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 蛍ですら身を焦がすのに、わたくしはまだ恋も知らない。

 蝶々さんは書かれた文字をなぞる。意味は全く分からなかった。


 話は少し前に戻る。

 秋の長雨ほど退屈なものはなく、蝶々さんはなにかすることはないかとずっと考えていた。

 本を読むには薄暗い。書に励んでも乾かない。写生だって同じ。遊びに来る子供たちもいない。日記を書くには早すぎる。


 ごろりと畳に横になったらせっかくの蝶結びの帯の形が崩れてしまう。今日の帯は調子よく結べたのだ、もったいない。

 格子の帯は紅葉の着物を際立たせていて、ここ最近のお気に入りだった。


 屋敷の中でも探索しようと決めたのはそれから半刻ほどたった後だった。よくよく知っている蝶々さんのお屋敷にも、もしかしたら珍しいものでも入り込んでいるかもしれない。


 思い立ったら即行動、蝶々さんはまず普段使わない部屋から順に回っていった。

 床の間のちいさなふすまをあけたり、箪笥の中をひっくり返したり。

 下働きのおばあさんはほどほどになさってくださいと笑っていた。小さい頃から変わらない笑顔につられて蝶々さんも笑う。


 ついには自室まで帰ってきて、ふすまの中を覗いてみる。日記と書と写生の山。

 ひとつひとつ取り出して、懐かしいと振り返る。これは鳥が描きたかった絵、これは手習いの文字を真似てみたもの。

 なるほどそうしていると時間がたつのも早いもので、蝶々さんは自分の思い付きが満足いくものだったと知った。


「さて、次は何がでてくるかな」


 掘り出していって、日記をぺらりとめくっては畳に積み上げる。代わり映えない毎日を記したもので、明日あたり読んだらきっと退屈しないだろう。

 長雨がいつ止むのか誰も知らない。楽しみはとっておいてもいいのだ。

 真っ白な日記帳にたどり着き、これで全部かとあたりを見渡す。

 八畳間は紙の山で埋もれていて戻すだけで大仕事になりそうだ。


 さて戻そうかと思ったけれど、ふいにこの真っ白な日記帳が気になった。

 新品を一番下にしまっておくなんてもったいないにもほどがある。

 いくら頼めば貰えるものとはいえ心が痛んだ。

 ぺらぺらとめくり本当に新品なのか確かめてみる。


「蛍ですら身を焦がすのに、わたくしはまだ恋も知らない」


 たった一文、書かれた文字は蝶々さんの文字に見える。けれども蝶々さんはこんな文を書いた覚えがない。

 もう一度、今度は黙って文字をなぞる。

 蛍とはあれだろう、梅雨の前に飛び交う光る虫のことだろう。身を焦がすの意味はちょっと分からないが、もっと分からないのはその後だ。

 恋。

 恋という字を蝶々さんは初めて見た。指でなぞっても覚えがない。

 それなのになぜだか読み方は知っている。

 これは、こい、と読むのだと頭の中で知識が囁く。


「わたくしはまだ恋も知らない」


 繰り返してみても書かれた文字は変わりない。

 丁寧になぞりながら、蝶々さんは口に出す。


「わたくしは恋がなんなのか知らない」


 この文を書いた人は恋がなにものなのかを知っているのだ。そうして、恋を知らぬと嘆いている。

 羨ましいと思う反面、不思議に思う。


 蝶々さんの屋敷には蝶々さんしか住んでいない。

 下働きの者たちは近くの村の衆で、交代で世話を焼いてくれる。彼らも文字は書けるし読める。蝶々さんの書を褒めてくれる。でもこんなところに勝手にものを隠しておく者はいない。


 いったい誰が、蝶々さんの自室のふすまの奥の一番下にこんな日記を置いたのか。

 いったいなぜこんなにも蝶々さんの文字に似ているのか。

 蝶々さんにはさっぱり訳が分からない。


「あら、まあ」


 ふうむと蝶々さんは悩みこんでしまう。

 秋の長雨の憂鬱なんていっぺんに吹き飛んだ。

 頭の中にはたった一文、それだけがくうるりくるりと回っている。

 どれだけ一所懸命に考えたって恋の正体は分からない。日記の出どころも分からない。

 部屋が薄暗くなってきてはじめて、蝶々さんは片づけをしなければと思い出した。

 日記を避けて、だいたい元通りになるようにしまいなおす。

 不思議な日記は念のため日記の中に混ぜておいた。


「蝶々さん、わしらはそろそろお邪魔しますな」

「はあい、今日もご苦労様」

「蝶々さん、また明日」

「夕餉はきちんと食べてね」


 慌てて土間まで駆けて行って、三人そろって帰る人たちの背を見送る。

 その間も蝶々さんの頭の中は恋の一文字でいっぱいだった。


 蝶々さんは村から離れた屋敷の中で一人暮らしている。

 身の回りのものはみんな贈られてくるし、日々の細かなことは村の衆がやってくれる。

 蝶々さんはいつからここにいるのか覚えていないし、いつまでここにいるのかも分からない。不便はなかったし、不満もなかった。秘密ごとだってささいなものばかり。

 それが今日、突然変わってしまった。


「これは、隠しとかなきゃ」


 恋という一文字と、日記の存在は知られちゃいけないもののような気がする。

 そのくせ恋がなんなのか気になって仕方がない。

 どうにも大事なことを忘れているような気がするのだ。


「相談する相手がいないって、不便ね」


 遠く都で陰陽師をしていると言っていた知人を思い出す。

 宝来(ほうらい)のおじさま、と呼ぶ人はまめにいろいろ助けてくれた。

 例えば流行りの着物だとか、子供と一緒に遊ぶ道具だとか、書や絵を描くための紙だとかを手配してくれている。

 でもこれはあのおじさまには知られちゃまずい、なにより知らないことをからかわれたら恥ずかしい。


「いままでの本の中にこの字があるかも」


 それはとてもいい思い付きだと蝶々さんは喜んだ。

 晩に用意された茶漬けをさらりと食べて、行燈に火をともして本と向き合う。

 なるべく最初から、昔読んだ本から順に選んでいって確認する。本があんまり面白くって脱線したりしたけれども、あいにくその日は恋という字を見つけられぬまま眠気がやってきてしまった。

