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 宝来のおじさまは翌朝、朝餉を食べると都へと向かう。

 返してもらった書状を手に玄関先まで見送る。

 昨晩の言い争いなんてまるでなかったかのようにふるまう姿は、いつもの宝来のおじさまだった。


「ごめんねおじさんあんまり力になれなくて」

「いえ、いえ。おじさまが訪ねてきてくださって、わたくし嬉しく思ってます」

「蝶々のお姫さんは可愛いねえ」


 姿が見えなくなるまで手を振った。

 そうして日記の中から一冊取り出して、布団の中に潜り込む。昨日聞いた話を書きつけようと筆をとった。つらつらと書いていく文字には生気がなく、まるでいまの蝶々さんのようだった。


「わたくしは恋を知ることを諦めなければいけない」


 一度恋に破れたらしい蝶々さんは、周りを巻き込んで化け物と呼ばれるものになってしまった。また恋を知ったら同じことを繰り返すかもしれない。

 矢代は黙って見逃したりしないだろう。

 アゲハのように真っ二つにされる蝶々さんの姿を夢想する。


 わたくしはまだ恋も知らない。

 この一文を目にしたときは、とても新鮮な気持ちだった。なんだか新しいものが見れるような、ともすれば新しいものになれるような気がしていたのだ。

 恋というものをゆっくりと知っていき、温かな面と苛烈な面があることを知った。

 でもそれも今更だ。


「わたくしは恋を忘れなければいけない」


 戒めのように追加する。

 相談に乗ってくれた夕筒にも申し訳ないことをした。夕筒にとって恋とは苦いものであり、かけらも楽しい話ではなかっただろう。それなのによく話してくれた。

 せめてお礼だけでも言いたかった。けれども夕筒の姿は見えない。


 季節は冬へと変わりつつある。

 野生の蝶々の姿はもう見えない。

 蝶々さんは大事なことを思い出す。

 さなぎになってなんども繰り返す、そのことを。


 蝶々さんの思い違いでなければ、いつか蝶々さんはさなぎになって若くなりまた少女の時期を繰り返す。あの日記は、ひょっとしたら前の蝶々さんが書いたのかもしれない。

 前の蝶々さんはどこで恋という言葉を知ったのだろう。

 忘れなければならないのに、恋という字は離れてくれない。

 蝶々さんは自分の浅ましさに嫌気がさしてきた。


「ねえ星乃尾、夕筒に会えないかしら」

「夕筒ならもう来ないよ」

「わたくしが恋の話を聞きすぎたから?」

「いいや、そうじゃない。でももう来ないんだ」


 蝶々さんは自分が化け物だからいけないのかもしれないと考え始めた。これはあんまりいい考えじゃなくて、蝶々さんを苦しめた。

 このところ星乃尾は囲炉裏から離れない。

 囲炉裏の傍にはおばあさんたちがいるから蝶々さんは近づけない。

 おばあさんたちをおどかしてまで囲炉裏に当たりたいとは思わなかった。


 蝶々さんは本格的にひとりぼっちになってしまった。

 宝来のおじさまはお仕事で忙しいらしく、手紙を書いても返事がない。村の衆には会えない。家の中にも居場所がない。外に出ることは許されない。

 星乃尾が唯一の救いだった。


「ねえ星乃尾、お前もどこかへ行ってしまうの?」

「なんだい、止めるのかい?」

「いいえ。猫は自由なものだから。聞いてみただけよ」

「そうかい」


 蝶々さんは寝たきりになった。

 外が寒いのもあるけれど、起きてもすることがないのだ。

 うつらうつらと夢をみる。

 村の子供たちが遊びにくる夢。大きくなってまた会いに来てくれる夢。宝来のおじさまが小さかった頃の夢。季節ごとに移ろう庭を楽しむ夢。

