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 皆が帰る頃になると無性にさみしくなるものだ。

 今日は道がぬかるんでいるから特に早く帰ってしまう。


 蝶々さんは今日のことをひっそりと思い出す。

 好きって言葉、それは新しい概念だった。

 書は好き、紅葉も好き、雨も好き。並べればなんてことないもののなんとなく使ってみたくなり子供たちと好きなものの話をした。


 恋、という単語をこっそりと使ってみた。

 恋が好き。

 言ってみたかっただけの言葉は子供には違う意味にとれたらしい。お庭の池の鯉がみたいとはしゃいでいた。


 つい塞ノ神のところまでと見送りにでてしまう。

 この先は蝶々さんが行けないところ。

 一歩踏み出すのもならないと、普段のへらへらしたところをしまって宝来のおじさまが強く強く戒めた。おじさまが困るのならばと蝶々さんは超えたことのない境。

 子供たちと下働きの家族が帰っていくのを手を振って送った。

 久しぶりに見た夕焼け空は段染めのように綺麗で蝶々さんは見とれてしまう。


「一番星、見ーつけた」


 夏の子供がやるように指をさして眺める。

 まっすぐ屋敷に帰るのには惜しくて、塞ノ神のすぐそばでじっとしていた。

 すると人影がこちらに近づいてくる。

 こんな時間に誰だろう。

 村の子供たちより大きいように見えるけれど、若い衆より小柄だ。

 蝶々さんは首をひねる。

 宝来のおじさまでもないから、あれはいったい誰なんだろう。丁度時刻は黄昏時で、顔がよく見えない。

 蝶々さんはどぎまぎとしてくる。

 もうちょっと、あと少しこちらまで来てくれないかと手招きしてみる。


「どうかしたの」


 見たことのない少年だった。青年と呼ぶにはちょっと若すぎる。

 白い狩衣のような姿が妙に似合っていた。

 さらりと流れる前髪は向かって右側だけ長く、後ろは一つで結んでいる。

 すきとおった肌といい、知性の宿った瞳といい、村の子供たちよりも品のある姿をしている。

 蝶々さんは少しばかり見とれてしまった。


 少年は塞ノ神をはさんで立っている。手招きしていた蝶々さんを少し下から覗き込んで訝しげにしていた。


「誰か分からなかったから呼んでみたの」

「なにそれ、不用心だねお嬢さん」


 少年の見かけをしているものの、中身は随分としっかりしているらしい。呆れたと言わんばかりに息をつく。

 旅の人なのだろうというのは蝶々さんにもすぐに分かった。

 この辺りで自分のことをお嬢さんと呼ぶ人はいない。蝶々さん、と皆呼ぶのだ。でも自分から蝶々さんと名乗るのもおかしいので、そのまま会話に興じる。

 なんと言ったって蝶々さんは人と話すのが好きなのだ。


「旅の人、この先に宿はないよ」

「そうなの? お嬢さんはどうしてここに」

「わたくしの屋敷がこの先にあるから」


 屋敷と聞いて少年は驚いたような顔をした。

 蝶々さんのお屋敷はこの辺りでは有名だと聞いていたのだけれど、あれは村の衆が勝手に言ってるだけなのかしらと不思議に思う。

 屋敷は村から近いけれど、村を通らないと入れないし出られない。一本道の行き止まりにあるのだ。


「お屋敷ならちょうどいい。僕のお仕事があるかもしれない」

「屋敷にはわたくし以外いないのよ」

「僕は祈祷師なんだ。せっかくだし祈らせてよ。ついでに泊めてくれると嬉しいな」


 足がもう限界なんだと真顔で告げる少年に、蝶々さんはおかしくなってくる。言っていることは勝手な気がするのにどこか憎めないのだ。

 つい二つ返事で了解して、少年を屋敷へ案内する。

 もう山の道は暗くて慣れないものが歩けばすぐに迷うだろう。いつ雨が降るか分からない中で少年を迷子にしたくはなかった。

 道中で蝶々さんは少年としゃべりとおした。そうしないとはぐれてしまいそうだったから。


「僕は夕筒(ゆうづつ)。お嬢さんがいて助かったよ」

「いつもはいないの。日頃の行いがいいのね」

「お嬢さん、そういうの信じる方なんだ」

「夕筒は祈祷師さんなのに信じないの?」

「半々くらい。信じても駄目なときは駄目だから」


 蝶々さんはこの新しい呼び方がすっかり気に入ってしまった。

 お嬢さん、なんだか可愛らしい響きだ。

 蝶々さんと呼ばれるのも好きだけど、お嬢さんという呼び方は特別な気がしてくる。だって蝶々さんを全く知らない、初めて出会った人だったから。

 話せば道も短いものですぐに屋敷についてしまった。なんだか勿体ない気もする。


 下駄を脱いで足袋も玄関に置いていく。床が汚れてしまったら下働きの仕事が増える。

 行燈にあかりをつけて、夕筒のためになにか拭くものを用意しようとした。ところがどこにあるのか分からない。

 足が汚れたままになってしまうと気をもんだけれど、夕筒は袴を上げていたらしく脚絆を脱いでしまえば案外きれいなものだった。

 袴を下して整える姿を見ながら、変わった着方をするなあと蝶々さんは不思議に思う。


「だって狩衣姿のほうがそれらしいでしょ」

「でも袴を脚絆で止めるなんて読んだことない」

「いいんだよ、床を汚さないで上げてもらえる方が大事なんだから」


 なるほどそれは一理ある。

 蝶々さんは本の世界が全てでないことをなんとなく察していたものの、ここまで破天荒にされるとそれも道理かと納得してしまった。

