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 秋口といえど寒いから、と蝶々さんは布団代わりに着物をとって来ようとした。

 やんわりと止めたのは当の夕筒だ。

 お嬢さんの着物を汚す方が辛いと言われ、普段はもっと粗野なところで眠ると畳みかけられれば蝶々さんにはどうしようもない。布団は蝶々さんの分しかないし、それを貸すのはさすがにためらわれたのだ。


 行燈の火を消して、自室の布団に潜り込めば今日の出来事がぐるりぐるりと回る。

 好き、はいい。分かりやすい。

 恋、はどうにも分からない。

 恋を知ることができたと思った。けれども日記の一文は、恋というものがなんなのか知っていてなお知らないと言っている。

 これが分からない。


 相手を好きと思う、それは簡単なことだ。蝶々さんは村の衆が好きだった。

 たった一人を思う、これが難しい。よそ見をしないでその人だけに心を寄せること。そんなことができるのだろうか。

 できるのだとしたら、何故日記の文は恋もできない、ではなく恋も知らない、なのだろうか。


 恐ろしげに語られた夕筒の言葉。身を破滅させる、は本で幾度も出てきた。

 強欲ゆえに落ちぶれる、そういった話はいくつでもある。恋も強欲なものなのだろうか。

 考えたり思い出したりいったりきたりしているうちにいつの間にやら眠りについていた。


 翌朝もよく晴れた。きっと子供たちが来るのだろう。朝焼けを見ながら着物にかえる。絣模様に千鳥の帯。蝶結びは少し傾いたけれどまあいいだろう。

 急がないと夕筒がいなくなってしまいそうな気がする。


 玄関にはすっかり支度の整った夕筒がいた。

 近寄ってみれば、夕筒の右側、髪の長い方には皮でできた眼帯が付けられている。昨日は暗くてさっぱり気が付かなかった。


 村の衆が来る前に立つのだろう。見送るために下駄を履く。

 塞ノ神のところまで送ると告げれば夕筒は首を振った。ここでいい、と態度で示す。蝶々さんは残念に思う。この未知の来訪者をすっかり気に入っていたから。軒からちょっと出たところで夕筒がふいに声を上げた。


「ああ、お前。こんなところにいたのか」


 首根っこをつかまれたのは一匹の三毛猫。狩衣に埋もれる姿はふてぶてしく、可愛らしいものだった。

 蝶々さんは猫を見たことはない。

 村にいるのは知っている。形は絵で見たことがある。けれど生きている猫は初めてだった。

 ゆったりと上下する体に柔らかそうな毛の流れ。どうにも柔らかそうでつい手を伸ばしてみたくなる。


「知り合い?」

「そこそこの付き合いだよ。はぐれたからとうとういなくなったのかと思った」


 夕筒が三毛猫を蝶々さんに見せてくれる。

 三毛猫は緑がかった金の瞳をちらりと一瞥して、また夕筒の腕の中で気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。夕筒も慣れた手で背を撫でていた。