 どれも幸せな記憶だった。


 そのうちに覚えのない記憶が紛れ込むようになった。

 見たことのない村の子供たちが会いに来る夢。庭の南天の位置が違う夢。小さな鯉を放す夢。宝来と名乗る見知らぬ人が訪れる夢。


 最初は短い時間だった。

 それがだんだんと長くなり、色形どころか声まではっきり聞こえてきた。

 日記を書く夢。

 わたくしはまだ恋も知らない。

 ああ、やっぱりあれは昔の蝶々さんだったのだ。


 いままで生きたすべてを思い出していく。

 たどり着いたのは子供のころの記憶。

 蝶々に手を伸ばして遊んでいたころから、恋を知ったころまで。

 帝に求められ、恋人はなんと言っただろう。主上相手では仕方がないと離れていった。あのぽっかりとした気持ち。

 一番最初の蝶々さんは、恋人から見放されても泣かなかった。辛くも感じなかった。それは恋ではなかったのだと思い込んで、絶望を隠してしまった。

 ひらりひらりと舞う蝶々に手を伸ばす。


「ねえ蝶々。わたくしはまだ恋も知らない」


 そこから先の記憶は途切れた。

 ただ、随分と目線の下がった蝶々さんを囲んで大人が大慌てしているところだけは思い出せた。


 最初の記憶にたどり着いたのだ。今度の蝶々さんはもう長くないだろう。

 さなぎになって、少女に戻るという蝶々さん相手に矢代は見守るのだろうか。それともさなぎごと切ってしまうのだろうか。

 どちらにせよ記憶はなくなる。


 蝶々さんは自分の前に自分が生きていたことを知らなかったし、子供のころがあったことも知らなかった。

 次の蝶々さんもきっとそうなのだろう。

 日記も着物もなにも残されず、ただ毎日を新しく生きていく。


「八重。お前さん長くはないね」

「分かるの、星乃尾」

「猫にはなんでもお見通しさ。やりのこしたことはないのかい?」

「夕筒に、会いたい」


 夕筒に会ったことは日記にも書いてないからきっと忘れてそのままだ。

 蝶々さんにはそれが辛い。

 星乃尾は前足をなめてちょっと考えるそぶりを見せた。


「蝶を飛ばしよ。匂いは覚えているんだろう?」

「都は遠いわ」

「猫には猫の、蝶には蝶の道があるのさ。いいからお飛ばし」


 蝶々さんは上半身を起こして、手近にあった紙を取る。

 蝶々の形に折ってふぅと息を吹きかけた。

 寒さにも負けず蝶々は健気に飛んでいく。


「さあ、お着がえ。起きるんだよ」

「もう夕餉も済んだのに。なぜ?」

「それが必要だからさ」


 いつかもらった蝶々の着物に着替える。縞模様の帯を締め、猫の根付を付ける。扇文の羽織を来てきちんと正座して蝶々の行く先を見守る。

 蝶々は暗闇をまっすぐに飛んでいく。

 都の灯りが見えたと思ったら、ひとつのお屋敷の中まで入っていってしまった。


 かがり火のたかれた庭には、一人の少年が座っていた。

 夕筒だと一目でわかる。

 蝶々が気付かれないように屋根にそっと止まった。

 まっすぐな瞳は屋敷の中の人を見つめている。祈祷師とはとても言い難い雰囲気をしていた。


「だからね、もう会ってはいけないんだ」

「何故ですか」

「護国局に目を付けられているのだろう。お前の身も危なくなる」

「今更でしょう。あるじの式神として上手く立ち回ります」


 夕筒は普段の眼帯を外していた。髪の間からは金色の目が覗いている。

 あるじの式神。

 ひょっとして、ひょっとすると、宝来のおじさまが言っていたのは夕筒のことなのかもしれない。

 蝶々さんはどきりとする。

 最初から祈祷師じゃなくて、陰陽師の式神だったのか。


「それはお前が勝手に名乗っているだけだろう。猫の頭目に愛された子。お前は人間なのだからいつかばれてしまうよ」


