6話 杏奈の躊躇
――久松杏奈の視点から――
そして時間は瞬く間に過ぎて、ふと壁にかけられた時計を見ると深夜になっていました。漫研部のみなさんはコップやお菓子の袋も片付けず、マンガ製作で疲れていたのでしょうか全員眠ってしまいました。
私は関金さんと、長谷さん、松河原さんととても楽しいお茶会を過ごしました。
それは、とてもとても品がなく、楽しいものでした。
……涙が出そうなくらいに。
お茶の葉も安物で、お菓子もお店にあったお徳用のお菓子だったのに、今までないくらいに美味しく感じられました。それは私の使役するゾンビの子や、連れ去った女の子としたお茶会とは比べるべくもありませんでした。
関金さんは同じ趣味であるという理由で出会ったばかりの私に優しくしてくれました。しかも私と過去の自分が同じとも言いました。
そんなはずがありません。
純粋な瞳を持つ彼女と、見た目同様心も醜い私が同じなわけが。まったく笑わせてくれます。
私は異形の姿になってしまいましたがなにも不思議な事はありません。私の悪魔のような内面が発露してこうなっただけです。
どれだけ漫研部のみなさんと一緒に温かな時間を過ごしても、結局孤独でした。
浮気性の父のせいで家庭は崩壊し、母は私を理想の娘に育て周囲から称賛を浴びる事で心を保とうとしました。なにもかもが支配され、そこに愛も自由も一切なく、私の心の闇は成長と同時に大きくなり、ゾンビハザードにならなくてもいつか母と父を殺していたでしょう。
狂った私はここに居場所はない。彼女たちは私が母親を殺した事も、同年代の女の子を拉致したうえゾンビにしてお茶会を開き、終末だらずチャンネルのメンバーを殺そうとした事も知らないのでしょう。
なんて馬鹿馬鹿しい。反吐が出るほど優しすぎます。この世界で優しさは命取りだというのに。
私は眠った関金さんに近寄り、その頬を優しく撫でました。
「むにゃむにゃ……バルサミコ酢……」
どういう夢を見ているのでしょうか。ここにサイコパスがいるのに彼女は怯える事なく穏やかに眠っていました。
「……………」
ふと考えます。私が彼女に噛みつけば関金さんはその心と引き換えに従順なお友達になれるでしょう。
それもいいかもしれません。
私は、口を開け彼女の首筋に顔を近づけました。
……でも、出来ませんでした。
なぜでしょう。私なら躊躇いなくそれが出来たはずなのに。友達ごっこで人間の真似事がしたくなったとでも言うのでしょうか。
なんとも滑稽です。ですが今は人間ごっこに興じるとしましょう。
「楽しい時間をありがとうございます、関金さん、長谷さん、松河原さん。私が人間であるうちにお暇しますね」
これはただの気まぐれです。私の気が変わらないうちにこの場を去るとしましょう。あの男の下に戻るのは吐きそうなほど嫌ですが、彼の異能により逆らう事は出来ないのですから。
彼女たちを起こさないように私は静かに立ち上がり部屋を出て行きます。明かりのない店内は真っ暗ですけど五感が優れた私にとっては問題ありません。
店の外に出ると外の世界は深い闇に包まれていました。いつ見ても美しい光景です。出来る事ならこのまま夜の闇に溶け消えてしまいたいですね。
さて、早速見覚えのある人が駐車場で待っています。私は少し驚きましたが、無視をするわけにもいかないので適当に相手をする事にしました。
「なんの用ですか」
眼鏡をかけ、冴えない風貌の若い男の名前は荒木希典。私を支配している修二とは身内のようですが私は希典という男について詳細は知りません。そもそも修二についてもそんなに知りませんけど。知りたいとも思いませんが。
酒浸りの彼は相変わらず一升瓶を片手に持ち、味わう事無くお酒をラッパ飲みしていました。
「お茶会は楽しかったかい?」
「……ええ」
彼はニマニマと笑いながらそう言いました。どこまで把握していたんでしょうか。いえ、きっとすべて見られていたんでしょうね。修二同様彼も決して敵に回してはいけない相手です。肉体も頭脳も怪物である修二が唯一恐れる相手なのですから。