 猫には首輪をつけると聞くけれど、この三毛猫にはそれがない。

 そこそこの付き合い、とは野良と旅人の付き合いという意味だろうか。それにしては三毛猫に警戒心がない。


「そうだ、お嬢さんさみしそうにしていたね」

「そう見えた?」

「うん。だからこの三毛を置いていこう。きっといい話し相手になる」


 蝶々さんには魅力的な提案だった。

 この屋敷に住んでから不自由はないけれどときどきさみしくなることがある。初対面の夕筒に当てられたのが悔しくて見栄を張ってみたものの、すぐにばれてしまった。

 三毛猫が話し相手になるというのなら、そんなに嬉しいことはない。


「でもわたくし、三毛猫のもてなし方を知らないわ」

「三毛はもてなさなくても勝手に生きていくよ。軒先を貸すだけでいい。どう?」

「どうしよう、断る理由が見つからない」

「じゃあ決まり。さあ三毛、あちらのお嬢さんがこれからお前のいる場所だ」


 三毛猫の鼻先に夕筒は話しかける。三毛猫は夕筒の鼻にちょいと鼻を合わせると、ひらりと腕から飛び降りる。

 蝶々さんのそばに来て、足元へすり寄った。持ち上げろと催促されているみたいで、蝶々さんはおっかなびっくり抱き上げる。

 三毛猫は蝶々さんの腕の中でしばらくもぞもぞと動いていたけれど、丁度いいところを見つけたようで動きを止めた。

 夕筒が笑った。


「三毛はここでいいみたい。それじゃ、よろしく」

「がんばるわ。あなたはどこへ行くの」

「僕を必要とするところへ」


 両腕で抱えた三毛猫はおとなしい。まるで話が分かっているみたいだ。

 夕筒はと言えば、まっすぐな瞳をしていた。

 必要とするところ。

 これもまた魅力的な響きがする。夕筒は自分を必要としている人がいるのを知っていて、自分が必要とされているのを誇りに思っているのだ。

 祈祷師というのも案外まじめな仕事かもしれない。蝶々さんは少し見直した。


「また、来てくれる?」

「うん、いいよ」


 無茶を承知でお願いすれば、夕筒はあっさりと頷いた。

 蝶々さんの振り絞った勇気がちょっと空回りした気分だ。

 でも、再会の約束はした。

 今度会うならば日のある時がいい。そうすれば、蝶々さんの得意な綺麗な蝶々をいくらでも見せることができるだろうから。今度はお祈りをしてもらおうと密かに心に決める。


 夕筒は一度振り返って、手を振った。

 蝶々さんも手を振りたかったけれど腕の中には三毛猫がいたから精一杯笑って見せる。夕筒の後ろ姿が見えなくなるまでずっとその場で見送っていた。


「惚れたかい?」

「ほれた、ってなあに?」

「お前さん、言葉がちょっと不自由なんだねえ」


 蝶々さんはぼうっと答えていた。また新しい言葉だ。

 惚れた。

 これも恋の言葉なんだろうか。世間にはまだまだ知らない言葉がたくさんあるなあと一通り感心した。

 特に恋の言葉は多いみたいだ。どうしてか屋敷にある本にはひとつも載っていないようだけど。不思議なことが続くものだ。

 そこまで考えて、蝶々さんはいま誰としゃべっていたのか分からないことにようやく気付いた。


「あなたはだあれ?」

「いまはあんたの腕の中にいるよ」

「じゃあ三毛? 話し相手になってくれるの?」

「周りに人間のいないときならね」


 三毛猫は頭を蝶々さんに擦りつける。

 想像していたよりもずっと温かくて、ちょっと固い。耳はやわらかいみたいだ。

 腕の中のぬくもりに蝶々さんはうっとりと浸る。生き物を抱きしめるのは初めてかもしれない。

 赤子も子供たちも可愛いけれど、抱きしめてみたことはない。皆蝶々さんの着物が汚れから止めてくれと懇願するのだ。

 着物が汚れることなんかより、三毛猫にほおずりされる方がずっといい。蝶々さんはまた新しいことを知る。


 客間に戻れば夕筒のいた痕跡はすっかりなくなっていた。

 残ったのは三毛猫一匹。それも、おしゃべりの相手をしてくれる三毛猫だ。

 今は話す気分じゃないのか前足を丁寧に毛づくろいしている。やることなすこといちいち可愛らしいので蝶々さんはじっと三毛猫を眺めていた。

