5
三毛猫はときどき蝶々さんに疑問を投げかける。
蝶々さんが想像もしたことないようなことを聞いてくる。
「外に出たくはないのかい?」
「退屈じゃないのかい?」
これには蝶々さんも困ってしまう。
外に出るのは禁止されているし、退屈なんて思ったこともない。そのまま伝えれば三毛猫は笑う。それ以上は何も言わない。だから蝶々さんは居心地の悪い思いをする。
夕筒が再会の約束を果たしてくれたのはそんな時だった。
村の衆が帰った後、ひっそりと尋ねてくれた夕筒を座敷に上げて、近頃のことを話す。
「三毛がおかしなことばかり言うのよ」
「へえ、三毛が?」
それから蝶々さんはこれまでに三毛猫に笑われた話をいくつかした。
夕筒は興味深そうに聞き入っている。
三毛猫はその膝でまったく関係ないといったふりをしながら撫でられて喉を鳴らしていた。
気をよくしてつい宝来のおじさまからの贈り物の話までしてしまった。
「あんな豪勢な着物、どうしていいか分からないわ」
「随分と贅沢な悩みだね。一介の祈祷師には荷が重い。お嬢さんは大事に大事に箱に仕舞われているんだね」
「はこ?」
夕筒も三毛猫も笑う。
案外この一人と一匹は似た者同士なのかもしれない。
蝶々さんは言われた言葉の意味が分からないものの、宝来のおじさまに大事にされているのは本当なので反論しないことにした。箱に仕舞われている、はどうやら恋の言葉ではないみたいだ。
夕筒や三毛猫と話すと自分がいかにもの知らずなのか教えられているような気さえしてくる。
「お嬢さんは三毛に名前を付けないの?」
「名前? 三毛ではないの?」
「三毛は猫の種類だよ。名前は普通別に付けるの」
「へえ」
今まで蝶々さんは、三毛猫のことをずっと種類で呼んでいたのかとびっくりする。
夕筒が三毛と呼ぶから三毛猫のことは三毛でいいと思っていたのだ。暗に名前を付けてと言われて、困ってしまう。
もうひとつ困ったことに思い当たる。蝶々さんは自分の名前を知らない。
ずっと蝶々さんと呼ばれてきたけど、蝶々さんは名前ではないのだ。ただ蝶々を飛ばせるから蝶々さん。これだと三毛猫と変わらない。
なんだかさみしいことのように思えてくる。
「夕筒。三毛の名前を付けてもいいの?」
「お願いしたいくらい」
「それじゃ、わたくしもお願いがあるの。わたくしに名前を付けて」
夕筒はきょとんとしてしまう。大人びた雰囲気が抜けて、年相応の少し幼い顔をしていた。
おかしなことを言ったかな、と蝶々さんは思いなおす。
夕筒は三毛猫に名前が欲しい。蝶々さんは蝶々さんだけの名前が欲しい。自分で付けるのは違う気がするので夕筒に頼んだ。どこかおかしかっただろうか。
「お嬢さんには名前がないの?」
「三毛、くらいの呼び方はあるわ。でも三毛は名前じゃないんでしょう?」
「そうだけど……僕なんかが勝手に付けていいもの?」
「誰にもお願いできないの。夕筒に付けてほしいわ」
宝来のおじさまは蝶々のお姫さんと呼ぶ。
遣いの人は蝶々のお姫様と。
村の衆は蝶々さんと慕ってくれる。
名前を呼んでくれる人はどこにもいない。
付けられても呼ばれることのない名前かもしれないけれど、蝶々さんは名前が欲しくなった。お嬢さん、と呼ばれるように名前で呼ばれてみたいと思った。
「本気なんだね」
「ええ、冗談ではないの。呼ばれることはないかもしれないけれど、名前が欲しいわ」
「じゃあ約束。次会うまでに僕がお嬢さんの名前を考える。だからお嬢さんは三毛の気に入る名前を決めておく」
「三毛の気に入る名前」
