恋慕
わたしは本を閉じた。それは彼が読んでいるふりをしていつも机の上に広げていたもの。どういう話の本なのか尋ねたときに、彼が貸してくれたのだ。読んだことがないからわからない、と言って。
わたしはそれをもう何回読んでしまったかしれない。
正直に言ってしまうと、わたしにとってはとてもつまらない話だった。ただひたすらに恋をして、それに一心になっている憐れな女の話。とても男の子が読むとは思えない類いの本だ。そう思って彼に聞いてみたら、家から適当に持ってきたのだと言う。妙に納得してしまった。
わたしがこの本を持っている間、彼は特別それについてわたしに何かを求めるようなことはなかった。読んだ感想も、何も。早く返せという催促すらもなかった。ただわたしが三回目の二百六十五頁に差し掛かったときに彼が突然、その本、好きなのか、と言ってきて、わたしはそれほど好きでもないのに、うん、と応えて、そうしたら彼が、ならそれ、やるよ、と言った。
そのときわたしはやっぱり、うん、としか応えられなくて、今もまだわたしの手元にこの本がある。
わたしは閉じた本の背表紙をそっと撫でた。買ったばかりの頃はつるりとした手触りだっただろうそれは、すっかりくたびれてわずかなざらつきを指先に伝える。その肌に馴染む感触のまま、わたしは担任の読書終了を告げる声に促されて、その本を薄暗い学生鞄の奥にそっと仕舞った。
学校でのわたしの位置付けは少し変わっていると思う。特に気にしているというわけでもないのだけれど、ふと考えてみると、やはり不思議に感じる。クラスからの認識は必要最小限の接触で終わらせる女子、といったところだろうか。決していじめられているだとか無視されているだとか、そういうことはなく、普通に話もすれば、グループ活動で嫌がられることもない。わたしが体感したところ、そう思う。しかし決して一つのグループに属しているというわけではなくて、常に一定の人と話をするということも、グループ活動のメンバーが同じということも大概ない。その証拠に休み時間や教室移動はたいてい一人で、だからといって仲の良い友人がいないというわけではないのだけれど、なぜか――おそらくその友人たちがあるグループに属しているがために、わたしの学校生活の基準はやはり一人だった。わたしはそのことに別段不満を感じたりはしていないのだけれど。
しかしながらそう考えると、どうも彼とわたしの接触が不可解過ぎてならない。彼はおとなしいかと問われると、むしろ騒がしいと答えられるような人で、よく人の渦の中心にいる。そしていつも笑っていて、楽しげだと言えばいいのか、騒々しいと言えばいいのか。とにかく彼とわたしはとても違っていて、本来なら大した接触もないまま一生を終えてしまっていただろう、そんな関係が容易に想像できるから、彼と目が合ったときは驚いた。そして話しかけられて、ますます驚いてしまった。
彼との接触第一回目はわたしのお気に入りの場所でだった。
そこは本当に使われているのか不思議になるくらい古びていて、さびた南京錠はすでにある意味がない。そのことに気づいているのはわたしだけではないのだろうか。少なくとも教師陣はきっと知らない、もしくは知らないふりをしているか。つまりはその飾りばかりの錠は鍵がかかっている振りをして、実は鍵なしに容易に外すことができた。
その役立たずの錠を外して中に入れば、体育で使っていたであろう破れたマットや、耐久性に不安のある跳び箱、ペンキが剥げて何を伝えたいのかわからない看板らしき木の板、日に焼けた大きな布……。ごちゃごちゃと建物同様古い物で溢れかえっている。どれもこれも埃を被り、主人のいない蜘蛛の巣が至るところに引っ掛かり、潔癖症の人が見たら卒倒してしまいそうなそこは薄暗く、天井にぼんやりと浮かぶたった一つの白い蛍光灯はその役割を果たさない。だからこの建物内に光を届けることができるのはドアと、二つの窓だけなのだけれど、その内の一方、ドアの向かいの壁にある窓は開けることがかなわなかった。