 そうなったら護国局が黙ってはいない、と青年の声が聞こえた。

 夕筒は人間で、猫の頭目に愛された子。

 なあんだ。蝶々さんは少しだけがっかりする。

 夕筒も人以外だったのなら、さなぎになった後でもまた仲良くなれるかもしれないと思ったのだ。すぐに首を振る。いま蝶々さんはよくない考え方をした。


「ですが僕は会いに行きたい。どうにも弱っているようなのです」

「蝶々のお姫様の噂は聞いているよ。でも、夕筒が行ってどうにかなるものでもないだろう」

「どうにかなるかは行ってみなければわかりません。後生ですから、許可を下さい」

「お前がそんなに強情に反論するなんて、初めてだ」


 蝶々さんは舞い上がる。

 夕筒が蝶々さんに会いに来たがっている。嬉しい、幸せだと心がさざめく。

 蝶々さんも会いたかった。夢でいいから会いたかった。夢にすら出てこないのが悔しかった。

 一目でいいから会いたい。

 蝶々を通してじゃない、夕筒の目の前に現れて、あなたのお陰で色鮮やかな世界が見られたと伝えたかった。


 座敷に触れる。

 触れた先から建物も布団も行燈もなにもかもが蝶々に変わっていく。

 星乃尾は変わらず猫のままだ。

 他の部屋から悲鳴が上がる。刀を振るう音も聞こえる。

 けれど蝶々さんには気にならない。

 あと少ししかない時間で、夕筒に一目会いたい。それだけしか考えられなかった。


 蝶々が舞う。蝶々さんたちをのせて都へと向かう。

 まるで雲のような蝶々の群れは真っ暗な道を通り抜け一直線に屋敷へと出る。


 夕筒も屋敷の中の人も声も出ないくらい驚いていた。

 でもそんなのはどうでもいい。

 蝶々さんは夕筒のそばに駆け寄ってしゃがみ込む。

 ほほをつかんで両目をのぞき込む。


「夕筒。最後にあなたに会いたかった」

「八重、お嬢さん。どうしてここに」

「蝶々にお願いしたの。もう時間がないから、一目でいいからあなたに会いたいって」

「時間……? さなぎに、なるのか」


 その一言で確信を持つ。

 夕筒はきっと星乃尾と連絡を取っていた。少しくらいいなくたって猫は気にされないし、猫には猫の道がある。宝来のおじさまと矢代の会話も星乃尾から聞いていたのだろう。


「わたくし全部忘れるわ。だからその前に、会いたかったの」


 夕筒がどうして蝶々さんに会いに来たのか、蝶々さんは知らない。

 初めて会ったときは祈祷師だと名乗った。

 陰陽師の式神と名乗ればもっと歓迎しただろう。

 村の衆と入違わなくてもいいように正式な客として扱っただろう。


 夕筒がなにを知りたくて星乃尾を置いていったのか知らない。

 蝶々さんも知らなかった蝶々さんの秘密が大事だったのかもしれない。だとしたら蝶々さんは上手に利用されていた。

 星乃尾に、夕筒に夢中だったのだから。


 でもそんなことはどうでもいい。

 夕筒は蝶々さんの他愛のないおしゃべりに付き合ってくれた。笑いながらも恋がなんなのか教えてくれた。

 蝶々さんに名前をくれた。

 利用できるくらい価値があったのならばそれでいい。


 蝶々さんの意識がだんだんと遠のいていく。

 たぶんさなぎになるのだろう。

 この屋敷の持ち主には迷惑をかけてしまう。けれど帰るだけの力はもうない。

 顔をゆがめた夕筒を見て、蝶々さんは不思議とのんきな気分になる。


「あなたの目はまん丸満月と新月みたいねえ」


 それが最後。

 蝶々さんの意識は飛んで、後のことは残された人の手に移った。

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