待ち人は来ない
民家から食事の匂いが漂ってきた。夜風がさあっと吹き並木の枝が揺れ動く。様々な匂いが入り混じった独特の香り。どこか懐かしい匂い。夜の匂いというこれが、僕は好きだった。冬場というのもあるのだろう。夏よりもはっきりと明確に匂いは伝わる。
手に持ったペットボトルの冷気が指を冷やす。冬場であるにも関わらず、安いという理由だけで冷たいお茶を選んだことを後悔した。だが手持ちの飲料はこれしかない。嫌でも飲むしかないのだと自分に言い聞かせる。
ああ。待ち人はまだ来ないのか。そう呟く。
上を見上げる。古い街頭が明滅を繰り返していた。ぼんやりと明るくこの場を照らす。羽虫が数匹止まっていた。
半分晴れで半分曇りの夜空だった。まばらにしか星は見えない。遅い。まだか。僕は呟く。待ち人はまだ来る気配がない。もしや忘れ去られているのか、という考えが頭をよぎる。それはゾッとする話だった。退屈はなによりも辛い。
ふと、隣に立つ女に気が付く。最近ぼんやりする事が増えた。だからだろうか。女性が本当に近くに来るまで気が付かなかったのだ。
新社会人なのだろう。整っているがどこかあどけない顔つき。古い外套を着ている。裾から覗く袖は、スーツか。その女性は不用心にも僕の隣に立つ。こんな夜なのに警戒心も無いのかと呆れる。足早で家に帰るのが良いだろうに。
彼女は温かい湯気が出ているココアをのんびりと飲み始める。僕は自分の手に持ったお茶を見る。普通の500mgより少し大きい冷たい麦茶だ。素直に羨ましいと思った。
そういえば、幼い頃、母は冬場によくココアを作ってくれた。まだ無邪気でなんの穢れもない純粋で可愛らしい、というのは言い過ぎだが、そんな子供だった僕はそれを喜んで飲んでいた。
あの懐かしく温かい甘さが口に蘇った気がした。
「誰かを待っているんですか?」
「え?」
唐突に彼女がなにかを言った。思わず声をあげ、周囲を見回す。他に誰も居ない。
「誰かを待っているんですか?」
彼女は僕を見ていた。念の為後ろを振り返る。ちょいとへこんだ年季物の街頭しかない。ややあって、僕に話しかけたものと気が付く。
「なぜ、そう思うんですか?」
彼女の顔を正面から見据える。ああ、綺麗だと素直に思う。横顔は可愛らしかったが正面から見た顔は美しかった。彼女の形の良い唇が動くのを、ある種呆然としながら見つめた。
「いえ、理由は特に無いんです。ただそう見えただけで」
彼女の言葉に僕は少し俯き足元を見る。なんの変哲もないアスファルトが、街頭の弱弱しい光に照らされていた。彼女の影が濃くなったり薄くなったり。少し考えた後、僕は言う。
「前は彼女を待っていましたが、今は……そうですね。ゴドーを待っているんですよ」
「はい?」
彼女は戸惑っている様だった。僕は小さく笑いながら言う。
「ゴドーです。ゴドー。不条理劇ですよ」
「それは知っています。なんですか。辛気臭い。それじゃ待ち人は来ないじゃないですか」
「辛気臭い場所で辛気臭い事、言っちゃだめですかね?」
彼女は黙りこんだ。なんとなく喉を湿らせたくなった僕は、冷たいペットボトルから一口麦茶を飲む。飲みなれた味。代り映えしない味。
「それに、随分と待ち惚けてるんですよ。忘れられたのかな」
僕は努めて朗らかに笑って見せた。彼女は空を街灯を眺めながら、なにかを考えている様だったが、ふと顔を僕の方へ向ける。
「御歳は?」
「ん? ああ、ちょっと待ってください」
自分の歳を思い出そうと記憶の戸棚をひっくり返す。最近は自分の誕生日すら失念し始めた。誰かに言われてから、ああそうだ。誕生日だ。と、そう思いだす程だ。
「二十三。いや、三十一ですね。はい」
「三十一……」
呆然としたように彼女は呟く。驚くことは無いだろう、と僕は微笑む。三十台には見えないと言われるのは、少し嬉しい。三十台には見えない。四十だろうと言われるのは、少し悲しい。
「そういえば、こんな時間に何をしているんですか? 夜道は危ないですから帰った方が良いですよ。ここら辺、出るって噂ですから」