というのも、その付近にはいろんな物が積み上げられていて、過去には外の様子が窺えたであろうそれは今や光を断ち切るほど黒ずみ、ひびやら蜘蛛の糸やらで覆われていて、とにかく触れることさえ難しく、気がひけるものになっていた。わたしは一目見て、それを開けることはできないと悟った。一方これに対して、部屋の西側、ちょうど跳び箱のすぐ近くの足元にあるスライド式の窓は、ロッカーの扉を壁に埋め込んだかのようなもので、味気ない鈍色をしていて、光の存在を露ほども感じさせないものの開けることができた。いざその不透明の窓を開けてみれば、部屋全体を照らせないにせよ、少なからずその周辺の物はくっきりと自身の輪郭を現した。そんな貴重な光源と、安心感をもたらすそこの小空間がわたしを無意識に引き付けるものだから、わたしはそこの窓と跳び箱の隙間に腰を下ろすというのが習慣になっている。もちろん埃やその他諸々をはたくのは忘れずに。
そして、そんな学校の第一倉庫で、開かれた小さな窓を通して、わたしと彼は目を合わせてしまったのだった。
その日は学生たちが今か今かと待ちわびていた体育祭だった。運動が得意な人も苦手な人も、わいわい騒げる日、授業がなくなる日として何日も前から楽しみにしていた。わたしも例外ではなく、クラスメイトたちが体育祭の話題で盛り上がっているのを聞くたび、小説の一文字一文字をたどる目の奥は、つまらない授業をさぼれる貴重な機会に密かに胸を躍らせていた。
そしてその当日。わたしは自らの種目を早々に終え、熱気の湧き立つ運動場からひっそりと抜け出すと、一般的な女子ならば嫌うであろう埃っぽい、わたしの秘密の倉庫へと向かった。運動場から離れたところにあるその倉庫は、同じ学校の敷地内とは思えないほど静かで、微かに運動場の盛り上がりが聞こえるものの、その日が体育祭であることを忘れてしまいそうなほどだった。その日の天気は快晴。女子や一部の男子は憎々しげに空を見ては毒づいていた。そして女子の更衣室などでは、日焼け止めが出回り、忘れたり、無くなったりした者は悲鳴を上げるほどで。事実、わたしも幾人かの女子生徒に日焼け止めを貸したのだった。ぬり終わっていたからよかったものの、一人に貸すと瞬く間に色々な人へと回っていき、結果戻ってくる頃には空になっていた。――紫外線の脅威は凄まじい。そんなことを思わせるほどにその日の日差しはとても強くて、移動中もそんな鋭い光に焼かれていたのだけれど、あの倉庫に入った瞬間、肌に突き刺さる太陽光が消えるとともに目の前が真っ暗で何も見えなくなってしまった。突然の暗転に目の奥がちかちかしたけれど、しかし人間の順応性とはすばらしいもので、しばらく瞬きを繰り返していればその暗闇に目が慣れて、いつもの古ぼけた物たちが輪郭を明らかに映し出された。ここを出たときに今のとは逆に目が開けられるか心配になったけれど、それはどうしようもないもので、そこの涼しさにすぐに忘れてしまった。そのままわたしはあの淡く輝く定位置に向かうと座り込み、半開きの窓を全開にして、前日に仕込んでおいた跳び箱の上の本を手にとった。そこまでしたら次にすることは決まっていて、そのとき確認した左手首の時計は十時半頃を指していた。
それから二十分ほど経って、十一時。わたしは数十頁読み進めた本から顔を上げると、息を詰めて開け放たれた窓の向こうをじっと見つめた。誰かが近づいてくる音が聞こえた。気のせいかとも思ったけれど、しかしそれは空耳などではなく、一定の調子で聞こえてきて、確実にこちらに近づいてきているのがわかった。砂の擦れる音がした。それほど神経質にならずとも見つからないだろうと思ったのだけれど、妙に気になって、息を殺して目線よりわずか下の窓を通して外を伺った。大分近づいてきた足音は決して重くなく、生徒のものだと直感的に思った。ゆったりとした足取りだった。そしてそれは窓の近くまで寄ると、そのまま通り過ぎるかと思いきや、その右側にすとんと腰を下ろして座り込んだ。予想外なそれに、わたしは開かれた本をそのままにそれを胸に抱えこみ、意図的に瞬きを二度した。それからもしかしたら無意識に、身じろぎをして奇妙な緊張感を体の外に追い出そうと努めた。そのせいなのだろうか、はたまたただの偶然にか。その人物は、彼は、窓の右端から顔を伸ばし、こちらを覗いてしまったのだった。