 なんとか体を洗って、布団を敷いて横になる。


「わたくしはまだ恋も知らない」


 この一文がどうしても頭を離れないまま、眠りについた。


 翌朝は珍しく晴れた。

 長雨続きでできなかった仕事を始めたのだろう。手伝うほど大きくない子供たちが6,7人赤子をおぶって小さな子の手を引いてやってきた。蝶々さんは子供たちと遊ぶのを楽しみにしていたので、これを歓迎した。


 まだぬかるんだ庭先ではとてもじゃないけど毬付きはできない。うぐいす笛は春のものだし、なにして遊ぶか頭を突き合わせて考える。

 小さな子たちはまだ蝶々さんに慣れなくて恥ずかしそうに後ろでもじもじとしていた。


 蝶々さんはこのあたりでは飛び切りの美人だ。

 真っ黒な髪は滑らかでつやがあり、真っ黒な瞳はじいっと見ていると吸い込まれそうなくらい深くきれいだった。

 だから自分の髪をいじっては同じ黒なのにどうして違うのか悩む時期があるそうだ。下働きのおばあさんの言うことだけれど。


 すごろくがいい、と男の子が言い出す。

 こまが足りないのは二人か三人で組んでやればいい、と。子供たちも蝶々さんと遊ぶのが楽しいので、別々にやろうとは言わない。そうしてすごろく遊びが始まる。


 最近贈られてきたすごろくは、新しい文化とやらが紙いっぱいに描かれていてそれだけで子供たちは夢中になった。

 蝶々さんも初めて見たときは隅から隅までじっくりみて、なんどもひとりで遊んだものだ。

 すごろく遊びが始まれば、誰がさいころを振るかで揉めたり中々進まなくていじけたりと可愛らしい限りだった。そんなときは蝶々さんが仲裁に入って、まあるく収めて次へと進める。

 すごろくは大人数で遊んだほうが楽しい、と蝶々さんもひとつ覚えた。


 なんども遊ぶうちに、赤子がひとり目を開けて泣き出した。

 慌てて少女がなだめるものの、一向に泣き止む気配はない。

 他の子がつられて泣きそうになり、部屋には不穏な気配がにじり寄ってきた。


 蝶々さんは懐から紙を取り出す。

 長方形を二つに折っただけのそれを両手に乗せて口の高さまで持ち上げた。

 年上の子供たちが息をのむ。

 年下の子供たちは訳も分からずじっと蝶々さんを見つめている。


 ふぅ、と息を吹きかける。

 紙は手のひらから滑り落ち、滑空して舞い上がる。

 見上げればアゲハが一匹飛んでいた。

 蝶々さんが泣いている赤子を見つめると、アゲハはひらりと赤子のそばまで降りてきてふんわりふわりと顔の上を舞い踊る。赤子はぱちくり驚いて、それからきゃっきゃと笑い出した。


「あたし、蝶々さんのアゲハ好き」


 赤子をあやしていた少女が声を上げる。

 子供たちはみなそれぞれにあれが好きこれが好きと言い始めて収集が付かない。

 好き、と言われてふと思う。

 さて、好きとはいったいどんなものだっただろうか。


「ねえ、好きってなあに?」


 蝶々さんの子供みたいな質問に、子供の方が笑い出す。好きって知らないの、好きってみんな知ってるよ。

 蝶々さんは顔をちょっと赤くして、やっぱり聞かなかった方がよかったかなと反省する。

 少女は笑わずにうんうん唸って、蝶々さんの問いに答えてくれた。


「なんか、嬉しいし、あったかいなあって」

「嬉しくて、あったかい。ならわたくしあなたの笑った顔好きよ」


 少女ははにかんで、俯いてしまった。

 周りの子供たちは手のひらを返してずるいずるいと声を上げる。蝶々さんは笑いながら子供たちの頭を撫でる。

 この子たちも大きくなって、またその子たちが来るのかと思うと、とてもあったかい。それを好き、と言えばいいのだろうか。


「ねえ、蝶々さんお話して」

「うん、いいわ」


 蝶々さんのお話を聞く時間も子供たちは好いていた。

 この国であった昔話。遠い異国のおとぎ話。うそか本当か分からないおそろしいお化けが出てくる話。

 するすると流れるように紡がれる言葉は、聞いたことのないものばかりで子供たちはおとなしくなる。


 ひとつだけ不満があるなら、蝶々さんのお話には蝶々さんが出てこない。

 父母はいつだって昔話に織り交ぜて自分の話をするのに、蝶々さんの昔話は蝶々さんから聞いたことがない。

 せいぜい、村の衆から聞くだけだ。


 それもそのはず。

 蝶々さんは自分の過去をよく知らない。

 蝶々さんは自分が普通ではないことを知らない。

 たとえば少女の姿のまま長生きをしていたり、たとえば紙を蝶へ変えてしまったり。それが異常であることを知らない。

 そうして知らないことをおかしいとすら思わない。

 蝶々さんの日常は、秘密ひとつを抱えたものの、まだ日常のなかだった。

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