「幽霊がですか? 知ってますよ。地元民ですから。仕事ですよ。帰りたくても帰れませんし、まだ帰る気は無いです」
こんな深夜に外を歩き回る仕事。作業着ではない。顧客からの緊急の仕事が入ったエンジニアには見えない。IT系ではなさそうだ。ふとドラマを思い出す。バディ物で、僕も好んで見ていた奴だ。
「ああ。刑事さんですか?」
「まあ、そうですね」
ドンピシャだった。刑事に会うのは初めてで少し興奮した。
「それじゃ張り込みってやつですか?」
「いえ、相方が戻るのを待ってるんですよ。私も待ち惚けです」
僅かばかり親近感を覚えた。夜の退屈な時間を共有してくれる同志が現れた気分だった。おそらく彼女は直ぐに立ち去るのだろう。長く見ても数時間でいなくなる。だが、その数時間の間、僕は退屈ではなくなる。
「それはそれは……お勤めご苦労様です」
「いえ、それほどでは。そういえば、先ほど彼女と仰られたましたよね?」
「ええ。彼女を待っていたんです。大学からの付き合いで、婚約も」
婚約者の事を想うだけで胸が張り裂けそうになる時期はとっくに過ぎた。ただ僅かに寂しさを覚えるだけだ。時間は偉大だ。色んな苦しみを癒してくれる。それが諦めを伴っていたとしても。
「婚約……」
彼女は悲しそうな表情を浮かべた。感受性が強いのだろうか。僅かに目が潤んでいる。警察事情は門外漢な僕にも、この人は刑事に向いていないのではないかと心配になる。
「まあ、今は楽しくやってるみたいですよ。この前旦那さんとベビーカーに赤ん坊乗せて歩いてるの見ましたし」
その瞬間、彼女は僕にとっての待ち人ではなくなったのだ。最初はただ会いに来てくれるだけで幸せだった。顔をみれるだけで良かった。だが、彼女にとって僕はただの思い出へと風化し、そしてやがては慌ただしく楽しい毎日に埋もれて消える。
時々化石の様にひょっこりと顔を覗かせる事もあるかもしれないが、彼女はそれを手に取って懐かしがる程度だろう。そして楽しかった記憶の戸棚に、そっと仕舞い込むのだ。
「今は、誰を待っているんですか?」
「誰を。ゴドーですよ。ウラディミールとエストラゴンの立場が僕です。貴女は……ポッツォとラッキーではなさそうですね。悲劇に会ってもらいたくないものです」
僕がそう言ったタイミングだった。遠くの民家から一人の男が歩いてくるのが見えた。彼女と同じく、くたびれた外套を着ている。がっちりした体形だ。現場を知り尽くした刑事、そんな言葉が良く似合う。これがドラマなら主人公だ。
「貴女の待ち人ですか?」
彼女は小さく頷く。
「なら、早く行くと良い」
「貴方は八年待ってきました。あと何年待ち続けるのですか?」
彼女は小さな声で呟く。だが隣に立つ僕の耳にははっきりと聞こえた。
「待とうと思って待っている訳じゃない。待たなきゃどこにも行けないから待ってるんです。待ち人に忘れられたんじゃないかって、ひやひやしてますよ」
「待たせたな。行くぞ」
彼女の待ち人がやって来る。彼女は去っていった。そして僕は一人になる。古ぼけた街灯の下、一人で。
「お前、誰かと喋ってなかったか?」
「いや、気のせいじゃないですか?」
先輩が私に問いかける。私は立っていた街灯の下を振り返ってみる。あの疲れた様な背広姿の青年はもう見えない。先輩にも見えないのだろう。
彼女が僕を振り返る。だが僕の関心事はそこにはない。最早今の会話も思い出の引き出しにしまったからだ。会話を反芻しながら、彼女に言いそびれた事を思い出す。
ゴトーはゴッドのもじり、という説がある。つまり主人公ら二人は神を待ち焦がれていたのだ。僕はゴトーが来なければここから動くことが出来ない。このへこんだ古ぼけた街灯の下、八年前轢き殺されたその時から。
風が夜の匂いを運んでくる。どこか懐かしい匂いだ。当時から持ち続けているペットボトルの冷気で指が冷える。
まだ待ち人は来ないのかと小さく呟く。
十字路の下。待ち人は来ない。