その瞬間をきっと始まりに、その第一倉庫は私と彼の秘密になった。
朝の連絡の終了とともにチャイムが鳴り、先生が朝から寝るなよ、と声をかけて教室を出ていく。騒がしい教室でわたしはただ一人一時間目の用意をした。
あの日から彼は、彼もまた、あの倉庫にしばしば侵入するようになった。わたしが特に何を言ったでもなく、彼が自ら倉庫に来たのだった。わたしはあの使えない南京錠について何も言わなかったのに、彼はある日私より先に中にいて興味深げに部屋中を見回していた。それを発見したとき、思わず後ずさったのを覚えている。その数日後に聞いた話によると、わたしがいたから鍵が壊れているのかもしれないと思ったらしい。わたしはそれに、そうなんだとだけ返して、その日はそれ以降別れの挨拶を除いて言葉を交わすことはなかった。何度かそこで顔をあわせて、おそらく三度目くらいのときだったろうか。彼の定位置が決まった。わたしがいつも通りに本を読んでいると、彼が入ってきて、その頃にはもう彼の登場にも慣れていたから何も言わず、目も向けず、そんなわたしに彼は少しうろうろしたあと近づいてきて、本、好きなのか、と言った。尋ねる、というよりもただ呟いただけのような言い方だったけれど、わたしは何だかむずがゆくてそれをごまかすように、うん、と言って一枚めくった。かさ、と音がなった。彼はそれに何も返さず、何を思ったのか、何も考えていなかったのか、わたしの背にある五段の跳び箱の上に、よっ、と言って飛びのって、腹ばいになった。ただただ驚いて、声も出せないで、本を膝に広げたまま身をひねように彼を見上げていると、手足を伸ばしていた彼がそんなわたしに気づいて、何も言わず、に、と笑った。わたしはそれを見て、そして本に向き直って、意味もなく前の頁にもどった。それ以外できなかった。
彼がどうしてあの跳び箱を彼の居場所にしたのか、わたしはいまだに知らない。
授業の終わりと昼休みのはじまりを告げるチャイムが鳴り響く。先生が教室を出ていき、眠っていた生徒も動き出す。ある者は食堂へ駆けだし、またある者は机やいすを動かしはじめる。わたしはそんな中、ひとり弁当を机の上に出した。
彼が秘密の倉庫に訪れた、おそらく六回目のとき。わたしより先に彼がそこにいて、あの跳び箱の上であおむけになって、彼の学生鞄を右手に持っていた。わたしは別段驚くこともなく、ただ今日はあおむけなのか、とだけ考えて、中に入った。彼はわたしに気がついて、顔を起こしてこちらを見て、鞄をぶらさげたまま右手をあげた。いつもなら声を出す彼の、新しい静かな挨拶だった。わたしがどう返そうか悩んで、じっと見つめている内に、特に返事はいらなかったようで、彼は糸の切れた操り人形のように頭と手をもとにもどした。そのとき、手にあった鞄が先に落ちて、口が閉められていなかったから、中身がこぼれた。彼は、あ、と言って、それから少し沈黙すると、わたしが鞄に近づいてひざをつき、それに気づいた彼が緩慢な動きで起きあがった。彼が跳び箱からおりて、わたしが教科書を二冊手にとって、彼が鞄を拾って、わたしは彼に手のものを渡した。彼はそれを受け取って、鞄にぎこちなく入れた。その間にわたしは教科書とノートを二冊ずつとって、彼に渡して、彼はまたそれを不器用に入れて、わたしは残りの教科書とノートをすべて集めて、彼がそれを受け取って、入れづらそうに入れた。わたしはまだ床に残る一冊の本を手にとって、彼はわたしを見た。わたしはそれを軽く撫でて、彼に渡しながら、どんな話、と聞いた。彼は受け取って、片手で本をぱらぱらとめくると、読んだことがないからわかんねえ、と言って、わたしに差しだした。わたしが目の前の本を見て、それから彼を見ると、彼は、読んだらわかる、と言って、それをわたしに押しつけて、鞄を跳び箱の側に置き、そこによじ登った。そして今度はうつぶせになると、足を揺らした。わたしはよくわからなかったけれど、おそらく貸してくれたのだろうと思って、鞄にしまった。彼の学生鞄はやはり開いたままだった。