「乙女の会話を覗き見するとは感心しませんね」
「ははは、なに言ってるんだい。君は乙女じゃないでしょ、人殺しが。お前さんが漫研部の子たちに手を出しそうになったら殺してたけどねぇ。ギリギリセーフだったねぇ」
彼は笑っていました。冷たい目をして。
修二に睨まれた時同様背筋が凍りました。異形の姿になった私は確かに普通の人間やゾンビよりも強い存在ですが彼らと比べれば赤子も同然でしょう。
「なら最初の時点で殺せばよかったのではなくて?」
「こっちにも事情があるのよぉ。でもなんで殺さなかったのかな?」
「私にもわかりませんわ。気まぐれとだけ言っておきましょう」
「ふーん」
私がそう言うと希典は怪しげな笑みをして再び酒を飲みました。この男だけは本当になにを考えているのか理解出来ないので相手をするのが疲れます。
「ところで杏奈ちゃん」
「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでください」
「ああそう。杏奈ちゃん、もう夜も遅いけど本当にそのまま帰るのぉ?」
彼は私の苦言を無視して下の名前で呼びますが、その不快感が吹き飛ぶくらい驚くべき発言をしました。
「なぜあなたが私の心配を?」
希典と修二の関係は良好ではない。当然その部下である私とも。にもかかわらず心配するなんてありえません。ですが彼は笑って、
「いやね、お父さんが迎えに来てるみたいだからさ。相手してやったらどうよ」
彼はそんなわけのわからない事を言って、高く飛び跳ねモン・キダーデの屋上にあがりました。
「お、お父さん?」
なぜここであの男の名前が? 意味がわかりません。
けれどその直後、ズン、ズンと地面が揺れる音がしました。地震ではありません。私は異変を察知し、駐車場の柵を飛び越え幹線道路に出るとその音の主を確認しました。
「これは変異ゾンビ……?」
それは身長5メートルを超える巨大な変異ゾンビでした。伝承で語られるトロールという怪物にも似ている醜悪な姿をしたその怪物は電信柱を右手一本でこん棒代わりに持ち、生臭い息を吐いて、視界に入れるだけで気分が悪くなりました。
変異ゾンビ自体は時々見かけます。ですがこの個体はほかのゾンビとは決定的に違いました。
「オマエェ、すっかりオンナらしいカラダになってきたじゃねぇかああ」
血のつながった娘ですら女として見るその男の澱んだ目を忘れるはずがありません。姿は変わっても色欲にまみれたクズな性根は変わっていないようです。
ああ、吐き気がします。この男のせいで私は男性という存在を汚らわしいものと認識するようになり、女性しか愛せなくなったのですから。
「あなたでしたの、お父様。ゾンビになっていたんですね」
あの男の生死なんてまったく興味はありませんでしたがこれはこれで幸運です。私は思わず笑みがこぼれました。
「会いたかったですわ! あの女同様私の人生を無茶苦茶にしたあなたはこの手で殺したかったのですから! さあ、お手伝いしてくださいまし!」
私は嬉々として使役するゾンビを呼び寄せます。するとどこからともなく甲虫のゾンビが羽音共に現れ父にまとわりつきました。みんなは鋭いアゴで懸命にその肉を食いちぎってくれます。
「オンナが、オトコにくちごたえするなああ!」
父は笑いながら電信柱を振り回します。耐久力に自身のある甲虫ゾンビもさすがに羽虫のように撃墜され、ぺちゃんこになり得体のしれない体液で道路を汚しました。振り下ろされたその一撃で地面が揺れ、当然道路のアスファルトは粉々に砕け破片が飛び上がります。
ふむ、さすがに大物のゾンビを倒すのには向きませんか。この子たちは本来防御特化ですからね。弾避けにはいいんですけど。
「小手先の攻撃は無意味ですか。私が直接手を汚すしかありませんね。ですが望むところですわ!」
この男を直接切り刻む事が出来る。私は前の世界で包丁でこいつをめった刺しにする妄想を何度した事でしょうか。ようやく願いが叶います!