第一章 闘争心
雨が降り続いている。
「・・・またか。」
そう粒やいた彼は、目の前の光景に唖然としていた。
衛兵が倒れている。一人や二人ではない。この区域を警備していたであろう全員だ。
もっとも、何人かは建物内の警備にあたっているはずだが。
ただでさえ、悪党共やウィーパーの件で忙しいというのに。
険しい顔をしていた彼に、駆けつけた衛兵が話しかけてきた。
「お前、知らないのか?」
何の事だかさっぱり分からない。
「『黒き影』だよ。」
首を傾げると、衛兵はつづけた。
「奴は、暗闇から突如現れ、風のように仲間を切り裂き、再び闇に消えたらしい・・・」
少し興味が湧いたが、そんな話信じられなかった。
「そんな奴いるわけないだろ。迷信だよ。」
そう自分で言ったが、それほどの腕を持っている人物を一人の知っている。
今は行方不明のはずだが・・・・。
「いや、実際に見たんだよ!奴は化け物だ、三人の衛兵を相手に闘っていたんだぞ。まるでつむじ風だった・・・。」
そう言った衛兵は、ピストルに手を添えた。
情けない。
「禁忌だよ。」
別の方角から声がした。
彼は、鉄の仮面を付け、両手でオルゴールのような物を抱えている。
監督官と呼ばれる者達だ。
「なぜ、私がコレを持っているのかわからないのかね?」
彼はオルゴールを撫でた。
監督官は、この光景を見て何も思わないのだろうか。
通常、監督官は下級の衛兵より立場は上だが、実際に闘ってみたら衛兵の方が強いだろう。
なぜなら、監督官は基本、禁忌を犯した犯罪者たちを敵とするからだ。
そのオルゴールで。
「禁忌を犯した者達。つまり、奴らは、この音にめっぽう弱くてね。」
そう言い、またオルゴールを撫でた。
やはり余裕の表情だ。
顔は隠れていて見えないが、言葉遣いから察せられる。
少し間を置いて、衛兵が言った。
「そんな物、何の役に立つんだ!奴は化け物なんだよ!ネズミだって操るらしいんだぞ!」
馬鹿げてる、そんなのありっこない。
それを聞いて、監督官も言い返す。
「ならば、蹴散らせばいいだけじゃないか」
また衛兵が言い返す。
まるで、ガキの喧嘩だ。
「聞いてられん・・・。」
そう呟き、二人の話が聞こえない距離まで離れて、壁に寄りかかる。
煙草をポケットから出して、火をつける。
この瞬間が唯一の楽しみでもある。
最近は、仕事ばかりでろくに休んでいない。
この件が片付いたら、一休みしよう。
煙草の火が半分まで来た時、彼はある事に気がついた。
雨が止んでいる。
さっきまでは、あんなに降っていたのに。
そういえば、辺りも静かになった。
静寂とともに眠気も訪れる。
欠伸をして、ふと空を見上げた時だった。
赤い屋根の上に黒い影がある。
いや、人か?
屋根の上に誰かが立っている。
そいつは、こちらをじっと見ている。
一瞬訳が分からなくなったが、すぐに思った。
鳥肌が立ち、背筋が凍る。
奴だ。『黒き影』
奴は、こちらを見たまま立っている。
距離があるが、真っ直ぐこちらを見ているので姿がよく見える。
不気味な仮面を着け、黒い服で全身を覆っている。
そしてなぜか、奴の周りだけ空間が歪んで見えた。
奴が本当に、話の『黒き影』だというなら、こうしてはいられない。
震える身体に喝を入れ、振り返る。
「監督官ッ!!奴だ!」
怒鳴るように叫んだが、応える者はいなかった。
振り返った場所には誰もいなくなっており、ただオルゴールだけが落ちていた。
不幸中の幸いだったことは、血が辺りに無かったことだ。
ならば、俺が奴を!
