と言いたげに小さく鳴き、うとうとと眠り始めた。光合成でもしているのかもしれない。
届いたダンボールの中から荷物を仕分けし、居住空間へ運んで片づける。
しばらくは安心……かもしれないけれどまずは戦う力、身を守る力を身につけなければならない。
元神さまから与えられた土地は広く結界に守られてはいるがこの中だけで生きて行くわけにもいかないだろう。モトカミマーケットの残高は有限で、いつかは自分でお金を稼いで生きて行かないといけないんだから。
とりあえず、まずは魔法の習得と近隣の探索からはじめてみよう。人にでも会う事が出来ればこの世界のルール的な事を教えて貰えるかもしれないし。
情報が無いのが一番怖いもんね。