 客間に通せば荷物を下ろす。絞ってあった袖紐を緩ませて胡坐をかく夕筒はすっかりくつろいでいる様子だった。

 聞けば道に迷って随分と歩きどおしだったらしい。足をほぐす姿に蝶々さんの情け心がくすぐられる。

 晩ごはんにと用意してくれたお茶漬けを箱膳ごとあげることにした。

 そっと差し出せば夕筒が驚いた顔をする。


「これはお嬢さんの晩ごはんじゃないの?」

「わたくしは一日家にいたから、そこまでお腹が減っていないの」


 嘘をついた。

 一日中子供たちの相手をして、お昼ご飯だって足りないという男の子に少し分けたのだ。

 蝶々さんは長生きではあるけれど食べずにいられるほど人から離れていない。現にいまも箱膳を差し出したことをほんの少しだけ後悔している。

 夕筒はお茶漬けと蝶々さんを交互に見て、蝶々さんの決意をくみ取ってくれた。少しづつ味わって食べてくれる姿にほっとする。

 ひとりでもお客様を迎えられたことを誇らしく思う。


 今日は新しいことばかり、そう考えると嬉しくなる。

 昨日も新しいことがあった。

 わたくしはまだ恋も知らない。

 誰の言葉か知らないものの、ひっそりと体の中で響いている。


「祈祷師さん、お祈りは遠慮するわ。その代り知りたいことがあるの」

「商売上がったりだ。でも、僕にできることならいいよ」

「恋、とはなにか教えて」


 これが知り合いなら絶対に口にしない。通りすがりの旅の人になら、夕筒になら聞いてもいい。

 会って間もないけれど、この少年があっさりさっぱりとした性分であると思ったのだ。笑われるかもしれないけれど、ずっとからかわれるわけでもないし。

 答えを待って座っていると、とうとう夕筒は吹き出した。

 笑い声を抑えないまま畳の上を転がっている。

 蝶々さんはむっとなったものの、どうやったらこの少年が黙ってくれるのか見当もつかずただ口を尖らせた。


「ひょっとして僕、口説かれてる?」

「くどく、とはなあに? わたくし真剣に聞いているの」

「やっぱり。あのねお嬢さん、そういうことは二人きりの男の人に聞くものではないよ」

「どうして?」


 また新しい言葉がでてきた。

 夕筒は口説かれていると勘違いをして、でも違うと気付いて笑ったらしい。

 口説くとはいったいなんだろう。話の流れからして恋に関わる単語のようだ。

 それよりなにより、夕筒の忠告が気にかかる。二人きりの男の人には聞いてはいけないこと。男がひとり、女がひとり。夫婦に関係のある言葉なんだろうか。


「男の人は気があるってすぐに勘違いをしてしまうから」


 夕筒は自分を棚に上げて男の人について語る。気がある、また新しい言葉だ。

 次々出てくる言葉はどれもピンとこない。勘違いというのも分からない。

 蝶々さんはすっかり面白くなくなってしまう。

 この少年は確かに蝶々さんの身を案じてくれているらしいけれども、肝心の質問には答えてくれていないのだ。それどころかどんどん煙に巻かれている気分になってくる。


「分かった、これで最後にする。それで、恋、というのはなに?」

「難しい質問だね。いままでの全部分かってなかったみたいだし、もうちょっと子供向けに言おうか」

「わたくし、今日子供よりもの知らずだって知ったばかりなの」

「へえ、それは賢い。何を教えてもらったの?」


 夕筒はすっかりこの状況を楽しんでいるみたいだ。なぞかけみたいにぐるぐると答えへむかないまま話を続けている。

 蝶々さんもむくれていたものの、だんだん話すのが楽しくなってきた。

 さっき思い切り笑われてしまえばどうということはない。今度は一緒に笑えばいいだけのことである。


「すごろくは皆でしたほうが楽しいことと、好きというのは嬉しさとあたたかさが混じった状態のこと」

「うん。すごろくは置いといて、好きっていうのはとてもいい解釈だと思うよ。心が対象から離れないって意味でもある」

「心が離れない」


 だとしたら、蝶々さんにとっては例の一文も好きということになるのだろうか。

 気が付けばそらんじていた。


「わたくしはまだ恋も知らない」

「そうみたいだね。恋っていうのは、相手を好きっていうのの強いやつかな?」

「よいものなの?」

「良くも悪くもある。たった一人を思うのは大きすぎるんだってさ。恋に陥って身を破滅させた人はどれだけいるんだろうね」


 蝶々さんの何気ない質問は、難しい話になってしまった。

 心の離れない、たった一人を好きと強く思う。それが恋だと夕筒は言う。

 それはそれは恐ろしいもののように語る。

 心に響く、わたくしはまだ恋も知らないという憧れに近い一文とは大違いだ。

 蝶々さんは混乱する。

 夕筒は嘘を言っているようには見えない。けれどもあの日記に記された文字もまた嘘とは思えないのだ。


 良くも悪くもある。

 日記を書いた方からは良いもの、夕筒からは悪いものと見えているのかもしれない。この発見のお陰で蝶々さんは少し冷静さを取り戻す。


「言葉の意味が分かったわ。ありがとう、夕筒」

「どういたしまして」


 夕筒の顔はすっかり澄まし顔に戻っていて、蝶々さんは安心した。

 触れてはいけないところに触れてしまったのかもしれないと案じていたから。垣間見てしまった夕筒のほの暗い微笑みは、そっとなかったことにする。

 恋というのはどうやら随分と厄介なものらしい。

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