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都から人が来ることは滅多にない。それも、宝来のおじさまの遣い以外なんて来たことがない。
しかし目の前に立っている青年とおばあさん二人は都から来たと名乗りを上げた。
丁寧に書状まで渡される。
玄関先でさっと読んでみたところ、このところ世間は思いもしないことが続くから蝶々さんにも護衛役を付けるとあった。書かれた書名は宝来のおじさまのものではないものの、どうやらお偉い方かららしい。
護国局とあった。初めて聞く名前である。
慌てて子供たちのいない座敷に通してお話を伺う。
「矢代と申します」
短い挨拶をする護衛役の青年は、文明開化のすごろくでいう軍人さんの格好をしていた。武家の出なのだろう。背筋がすっと通っていてこちらまで緊張してくる。
矢代の言葉と書状によれば、これから蝶々さんの下働きは矢代が連れてきたおばあさん方が行うそうだ。
しゃっきりとしたおばあさんと、ほんわかとしたおばあさん。
都からはるばる来て大変だっただろう。隠しておいた干菓子をだしてねぎらう。
「こちらの屋敷でお世話になります。庭での鍛錬をお許しください」
「お庭が傷つかないのならいいですよ。どうぞよろしくお願いしますね」
蝶々さんからすると、こんな田舎の森の中に護衛役なんて必要なのかと不思議に思う。
なにせ村を通さないと来られない場所だ。
世間が大きく動いていることは宝来のおじさま伝手でも分かる。外の国と交流を持って、国の中から変わってきているらしいのだ。
蝶々さんのところではまだそんな気配は感じない。
断る理由も思いつかなかったので矢代とおばあさんたちを迎え入れたのだけど。
「そうだ、星乃尾……三毛猫が一匹おります。お客様ですので大事になさってくださいね」
矢代は不思議そうな顔をする。
どうにも素直な方なのだろう。猫は猫だろう、とその顔は言っていた。
おばあさんたちは心得たものでかしこまりましたの一言で済ませる。姫君は変わり者ですね、と。
次の日から村の衆は来なくなった。
もとより下働きに子供がついてきていただけだ。働く用事がなくなれば子供だけでは来られない。
静かになってしまった屋敷に蝶々さんは物足りなさを感じる。すごろくは一人でやっても楽しくないのだ。トランプなるものだってそう。花札じゃ星乃尾と一緒に遊べない。
仕方ないから蝶々さんは何日かかけてお屋敷を探索してみる。
おばあさんたちは下働きに来ていた村の衆と変わりなく仕事をしてくれる。
変わったことと言えば三食温かいご飯がでることと、味がちょっと濃い目にかわったことくらいだ。三人いたのが二人になれば一人の仕事の量は増える。蝶々さんはおばあさんたちの邪魔をしないようにそっと離れた。
庭では矢代が刀を振るっていた。
延々と同じところを切っ先がなぞる。しばらく見ていたが面白くもなかったので、星乃尾と遊ぶことにした。
まだ本格的に寒くなる前の縁側は居心地がよく、近寄れば膝に乗ってくる。星乃尾の喉を触れば気持ちよさそうに鳴らした。
「都というのはどのようなところでしょう」
一息ついたのだろう。
縁側に腰掛けて汗をぬぐう矢代に蝶々さんは問いかけてみる。
次々と新しい文化が花開くというその場所には、人がたくさんいるらしい。
商売をするもの、武家の方、公家の方、陰陽師のおじさま、職人の方、それからきっと蝶々さんの思いもよらないようなお仕事をしている人。例えば祈祷師さんだとか。
「聞いてどうするのです」
「どうも、気になったので聞いてみただけですが」
「なら、答える必要はありませんね」
蝶々さんはびっくりしてしまう。
別に都がどうしても知りたいというわけではなかった。
蝶々さんはおしゃべりが好きだ。だから、遠くから来た人にいろいろ話を聞いていればこの退屈も紛れるだろうと考えた、それだけなのだ。
