薬師の見習いです。
日差しは強く、影は濃く、気温が高い季節―夏である。
その強い日差しの中を歩く一人の男がいた。
頭上から強い日差しが刺さり、心中で「暑いんじゃあぁぁぁ!」と何度叫んだか分からないだろう。既に(内心で)叫ぶのも面倒なように眉間に皺を寄せたまま、人気の少ない川沿いの道を足早に進んでいる。川のせせらぎを耳にしても暑さは少しも和らぐ気配を見せないようだ。
川の傍らに広がる森が見えれば、目的地が近いのか足を速める。森に入って日差しが少し遮られる中を進み、周りの木々の陰に隠れるように建つ小さな家が見えた所で、男は漸く眉間の皺を緩めた。
小さな二階建ての家は、一階部分が店舗兼作業場、二階部分が生活をする場所だ。実際に男が二階に上がる事が出来たのは、先代が倒れた時のお見舞い一度きりなので殆ど覚えていない。あまり広くない、シンプルな部屋だった様に男は記憶している。
今は(本人曰く見習いの)小さな薬師が独り、先代の仕事を引き継いで暮らしている。
家の周りに敷き詰められている小さな石を踏み、ローブ姿の男は入口へと向かった。
ごりごりごりごりごり。
ひと抱えもあるサイズの乳鉢を台の上に固定し、一心不乱に中の物をすり潰す。乾燥させた薬草を薬研で粉状にし、それを更に乳鉢で細かくするのだ。
すると、乾燥させた薬草の粉が粘り気を帯びてくる。更にそれを練るようにかき混ぜ続けると、段々と深い緑色のとろりとした液体に変化して行く。何度目にしても不思議な変化だ。
全て液体になったのを確認し終え、煮沸と日光で消毒した布で漉し、ビンに詰めると『ダークグリュー』の完成だ。この薬液に魔法を付与すると、主に怪我に効く色々な薬になる。
一仕事終えた開放感からぐっと伸びをして、凝り固まったように感じる背中と上腕部をほぐす為にゆっくりストレッチをする。
そう言えば、先日このストレッチをしている所を、訪ねて来たお客様にうっかり見られてしまったのだった。気まずい空気と沈黙が広がったのを思い出してしまい、そっと屋外の様子を伺う。幸か不幸か本日のお客様の気配はない。
尤も気配を読むなんて高尚な事は出来ない。その失敗を踏まえて、川原で拾った小さく丸みを帯びた石を敷き詰めるように入口付近にばら撒いたのだ。それを踏むと音が聞こえ、来客の存在を教えてくれると言う寸法だ。先人の知恵ばんざいである。
一通りストレッチを終え、ほう、と息を吐く。さて、別に調合中の鍋の様子でも見るかと立ち上がったところで、じゃり、と音が聞こえた。段々とこちらに近付くその音は、我が家への来客を示している。
入口を注視するのも不躾なので、来客対応用カウンターに近付きその上をさり気なく片付ける。
足音から程無くしてドアを開け入って来たのは、暑い気温と強い日差しの中、真っ黒な、しかも長袖で、更に踝まである丈のローブを身に纏っている来客だった。
その常連の来客は入口の一角にカウンターと椅子だけがある店舗に入り、こちらに笑顔を向ける。それから手馴れた態度で椅子に腰掛けると、体内の熱気を逃がす様に深く息を吐いた。
「ああ暑かった。やあリッカ、元気かい。しっかしここは真夏でも涼しいね。いやもう、こんな暑い中出歩くもんじゃないよ」
「ステアツェッリ様。いらっしゃいませ。こちらは変わりありませんよ。ここは木陰な上に、近くには川がありますからねぇ。あれ?え…歩いて来られたんですか?」
「いやそれが、近くの町までは転移門で来たんだが、何故だか馬車が出払っていてね。町からここまではそんなに距離が無いと思って歩いて来たんだけど、思った以上に距離があったね」
「えっと、そのローブはこの季節には暑いのでは?」
「ふふふ。魔術師だからね。ローブは普段着なんだ。ちなみにこのローブの中に、温度があまり変わらない魔法をかけてあるから、夏涼しく冬は暖かい…筈なんだけどね」
それなら暑い寒いは感じないのでは…と思ったのが顔に出たらしい。ステアツェッリ様は苦笑を浮かべ、ひょいと肩をすくめた。
「日差しを遮るところまではしてくれないからね。改良の余地有りだ。あぁ、ありがとう。あー生き返る。あーあぁぁぁ……。朱の月はまだ替わって間もないし、暑いのは苦手なんだよ」
便利なローブの不便さに成る程と頷きを返し、余りに暑そうなので冷たい水で作ったお絞りを出してみた。嬉しそうに受け取ったステアツェッリ様は、いそいそとお絞りを広げて顔の上半分に当て、ぐったりとカウンターに肘を付きながら唸る様にため息を吐いては愚痴を零している。