その日から、わたしはその本ばかりを、その本だけを読んでいる。
授業が終わって、部活動のないわたしは教室にひとり残り、四分の一に切ったルーズリーフを一回折って、それをあの本の二百六十五頁に丁寧にはさんだ。そしてそれを鞄の中の教科書やノートの上に置いた。遠くから運動部の掛け声と楽器の音が聞こえた。
彼に貸してもらった本の中で、一か所だけとても気に入っているところがある。主人公の女の、三回目の恋。唯一告白をすることもされることもなかった話。偶然出会った優しい男と哀れな女の話。偶然に出会って、なんとなくお茶して、いつの間にか連絡を取り合うようになって。ただ話をして、女の心情だけが地の文で吐露されていく。男の心はわからない。男は女の気持ちを知らない。読者と女だけが女の気持ちを知る。けれど、女の気持ちはわからない。理解できない。女自身がそれをわかっていないから、他の誰にもわからない。ただわからないという事実のみを知る。そんな中で一か所だけ、男に対する女の気持ちを知らしめようとしている文がある。それを読んだとき、なぜだか何度も読みなおして、読み取れなかったのでもないのに、何度も見て、けれど満足できないで、仕方なく次の文に移った。妙に気になって、けれどわけは自分でもわからなかった。まるで作中の女のようであった。それが一度目で、しかし二度目も同じで、内容は大体覚えているはずなのに、やはりそこだけは何度か読み返して、次に移った。このときも、理由はわからなかった。そして三度目。読み返すことはなかった。あの何度も見た文が吸い込まれるように胸に入っていくように感じた。腑におちた、と表してもいい。理由はどうしてもわからなかったけれど、それでいい気がした。気にならなかったから。そのあと何度か読んだけれど、あの文を読み返すことはなかった。そしていつの間にか、お気に入りの言葉となっていた。ふとしたときにその文字列が頭の中にぽっかりと浮かんできて、それにわたしが気づくと、すっと溶けこむようにして消えていった。わたしはそれに特に何を思うでもなく、ただ本を読もうと思う。それはよく朝の読書中や、あの倉庫で起こったから、そのときはいつも通り読書中だった。ふと本から意識が逸れたときにやってくるのだ。ただそのとき、胸の奥の奥で、何かがじわりとにじみ出るような、しみ込むような感覚におそわれて、息が詰まると同時に、身体の中心が温かくなって、そのたびにわたしはそれを持て余している。
その不思議な文は、二百六十五頁に書かれていて、どうしてわたしがそんな数字を覚えてしまっているのかは、やはりわからない。
さびて重い扉に手をかけた。南京錠はすでに外されていて、触れる必要はない。鍵のいらない扉をゆっくりと開けて中に入ると、短い声が聞こえて、薄暗い中に、予想していた通り彼がいて、予想していなかった、跳び箱の上でうずくまるという格好で、わたしを見ていた。少しの間だけ視線が交わって、彼の挨拶に応えなくては、と思うのに、口は動かなくて、わたしが何度目かの瞬きをしている間に彼は動き出して、跳び箱の上に座った。わたしは扉を閉めた。倉庫は暗くて、わたしの居場所だけが光っていた。わたしが彼に近づくと、寒くなった、と彼は呟いて、欠伸をした。おそらくこれは返事を必要としない言葉だったのだろうけれど、反射的にわたしは、うん、とだけ言って、立ち止まった。彼とわたしの間には、遠いとも近いとも言えない距離があいていた。彼はきっと、わたしがいつも通り跳び箱にもたれかかって本を読むものだと思っていただろうから、唐突に止まったわたしを見て、しかしわたしはその視線を受け取らずに、わたしの右腕にかかる学生鞄に目を向けて、左手でチャックを開けた。