勢いよく屋根を見上げた瞬間、黒い腕が彼の首を絞めた—
—「・・・・・ヴォ、コルヴォ、コルヴォ!」
誰かが私を呼んでいる。
重い身体を起こし、呼ばれた方を見る。
そこには、メイドのような格好をした女性がいた。
「ハブロック提督がお呼びよ。」
そういうと彼女は、水を差し出してきた。
「カリスタ、すまない。」
彼女は、いいのよ、と言うとそそくさと部屋を出て行ってしまった。
この御時世だ、誰もが不安や悩みを抱えている。明るく振る舞うことは、簡単なことではない。
立ち上がると、少しばかり目眩がした。
まだ疲労が残っているのだろう。
だが昨日の事を考えると、笑いがこみ上げてくる。自分でも、余りに無謀な事をしたものだと思い出す。
まさか、衛兵から剣とピストルを奪い、(みね打ちだが)衛兵達を蹴散らし、終いには爆発物で壁を破壊するとは。
今考えると、もっと安全な方法があったのでは無いかと思うが、結果的に脱出できたのでいいだろう。
そんな事を考えつつ、建物の一階に降りて行く。
この『ハウンドピッツ・パブ』という建物、なかなか変わった造りをしている。
王政支持者達の隠れ家には、最適だが。
「おお、コルヴォ。疲れは取れたか?」
そう言った彼は、ハブロック提督。
煙草を吸い、意気揚々としているのが分かる。
彼は元々、女王の元で海軍に勤めていたようだが、摂政伯爵に排斥されたしまったらしい。
「ああ、もう大丈夫だ。」
疲れが顔に出ているのだろうか、ハブロック提督は苦笑いだ。
彼の隣にいる貴族のような格好をした男は、朝からビールを飲んでいる。
「コルヴォ、疲れてるところ悪いが、ピエロに挨拶をしてこい。奴には手を焼くこともあるが、奴の頭には値打ちがある。今後の計画にも必要な材料は、奴が揃えてくれるはずだ。」
トレバー・ペンドルトン。
彼もまた、過去の栄光は消え、今では庶民に成り下がってしまったようだ。
ここにいるだいたいの人に挨拶は済ましたが、まだピエロという人には会っていない。
そういえば、昨日はあの工房は閉まってたな。
「悪いな、すぐにでも仕事に取り掛かりたい。エミリーの救出にはお前の技と戦闘能力が必要だ。」
そうだ、今もエミリーは何処かに囚われているのだ。事態は一刻を争う。
軽く頷くと、外に出た。
ここは、海に面しているため風が心地よい。
鴎が空を飛び、海には捕鯨船が浮かんでいる。
疫病さえ無ければ、もう少し良い空気になるのだろう。
工房に入ると、そこには、丸い眼鏡をとり汗を拭いている男が座っていた。
「やぁ、コルヴォ。調子はどうかな?」
「もう大丈夫だ。よろしく頼むよ。」
ピエロという男は、どこか抜けている顔をしているが、芸術や技術に関してはかなり優れているそうだ。
「あなたは、凄いよ。まさか本当にコールドリッチ刑務所から脱出するとは。」
あの男が私に力を与えて無ければ、無理だったかもな。
アウトサイダー。
善でもなく悪でもない。
彼はそう言っていた。
虚無の世界から来たと。
ピエロは、散らかっている机の上から、不気味な仮面を掴んでコルヴォの顔に押し付けた。
「うーん、少し大きいかな。待って下さい。今、調整します。」
コルヴォは、その仮面をじっと見ていた。
「これが、暗殺者の仮面です。つまりあなたの存在を表すことになる。あなたは指名手配犯なのですから、顔を隠す必要があるでしょう?」
その仮面は、口は裂け、目は複雑な構造でできている。
まるで、死神のような顔だ。
「・・・そうだな。私が・・・。」
自分が今すべきこと、やらねばならないことを、もう一度心に刻んだ。
「大丈夫でしょう。あなたなら。」
コルヴォは、差し出された仮面を付け、刺青のある左手を強く握りしめた。