その様子を見ながら、朱の月が中央に移ってから30日位しか経っていない事を思い出した。つまり、暑い。そして更に、当分はこの暑さが続くのだ。
この世界では天に桃・朱・橙・銀と、四つの色の月が昇る。一つの月が中央にあり、その周囲を残り三つが三角を描くように囲う。90日毎に真ん中に来る月の色が変わるのだ。
そして真ん中に来る月の色で季節が替わって行く。
花々の色を映す様な桃月の季節は、氷も溶け、花開く春。
太陽の色を映す様な朱月の季節は、緑も濃く、水光る夏。
枯葉の色を映す様な橙月の季節は、実り多く、風踊る秋。
氷雪の色を映す様な銀月の季節は、雪が降り、水凍る冬。
ちなみに、ステアツェッリ様ご本人は魔術師と自称したが、正確には魔術薬術師である。
色々な薬の大本である薬液に、魔法を付与する事が出来る者は結構居るのだ。
しかし、この資格を持った人はそんなに多くない。付与魔法以外の治癒魔術・防御攻撃魔術も軽々出来る様な、魔術・薬術双方においての実力者しか認められない、王国でも有数の資格なのだ。目の前にいるステアツェッリ様は現在三十代後半で、それでも異例の若さだが、資格を賜ったのは二十代後半だったというのだから恐れ入る。
先代である私の師匠がこの工房を開いていた時からのお得意様だ。
そう、今はお絞りに懐いているが、目の前に居るのは国に実力を認められ、その資格を取得した凄いお方…のはずである。
余談だが、私の様に付与前の薬液作り・薬草採取・調合をする者は薬師と呼ばれ、薬液に魔力付与が出来る者は薬術師となる。他にも魔術師・慰療師など色々な職があるが、その全てを担える「魔術薬術師」の地位はその遥か上にあるのだ。
閑話休題
「はー。よし。待たせてすまなかったね。さて本題に入ろうか」
漸く立ち直ったステアツェッリ様に促され、私は本題である商品をカウンターの上に出す。先程作った深い緑の他に、白・赤・青…等のカラフルな、更に濃淡二種の液体がそれぞれ入ったビンを並べていく。
ステアツェッリ様はそれをひとつひとつ持ち上げ、ビンを斜めに傾け、またゆっくりと振り、薬液の出来を確かめる。全ての確認を終えるとひとつ頷いた。
「うん。やっぱりリッカの作る商品はいい出来だね。じゃあ今日は『ダークグリュー』を30、『ダークララン』30、『ベイス』はライトとダークを20ずつ貰おうかな」
「ありがとうございます。ダークグリュー30個で銅貨150枚、ダークララン30個で同じく銅貨150枚。ライトベイス20個で銅貨40枚に、ダークベイス20個が銅貨120枚。合わせて銅貨460枚、銀貨では4枚と銅貨60枚ですね」
ひとつの素材から出来る薬液は、作成方法も同じ物でも『ライト』『ダーク』の2種に別れる。値段が違うのはその手間と効果の差だ。手間と言うのは魔法作業か手作業かの違いで、勿論手作業の物の方がより良い効果が得られる。
この工房でも両方作っているが、魔法で作ると薬研や乳鉢や鍋に素材を入れて、魔法で乳棒か薬研車もしくは匙を動かすだけ。手間がかからないし量産が可能だ。ビバ魔法。
不思議な事に、作成方法で色の濃淡が分かれる為、見分け方は専らそれである。例えばグリューなら手作業で作ると深い緑の液体になるが、魔法を使って作ると明るい黄緑色になるのだ。宝石に例えるならばエメラルドとペリドット程に色が違う為、どちらの方法で作ったか一目瞭然である。
今回買ってもらった『ララン』はオレンジ色の薬液、材料は木の皮。『ベイス』は真珠のような花の蜜を煮詰め作るが、この蜜は雨の翌日にしか取れない。ちなみにこのベイス、ライトはただの薄いベージュなのだが、ダークとなると何処となく艶めいた―真珠の粉を混ぜた様な色になる。上手く出来るとウットリする程綺麗なのだ。しかし一瞬でも気を抜くとすぐに焦げて色が変わるので、その手間と天候によって左右される採取量の為に少々割高となる。
他にも青い木の実で作る『ブル』、紅い花から作る『ルーフス』等、いくつか付与前の薬の基礎となる薬液があり、その全てにライトとダークがある。
銀貨銅貨と引換えに渡した商品は、ローブのポケット―ここもまた魔法がかけられており、見た目を無視した質量の物が入る。その上重さも感じないそうだ。なんて便利―に入れられた。