矢代の答えは蝶々さんのお喋りをとめてしまった。
「はっきりしておきましょう。自分も二人の下働きもいないものとして扱ってください。会話などもってのほかです」
さらに追加で拒絶される。
矢代の顔には当たり前だと書いてある。
いるはずなのにいないものとして扱う。これは中々に難しい。
蝶々さんはいままで下働きのものたちに何かしてもらったときはお礼をしていたし、相談に乗ったり乗られたりしていた。
子供たちとはじゃれあい話を聞かせたり、逆にどんなことがあったのか聞いたりしてきた。
蝶々さんの生活からたわいのないお喋りを一切合切なくしてしまう辛い宣告でもあった。
昼餉もひとり黙々と食べた。
宣告通り、矢代もおばあさんたちもいない。三人とも静かなもので屋敷の中は蝶々さん以外に誰もいないみたいだ。
たったの数日で一変してしまった日常に蝶々さんは困惑する。
「わたくし、なにか悪いことをしたのかしら」
いつもは前向きな蝶々さんもしょげかえってしまう。
矢代が来たときは人が増えたと喜んだ。武家の方は初めてだから失礼のないようにしようとかいろいろ考えていた。子供たちに囲まれて、軍人さんだとはしゃがれても矢代は動じず子供たちに優しくしていた。
だからうまくやっていけると思っていたのだ。
星乃尾も前よりしゃべらなくなった。
矢代やおばあさんたちが住み込みなせいか、話すのは決まって布団の中だけ。
猫としては可愛らしいものの、それだけでは心は慰められない。
いつかしゃべり方も忘れてしまうかもしれない。蝶々さんは本気で心配した。
「今日はどれを読もうかな」
山ほどの本に囲まれても心が騒がない。書に向き合っても筆が乗らない。写生に出かけようとすれば矢代が黙ってついてくる。
これでは息が詰まりそうだ。
せめて楽しかった日々を思い出そうと日記に向き合うことにした。
書かれた内容は些細なものだ。
燕が巣をつくっただとか、村の畑にいのししがでて大変だったとか、見たもの聞いたものを片っ端から書いてある。これは蝶々さんにとって慰めになった。
子供たちの名前をなぞる。大きくなる姿を見られないのかと思うと胸が苦しい。
ある日、白紙に近い日記帳に行き当たった。
なんだったか、大切なものなような気がする。
ぺらぺらとめくってみればいつか見た言葉を見つけた。
「蛍ですら身を焦がすのに、わたくしはまだ恋も知らない」
蝶々さんの大事な秘密の日記帳だった。
相変わらず誰が書いたのか分からないけれども、恋について考えるのはこのぽっかりと空いた胸にはぴったりな気さえする。
最初に見つけた時よりは恋について詳しくなったのだ。
「わたくしは恋という言葉を知った」
現状を確認して声に出してみる。
うん、ぴったりだと満足した。
それから蝶々さんが書きつけていった言葉たち。好いた、一人だけを、惚れた。そういったものたちをひっくり返してみてみるとなんとなく形が見えてくる。過去形で語られる言葉の多いこと。
どうやら恋というのは病に似たところがあって、しようと決めてするものではないらしい。
だから日記を書いた人は恋もできないではなく、まだ知らないと書いたのだ。
この推論に満足すると、蝶々さんは誰かに話したくなった。
こんな話の出来る誰かは一人しかいない。夕筒はいまどこにいるのだろう。もう泊めてあげることはできないけれど、夕筒と話をしたくなった。
「ねえ星乃尾。夕筒はどこにいるのかな」
「夕筒ならどこにでもいるよ」
「どこにでも、ならうちの庭にも?」
「今はこわーい方がいるからね、庭にはいないかもしれないね」
布団の中で星乃尾と話す。
蝶々さんの秘密は日々膨れ上がっていって、宝来のおじさまに話せることはどんどん少なくなっていく。
宝来のおじさまに手紙をだそうと蝶々さんは思いつく。