 三毛猫は、好き。

 新しい言葉で表現してみる。これがまた妙にしっくりくる。


「蝶々さん、今日はお早いですねえ」

「おはよう蝶々さん」

「おや、蝶々さん。猫なんて珍しい」

「おはよう、今日もいい天気ね」


 村からくる下働きの村の衆は、自分たちのご飯を作ってからくる。蝶々さんは働かない分だけ村の衆より朝が遅いのだ。

 くすくすと笑うおばさんからは優しい目線を感じるし、おじさんや娘さんは三毛猫に夢中だ。一緒に来た子供たちだってそわそわと三毛猫を見て手をだそうとしている。

 猫は自由にしておくのが一番。蝶々さんは本で読んだことがある。だからここに来た村の衆にまとめて言った。


「この三毛はお客様だから、そっとしておいてね」


 子供たちは不満そうに、下働きの者たちは蝶々さんはお優しいと褒めて頷いてくれた。

 とっさに出てきたとはいえ、お客様とは言いえて妙だった。

 蝶々さんのお客様に子供たちは悪さができない。手出しだってできやしない。なにより、三毛猫と蝶々さんの間には夕筒のとりなししかなくていつまでいるか分からないのだ。夕筒だって見失うみたいだし。


 子供たちと遊びに興じる。

 人形遊びがいい、外に出たい、他のすごろくでも遊びたい。今日も子供たちは賑やかだ。蝶々さんはそれを静かに眺めている。喧嘩になったらとめるけれど、一緒に遊ぶためにいろいろ考える姿はいじらしい。どうやら今日は折り紙に決まりそうだ。


 蝶々が折りたい。小さな子供の声に皆が賛同する。

 蝶々さんは見本になるように蝶々を折る。それから、難しいところは一緒に折って教えてあげる。

 大きな子供で手先な器用な子も同じように教えて回る。そうしてできた折り紙の蝶々を、蝶々さんのところに集める。

 子供たちの目が輝く。

 蝶々さんはにっこり笑って手のひらいっぱいに折り紙の蝶々をすくい取る。

 ふぅっと息をかければ、折り紙の蝶々は次々に色鮮やかな形豊かな本物の蝶々へと姿を変えて部屋いっぱいに飛び回る。追いかけて子供たちも駆け回る。


「あれはあたしの作った蝶々」

「違うよ、俺んだよ」

「こっちがあたしのかなあ」


 あちらこちらで子供たちがぶつからないように蝶々を動かす。

 蝶々さんには慣れたもので、この子供たちの親にだっておんなじことをしてあげた。覚えている限り昔からおんなじことをしている。


 三毛猫もいつの間にやら部屋に入ってきて蝶々へ前足を伸ばしている。

 そのうちに耐えられなくなったのか、尻尾を振って身をかがめる。ぴょんと跳ねれば蝶々が一匹前足に捕まって畳へと落ちてしまった。

 無残にも折り紙に戻った蝶々に、誰かの落胆の声が聞こえる。


「三毛、それはおもちゃだけどそういう遊び方はしないの」


 面白くなさそうに三毛猫は部屋を出て行った。

 元に戻った折り紙はもう一度息を吹きかけて部屋に飛ばす。子供というのは単純なもので、それだけでまた部屋の中を駆け巡る集団に戻っていった。


 晩、三毛猫は蝶々さんの布団に入ってくる。

 誰かと一緒に眠るのなんて蝶々さんには初めてだから、思わず体を固くする。三毛猫は自由なもので居心地のよさそうなところを一通り探すと蝶々さんのわきの当たりで丸くなった。


「あんたは情緒ってものがないねえ」

「あら、そうかしら。月見も花見も紅葉狩りだってするわ」

「猫が蝶々をおっかけてたら、可愛らしいと済ますものだよ。子供みたいに拗ねちゃってまあ」

「子供みたい、なんて夕筒と同じようなことを言うのね」


 三毛猫は笑った。

 子供みたいねえともう一度繰り返す。

 猫に笑われたのも子供みたいなんて言われるのも蝶々さんには新鮮なことでそれでいて面白くもない。三毛猫はすっかりなにもかも知ってるみたいだ。蝶々さんを置いて勝手に眠ってしまった。

 恋、というものをすれば子供じゃなくなるのだろうか。蝶々さんは眠る間際に夢想する。

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