「猫はなかなか気難しいよ。お嬢さんがそうでないことを祈るね」
それじゃ、おやすみと夕筒が横になる。蝶々さんは自室の布団の中で考えた。
三毛猫はどんな名前が好きなのだろう。とたんに不安になってくるものの、蝶々さんは約束したのだ。代わりに自分の名前を付けてもらうと。
名前が欲しい。
三毛猫もひょっとしたら同じように思っているかもしれない。
蝶々さんは張り切った。
翌朝、日が昇るのと同時に夕筒は旅立った。
蝶々さんもなんとなく分かっていたので早めに着替えて見送る。
お祈りしてもらうのはつい忘れてしまった。祈祷師のお祈りなんて、と宝来のおじさまは馬鹿にしなさるかもしれない。
座敷で三毛猫を膝に乗せ本を読んでいれば朝はあっという間に過ぎる。
「おはようございます、蝶々さん」
「蝶々さん、今日は早いですね」
「おや蝶々さん、機嫌がいいねえ」
「おはよう、みんな」
下働きのおじいさんおばあさんと子供たちがやってくる。蝶々さんは自分に向ける意味も込めて宣言した。
「三毛に名前を付けようと思うの」
それはいい、と村の衆は喜んでくれた。
三毛が名前じゃなかったのか、とも言われたけれど、三毛猫だから三毛は安直すぎるよと誰かが反論していた。蝶々さんは安直だったのか。少し恥ずかしくなる。
子供たちと一緒に名前を考える。
猫の名前といったら、と端からあげられていく名前を紙につらつら書いていく。おじいさんおばあさんにも聞いてみて、被らない名前をまた紙に書き連ねていく。
さてこの中に気に入る名前はあるだろうか。
村の衆が帰った後に三毛猫を膝にのせて一つずつ読み上げていく。一つ読むたび三毛猫を見て、興味がなさそうなら次に行く。
そうして連ねた名前を読み切っても三毛猫の気に入る名前はなかった。
なるほど猫はなかなかに気難しい。
次の日は子供たちをおばあさんに任せて片っ端から本をあさる。
いいな、と感じる単語を抜き出してはつらねる。後から読んでいまいちなものは消していき、また晩になったら三毛猫に尋ねる。気に入る名前は一つもなかった。
五日ほど試してみたものの、なかなか三毛猫の名前はつかない。
「猫って本当に気難しいのね」
蝶々さんはお手上げで、おじいさんに相談する。
おじいさんは笑いながら蝶々さんの話を聞いていた。猫なんぞ好きに呼んだらええんですよ、とおじいさんはあんまり取り合ってくれない。
「だってそれじゃああんまりだわ」
「蝶々さんは、まるで猫に、夢中ですなあ」
おじいさんは猫に、の後でちょっとためらっていた。
蝶々さんは知っている。
このおじいさんは嘘が苦手で思ったことを正直に言ってしまう子だと。だから本当は夢中じゃなくてなにか違うことを言おうとしたのだろう。それじゃまずいから途中で変えた。
おじいさんの態度は不審だったけれど、追及するのはやめておく。
村の衆は優しい。
蝶々さんは困らせることをしたくない。
「尾白、というのはどうですかね。あの三毛の尻尾は先だけ真っ白ですから」
「三毛の見た目から決めるの。それはいいかもしれないわ」
早速その晩に三毛猫に伝える。
いままで全く反応しなかったのが嘘みたいに声を上げた。
「悪くない、けどよくもない。それはお前さんが決めたものじゃあないだろう」
「ええ。それじゃだめなの?」
「だめだね。やり直しだ」
三毛猫の要求はとても高い。
はてさて、蝶々さんは本格的に困ってしまった。
尾白というのは似合っているように思えたから、それ以上に似合っている名前を探さなきゃいけない。蝶々さんは自分が名前を付けるのは下手なんじゃないかと思い始めた。