ステアツェッリ様が無造作に薬液をポケットに詰め込んでいる間に、今度は冷たいお茶を用意する。―以前、薬液のビンを確かめている間にお茶を出したら、新作の薬液と間違われたのだ。それ以降は買い物が終わってからお茶を出す事にしている。
「いつもありがとうございます。でも王都でもこのレベルの薬液なら売っているんじゃないですか?こちらとしてはありがたいのですが、暑い中来て頂くのも何だか申し訳ないです」
「いや。リッカの作る薬液の品質は誇っていいよ。流石先代の認める弟子だと安心出来る品質だ。まぁ…確かに王都でも無い訳ではないが、金額がね、全然違うんだ。…そうだなリッカの作ったグリューで言うと、ライトグリューがリッカの銅貨1枚に対して王都では5枚、ダークグリューに至っては銅貨5枚に対して20枚するんだよ。勿論これはリッカの薬液レベルで考えるから、多少は上下するけどね」
「は…?あぁ配送費と手間賃を考えると仕方がないのかな…。いやでも銅貨20枚って…」
この工房では『ライト』1個が銅貨1~5枚、『ダーク』1個が銅貨5~10枚なので、先程聞いた王都での価格に比べればお手頃価格と言えるのだろう。
「更には最近悪質な事件があってね。魔法で作ったライトに混ぜ物をして、ダークとして銅貨15枚位に値下げしてで大量に売り捌いた組織があったんだ。まあ既にその犯罪組織は捕まったが、あちこちに被害が出たらしいね。そんな訳で王都ではちょっと買う気にはならないかな。」
「ライトをダークに!?え、でも効果はどうなるんですか?」
「勿論、ライトのままだよ。いや混ぜ物をしている分、下手をするとライトにも劣る」
「酷い…」
見習いとは言え、私にも―誰かの助けとなれているという―薬師の端くれとしての誇りがある。思わず渋面を作ってしまったが、もう組織ごと壊滅されたから安心して良いと笑うステアツェッリ様に、少し安心して笑みを返した。
「ところで、以前も話したと思うが、リッカは王都には出て来る気はないのかい?リッカの薬液なら買い手にも困らないだろうから工房の仕事は続けられる。生活基盤なら、僕が後見になるから家に住めばいい。何度も言うけど、こんな寂しい森に、リッカみたいに若い女の子が独りで生活するのは心配なんだ。先代に頼まれたからだけではないよ。僕はリッカを娘だと言っても過言ではない位大事に思っているんだ。両親や妻やおまけの息子達も皆、リッカの話を聞いて君に会うのを楽しみにしているし」
「ステアツェッリ様…。ありがとうございます。ですが、私はここが好きなんです。育った場所でもありますし、おばあちゃ…先代に譲って頂いたこの工房も道具たちも、私の宝物ですから。ですが、娘のようだと言って貰えて嬉しいです。私も、その、図々しいかもしれませんが、ステアツェッリ様を頼もしく思っていますので…」
私の断りに表情を曇らせたステアツェッリ様だったが、続く言葉を聞いて喜色を浮かべたかと思うと、今度は立ち上がるなりカウンター越しに抱き締められた。
「そうか…!頼りにしてくれているか!リッカ、何なら僕を父と思ってくれていいんだよ?と言うか『様』なんて他人行儀な呼び方ではなく『お父さん』と呼びなさい!いや『パパ』でもいい!」
ぎゅうぎゅうと腕に力を入れながら無茶な事を言い募るステアツェッリ様。早く断りを入れなければという気持ちは山々だったが、力強く抱き締められている為返事を返すことが出来ない。それどころか腕とカウンターに挟まれて痛みと苦しさに息が詰まる。
呼吸すらも危うくなって来た事にマズイと思い、腕をぱたぱたと動かしていると、やっとこちらの状態に気付いたステアツェッリ様が腕を緩めてくれた。
「ああ、すまないリッカ。大丈夫かな?いや痛いだろう。今日は我が家に泊まってゆっくり休むといい。工房なら結界で守られているから留守にしても安心だし。うん、そうだな。住居を移すのはダメでも度々遊びに来ればいいね。ああ、あと屋敷にリッカの部屋を作っておけばいつでも泊まりに来れるね。そうだそうしよう」
今更だが、この工房は先代の時代張られた結界が半永久的に作用している。主の意志や不在時に応じて、他人が入れない様に出来るのだ。結界を張ったのは、目の前でうんうん頷いて思い付きを暴走させている―様に見せかけてしっかり計算しているステアツェッリ様である。
