浮気現場に向かったら人生が変わった。
「許さない……!」
マリアンヌは石畳を早足で歩いていた。腕には資料の束。息が荒い。
――今の顔は令嬢にあるまじきだろう。分かっている。けれど、仕方がない。
婚約者のレオンが、浮気をしたのだから。
前々から、マリアンヌとレオンの関係は良くなかった。主たる原因は、価値観の違いだ。
「お前の格好、正直ついていけない。婚約者があんな服を着てるの、周りに何て言われると思う?」
確かに、マリアンヌの服の趣味は一般的ではない。だから屋敷の中だけで楽しむようにしてきた。
「俺は商会の人間だ。婚約者の評判は、そのまま取引先の信用に関わる。隠してようが噂は広まってるんだよ」
――広まったのは、彼が愚痴の種にしたからなのに!
「……いた!」
マリアンヌは足を止めた。
視線の先、通りの向こうで寄り添って立つのはレオンと――見知らぬ女。
全く、レオンと浮気するなんて碌な女じゃないはずだ。
相手にも慰謝料を請求してやる。そう腹を括り、二人の前に立った。
「あなた達……えっ……?」
そこにいたのは――
息を止めるほど美しい女性だった。
ブロンドの髪に、くりっとした青い瞳。
すらりと通った鼻筋の下に、ぷっくりとした唇。
そして、しなやかに引き締まった体つきが際立っていた。
「嘘でしょう……こんなことって……」
思わず声が震えた。
「マリアンヌ。わざわざ邪魔しに来たのか?」
レオンが呆れた顔で言う。
しかし、レオンの嫌味も気にならない。
マリアンヌはふらつく足取りで近づいた。女が半歩下がる。
「……あなた達の関係を、認めるわ」
二人の目が同時に見開かれた。
「そのかわり――彼女を貸して!!」
「……え?」
「……正気か?」
レオンが眉を寄せる。
「啖呵を切りに来たと思ったら、それか」
彼女――フランシーヌは、困ったように微笑んでいた。
「私を借りる……どういう意味でしょうか……?」
「私の服のモデルになって!」
レオンは言葉を失う。
「……は?」
「そうよ!あなた、私の理想なの!完璧なのよ!!」
フランシーヌは目を瞬かせた。
「え……あの……」
レオンが口を挟む。
「いや待て。なんでそうなる」
「あら、合理的な話だと思わない?あなたは何も失わないのよ?」
フランシーヌは少し考え、口を開いた。
「……あの、私でよければ……」
レオンが振り向く。
「フランシーヌ?」
彼女は困ったように笑う。
「それで、認めて頂けるのでしたら……」
そしてマリアンヌに視線を戻した。
「でも、私を使う理由は本当にそれだけですか?」
「ええ!もちろん!」
レオンだけが深くため息をついた。
「……面倒なことになったな」
◆
「――どうかしら」
最後のリボンを整え、マリアンヌは一歩下がった。
深い黒の生地に、繊細なレース。
胸元から袖口へ流れる装飾はすべて手縫いだ。
重ねたフリルは軽やかに揺れ、腰のラインを美しく引き締めている。
「……」
フランシーヌは姿見の前で静かに立っていた。
レオンも隣で、間抜けに口を開けている。
「……すごい……」
小さく息をこぼす。
「……綺麗……こんな服、初めて着ました」
フランシーヌが裾を少し持ち上げる。その仕草すら絵になる。
「どうしよう……完璧……好き……!」
「え?」
「似合いすぎよ!理想通りよ!!」
フランシーヌの笑みが固まった。
「本当に素敵な服です。こんな細かい仕事、見たことがありません」
彼女は目を伏せる。
「でも……私が着ていいものなんでしょうか。
レオン様の婚約者の方が作った服を、
その……浮気相手(私)が着るなんて……」
少しの沈黙のあと、フランシーヌは振り返る。
「マリアンヌ様は……本当に平気なんですか?」
「ふ……振り返る姿も素晴らしいわ……!」
マリアンヌは勢いよくフランシーヌの手を取った。
「これからもよろしくね!」
フランシーヌは困惑しながらも微笑んだ。
「……変わった方ですね、マリアンヌ様」
マリアンヌはレオンに向かって言った。
「見て!かわいいでしょ!?」
レオンは息を吐く。
「そりゃあ……フランシーヌが着てるんだ。当たり前だろう」
それから腕を組む。
「フランシーヌ、嫌だったら言えよ」
フランシーヌは一瞬目を瞬かせ、苦笑した。
「いえ、私は……嬉しいです」
少しだけ頬を染める。
「こんなに誰かに似合うと言ってもらったこと、ありませんから」
レオンはあきれたように吐き捨てた。
「はぁ……目立つことするんじゃないぞ」
それからというもの、マリアンヌはフランシーヌのために何着も服を仕立てた。
「これ着て」
「これ、新作よ」
最初は戸惑っていたフランシーヌも、
「……少しだけ、楽しみになってきました」
「次はどんな服なんでしょう」
「マリアンヌ様の作る服、好きです」
次第に袖を通すたび、笑うようになった。
ある日、三人で街を歩いていると、通りの向こうから視線が集まるのを感じた。
「あのドレス……」
「綺麗……」
――ふふん、そうでしょう?