時間が余って仕方ないので何か暇つぶしの方法を教えてもらおう。
矢代が都から来たのならば、宝来のおじさまも知っているはず。矢代が話し相手にならないのなら、宝来のおじさまだってなにか考えてくださるかもしれない。
蝶々さんはいい案だと思い付き眠りについた。
次の日は朝から手紙を書いた。
どうにかして現状を、なるべく穏便に伝えたいと思うもののどうしても私情が入る。
村の子供たちと遊びたい。話し相手が欲しい。わがままばかり書き連ねて、紙をびりりと破いてしまう。
矢代も宝来のおじさまもお仕事をしているのだ。子供じみたことばかり書けない。
昼餉を食べて、四苦八苦しながら文章をつづる。
屋敷は滞りなく回っています、庭では護衛役の矢代が刀を振るっておりますと生活に困ったところはないことを伝える。
そのうえで、子供たちと遊ぶ機会がなくなり時間が余っております。
仕事で来たお三人のお時間を頂くわけにもいかず、しゃべり方を忘れてしまいそうですと先日心配したことをそのまま書く。
どうか時間の使い方を教えていただけないでしょうか、そこまで記して満足する。
おばあさんに手紙を頼めば、矢代が村まで届けてくれることになった。夕暮れ時に護衛役が離れて丁度いいと蝶々さんは散歩をする。
しばらく外を歩いていないから歩き方も忘れてしまいそうだった。
星乃尾が足元をくすぐる。
持ち上げようとしたらにゃあんとひとつないて先を行ってしまった。
慌てて蝶々さんはついていく。
塞ノ神のところまで星乃尾は悠然と歩く。
蝶々さんは遅れないように、でも久々だからつい季節の移り変わりを楽しみながらついていく。
塞ノ神の向こうには人影がいた。
矢代だったら怒られる。直感して身構えると、笑われてしまった。
「八重お嬢さん、どうしたの?」
「夕筒。来ていたの」
「久しぶり。怖い方がいらっしゃるみたいだからこれ以上先はいけないけれどね」
「矢代はいま村にいるよ」
「ふふ、八重お嬢さんにとってもあれは怖い方なんだ」
夕筒は誰とははっきり言わなかった。蝶々さんが勝手に矢代だと思い込んでいたのだ。気付いて顔が赤くなる。
蝶々さん自身は決して矢代が怖いというわけではない。失礼なことをしたな、と反省する。
「武家の方は初めて会ったの」
「そう、それじゃあ驚いただろうね」
「ええ、ええ。話し相手になってくれないのよ」
「八重お嬢さんにとったら致命的だね」
八重お嬢さんと呼ばれるたびに蝶々さんは少しどきどきする。
いま屋敷にいる人は蝶々さんを姫君としか呼ばない。蝶々さんとも呼ばれなくなった蝶々さんを、八重お嬢さんと呼んでくれる夕筒。蝶々さんにとっては貴重な人だった。
黄昏時では顔も見えないけれど、澄んだ声は確かに夕筒のものだった。
笑い声が懐かしい。
今日帯は上手に結べていたかしら、蝶々さんはそんなことが気にかかる。
そうして恋についての発見を聞いてもらう。
「恋は病と似ていると思うの」
「へえ、随分と学んだね。さては恋でもしたのかな?」
「違うわ、星乃尾や夕筒に教えてもらったことを考えたの」
「そうか。そうだね、恋は病と例えられる。手に負えない病だと」
一段声を落とした夕筒は逆光でよく見えなかったけれど薄笑いをしていたようだった。知らない人のようでどきりとする。
「恋人に振られて、恋に破れて生まれた子供に当たる親もいる。捨ててしまうことだってある」
「子供に罪はないわ」
「罪があるかないかじゃない、病気なんだよ」
「壮絶なのね」
「うん」
それきり恋の話はやめた。夕筒にとって恋は敵のようだったから。
少し話すと夕筒は去っていった。それでも蝶々さんには満足だった。向き合って話をしてくれる人のどれだけありがたいことか。
村の衆にもっと感謝しておけばよかったと屋敷に帰りながら蝶々さんはまた反省した。