手首に巻きつく時計は四時過ぎを指していた。じじ、と音がして、それが静かな室内に響いて、わたしは彼からの視線を感じていた。彼はおそらくわたしの行動に疑問を抱いているに違いないのに、それをその視線から感じられるのに、何も言わないで、その様子を見ていた。わたしは彼の沈黙の中で、すぐに見つかった目当ての物をさがした。そして目に映ったそれを取り出して右脇にはさんで、つい先ほど開けたばかりの鞄の口を閉めた。彼を見た。わたしを見た。わたしは左手で本を持って、彼に差しだして、彼は目の前に突き付けられた一冊の本を見た。だから、読んで。わたしは言って、彼はわたしを見た。彼は無言だった。驚いたような無表情をしていた。わたしは一歩彼に近づいて、手にある本は、彼の胸に少しふれた。彼は本を見て、ためらいがちに左手を上げて、本にふれたから、わたしはそれから手を離した。彼は何も言わない。わたしは彼が本を膝に置くのを見ると少し笑おうとして微笑んで、踵を返して扉にふれた。そっと開けて、外に出ると、中を見ないように扉を閉めた。
結局、彼はわたしに何も聞かなかった。安心したようで、落胆した。わたしはすぐさま倉庫から離れて、学校を出た。校舎は茜色に染まっていた。いま歩く道も、ほのかな朱色に染められている。わたしはもうあの秘密の倉庫へは行かない。寒くなってきたから。そしてなんとなく、彼もまた明日からはあの倉庫に行かない気がする。寒いと言っていたから。それからきっと、彼はわたしがもうあそこへは行かないということをわかっている。話したわけでもないのだけれど、そう思う。ふと、突然に浮かんでくる、あの不思議な文。帰路の途中ははじめてで驚いた。それはなかなか消えず、頭を占めた。いつもなら消えるのに。なぜかは知らない。いや、それは嘘だ、わかっている。わたしがその文を忘れようとしているから。それを惜しむわたしがいるから。けれど、もうそれは今のわたしにはどうしようもない。彼に任せてしまった。それは少し前のわたしが決めたこと。時間が勝つのか、彼が勝つのか、その勝敗にわたしの心をゆだねてしまおうと。時間がわたしの頭から、心からあれを持ち去ってしまうか、それとも、彼があれをわたしの中におさめてくれるか。わたしがどちらを望んでいるのかは私自身わからなくて、そもそも望みは必要なくて、してはならなくて、この身体中に貼りついたこれをどうしたらいいのかわからない。ただわかるのは、とても苦しいということ。
わたしは立ち止まってしまわないように、引き返してしまわないように、地面をつぶして歩みを速めた。空は光を追いかけるように、追い立てるように、夜の色に変わっていく。過ぎゆく風景は薄い暗闇に沈んでいる。頭では一字一字を刻みつけるように文字が駆けまわる。上を見ると、輝く月と目があった。
そのせいで、思ってしまった。彼が二百六十五頁を開いてくれることを。わたしの言葉を包んでいる紙を開けてくれることを。願ってしまった。
月はわたしを見ている。わたしは月を通して見ている。頭を占めるのは苦しい言葉。そのあとに思い出す、わたしの言葉。
――恋愛でも友愛でも敬愛でもない、あなたに抱くこの感情は何でしょうか。確かに愛情の形を成しているのに、この愛情に特別な名前はない。それでもこの想いを愛情と呼んでよいものでしょうか。ああ、あなたの言葉が聞きたい。どうか教えてほしい。この感情は何という名のものですか。あなたはわたしをどう思っていますか。
「好きですか」
あまり恋愛小説は得意ではないのですが、ある本を読み終わって唐突に書きたくなり、しかも話が浮かんだので書いてみました。いかがでしたか。少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
内容に関してひとつだけ。特別述べる必要はないかもしれませんが、作中の本は実在しません。私が勝手に考えました。
それではお読みいただきありがとうございました。