夕筒はどうやって付けられた名前だろう。
本を読み直しているうちに、夕筒というのは夕星とも書き、宵の明星のことであると知った。
星の名前を持つ少年。少年から預けられた三毛猫。いったいどんな名前が似合うというのか。
「蝶々さん、今日も悩んでるねえ」
「遊んでくれないかな」
「だめだろねえ」
あれだけ楽しみにしていた子供たちのことも放っておいて、一日中三毛猫の名前を考える。
尻尾の先が白くて、それを気に入っているらしい三毛猫。星の名前を持つ少年とそこそこの付き合いだという三毛猫。しっくりくる名前はどんなものだろう。
本を読み漁る。特に星の話題を中心にじっくり探す。
これだ、と言う名前が思いついたのはそれからさらに五日後だった。
「三毛、お前の名前は星乃尾でどう?」
「星乃尾。どういういみだい?」
「尻尾の先に星を連れているから星乃尾。いいと思うのだけど」
「いいね、気に入った」
やったあと蝶々さんは無邪気に喜ぶ。
星乃尾、星乃尾と何度も呼びかける。星乃尾も心得たもので、呼ばれたらにゃあんと答える。
それから蝶々さんは星乃尾を膝にのせて背中を撫でてやった。ゴロゴロとなる喉が気持ちいいと伝えてくれる。
大きな仕事を終わらせて、蝶々さんはほっとする。
村の衆にも名前を伝えた。
たいそうなお名前を貰ったな、と星乃尾に話しかけるおじいさんの目は優しい。子供たちはまた蝶々さんが遊んでくれるようになったものだからはしゃいだ。
夕筒に伝えたい。自然と蝶々さんはそう思う。
三毛猫に名前を付けてもいいと言ったのは夕筒だ。猫が気難しいと言ったのも。
途中でくじけずに名前をきちんと星乃尾と名付けた。だったら夕筒にも星乃尾の名前を呼んでもらいたい。
夕筒が次に来るのはいつだろう。蝶々さんは夕筒が来る日が待ち遠しくて仕方なくなった。
本を読んで、子供たちと遊んで、日記をつけて、星乃尾に笑われて。日々はつつがなく過ぎてゆき、とうとう夕筒がやって来た。
「星乃尾と言うのよ」
自慢気に伝えれば、その通りと星乃尾が鳴く。
夕筒は少し困った顔をして見せる。
蝶々さんは戸惑った。
だってせっかく星乃尾が気に入る名前を付けられたのだ。褒めてくれるとばかり思っていたのに。
「そんなに立派な名前を貰うとは、出世したね星乃尾」
「よかった、気に入らないのかと思った」
「星乃尾が気に入ったのならそれでいいんだよ。困ったな、お嬢さんにはありきたりな名前しか考えてこなかった」
少年が困ったのは蝶々さんの名前のことらしい。
星乃尾のことでいっぱいいっぱいだったけれど、約束では代わりに蝶々さんの名前をくれると言っていた。
ありきたりな名前。
でも、夕筒が蝶々さんのために考えてくれた名前ならどんな名前だっていい。
聞かせてとねだる。
「八重」
「八重、わたくしの名前は八重」
「いいの?」
「ええ。できれば呼んでくれないかしら?」
「八重、八重お嬢さん?」
蝶々さんの胸ははちきれそうなくらいの嬉しさで満たされた。
夕筒以外誰にも教えられない名前だけれど、蝶々さんには名前がある。
八重という名前を貰った。
蝶々さんはすっかりこの名前を気に入って、夕筒にも星乃尾にも呼んでもらった。
蝶々さんは知らなかった。
人影が屋敷に向かうところを村のおじいさんが見かけたことを。
このところのまるで恋でもしているみたいな態度を不審に思われていたことを。
庄屋さんがそのことを都に告げたことを。
蝶々さんは知らなかった。蝶々さんの日常が崩されることを。