このまま放置すると連れ出されてしまうので、取りあえずこの腹黒―もとい、思慮深い大人を止めることにしよう。
「大丈夫です。と言うか、調合中の薬液があるので、工房を離れる訳にはいきません。ステアツェッリ様のご厚意には感謝致しますが、本当にお気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
「うん?…いやでも。……………仕方ないね。次の機会には絶対に遊びに来るんだよ」
目は口ほどにものを言ったのか一応納得してもらえたらしい。妙な間を置かれたのは気にしないようにしようそうしよう。
明らかに渋々とした態度で帰り支度をするステアツェッリ様を見送る為、カウンターを潜り隣に並ぶと嬉しそうにこちらを見て頭を撫でられた。
うん。親と言うよりも孫の成長に目を細める祖父の様だ―なんて口には出さない絶対に。
「あぁやっぱり暑いな。うーん、今度屋敷から直接の転移門を作ろうかな…。いやでもそうすると安定が難しいから他の方法を…。それとも夏だけは使いの者を…いやでもリッカの様子はこの目で見たいし。成長を見守るのは親の役得、ではなく役目だし。息子達にはリッカを見せるのも勿体無いからこれは却下で…」
先に扉を開き外に出たステアツェッリ様に次いで外に出ると、どうにも苦手な暑さへの対処なのかぶつぶつと思案を口に出している様子が見えた。小さな声の為に内容は聞こえないが、怪しさ満載の空気を纏っている為聞き取れる近さに行きたくない。声を掛けるのにも躊躇う様な雰囲気を醸し出すステアツェッリ様からつい目を逸らした。
ふと見上げれば、未だ高い位置にある太陽からの強い日差しが木々の隙間から伺える。うん、確かに暑い。
「…早く銀月の季節が来ないかな」
「ん?ああ、そう言えばリッカは冬の方が好きだったね。僕もだよ。せめて秋になれば涼しくなるのにあと50日以上あると思うとウンザリするよ…。あぁそうだ。いいかい?どんなに暑いのが苦手でも食事と睡眠はしっかり取るんだよ。それから紹介の無い客は結界内に入れない事。いいね?」
「はい」
「それから…。ああ、心配してもキリが無いな。また近い内に寄るから、それまで元気でいるんだよ」
「はい。ありがとうございます」
無自覚に零した言葉を拾われ、保護者的な心配を下さった後、ステアツェッリ様は何度も振り返りながら森の外へ戻って行った。
しかし本当にあの真っ黒なローブ姿で来たんだな。フードを被れば多少は日差しもマシになるのではないかと提案すればよかったと、今更になって気付いたものの既に視界からその影は消えていた。
人影もなくなった独り静かな森の中に立っていると、何故だか先代に出会った日を思い出した。
もう10年も前の事だ。
突然見知らぬ森の景色に視界が切り替わった。その瞬間以前は厚い壁に阻まれる様に思い出せない。
なのに視線が低くなった事は自覚出来た。その事に混乱し、見慣れない色の月を見て更にパニックを起こしかけた。偶々薬草を摘みに出ていた先代が声を掛けてくれたのはその時だったように思う。あの時出会って、拾って貰っていなければ、今の私は無かっただろう。
本当に幸運だった。
見た目五歳の私は、先代との出会いの日を誕生日として、薬師見習いとして育ててもらい、そして今の私がある。
以前の事は相変わらず思い出せないが、一つだけ脳裏に描く様に理解している事がある。
私の居た世界の月の色は、この世界の冬の銀月が最も近い。
だから冬が好き。
蒼銀に光る月を、手が届かないと知りつつ眺め、そして「違う」と感じるのだとしても。
例え全てを思い出したとしても、今の生活や仕事、そして厚意を向けてくれる人達を、簡単に捨てて元の世界に戻るなんて考えられない。
けれど、いつか、私の月の色を思い出せるといいなとも思う。
不意に鳥の声が聴こえ我に返った。
目を閉じて深呼吸をひとつ。
そうして目を開き、また日常に戻る。
「シリアスなんて、全く私に似合わない」
そう独りごちて、愛しい我が家の扉を開き、工房の中に戻った。
この世界の大事な日常を、これからも過ごして行く為に。
ごりごりぐるぐる薬を作る人が書きたかったので書いてみたら、思いの他長くなりました。一応短編です。
追記:読み難いと思われる部分と矛盾点を修正しました。少しは読み易くなっていればいいのですが…。