少しだけ誇らしくなる。
レオンは満足げに鼻を鳴らした。
「ほらな。言っただろ」
そう言って、フランシーヌの背を軽く押す。
通りの真ん中を歩かせるように。
「やっぱりフランシーヌが着ると映えるな」
――なにその顔。
まるで自分の手柄みたいじゃない。
フランシーヌは足を止め、少し困ったように笑う。
「……そうでしょうか」
レオンは気にした様子もない。
「ほら、見てみろよ。みんな見てる」
どこか誇らしげな声だった。
その様子に、マリアンヌはため息をついた。
三人はそのまま通りを抜け、
近くのカフェテラスに入った。
店内の視線が集まり、女性たちが小声で囁き合う。
「可愛い」
「あの服どこの?」
フランシーヌは少し戸惑いながらも微笑んだ。
「慣れませんね、こういうの」
「仕方がないわ。だって似合うんだもの」
その様子を見ていたレオンは顎に手を当てた。
「……悪くないな」
「なにが?」
「いい商売になるかもしれない」
――何言ってるの、この人。
でも。
そんなことが本当に叶うのかしら。
レオンと別れ、帰り道の馬車で、
マリアンヌはぽつりと話した。
「私ね。本当は仕立て屋になるのが夢だったの」
フランシーヌは目を瞬かせた。
「……そうなのですね」
「でも令嬢でしょう?家同士を繋ぐものでしかないじゃない」
「諦められているのですか?」
マリアンヌが肩をすくめる。
「仕方ないでしょう、令嬢だもの。
……でもレオン、いい商売になるって言ってたよね……」
だからといって――
最初は否定していたくせに、世間が認めたら受け入れるなんて。
そんな都合のいい話、どうしても引っかかる。
沈黙の後、フランシーヌが口を開いた。
「……家同士の契約と仰いましたよね」
「え?」
フランシーヌは柔らかく微笑んだ。
「でしたら、契約を変えればよいのではありませんか?」
◆
数日後。
マリアンヌはレオンを呼び出した。
「なんだよ、急に」
レオンは不機嫌そうに立っている。
マリアンヌはまっすぐ言った。
「婚約破棄しましょう。父には話してあるわ」
「……は?」
レオンの表情が止まる。
「フランシーヌの家の商会と契約することになったの。染料を優先してくれるって。しかも、とても質がいいのよ」
「は?」
もう一度、同じ声が出た。
「仕立て屋を立ち上げるのよ」
レオンは眉を寄せた。
「……意味が分からん」
レオンの目がフランシーヌへ向く。
「フランシーヌ……お前本気か?」
取引の席で何度も顔を合わせてきた相手を、
フランシーヌは静かに見据えている。
「ええ。本気です。
私はマリアンヌ様と共に働きたいと思っています」
「マリアンヌ、分かってるのか?
婚約がなくなれば、出資も止まるぞ」
「構わないわ」
マリアンヌは即答した。
「最初から、あなたの資金に頼るつもりはないもの」
「……はぁ、勝手にしろ」
レオンは短く吐き捨てた。
「どうせ続かない」
そして、背を向けた。
レオンが去った後、フランシーヌは小さく息を吐いた。
「……これで、終わりですね」
マリアンヌは静かに頷いた。
「ええ。これからが始まりよ」
◆
店を開いたのは、春の初めだった。
王都の大通りから少し外れた、小さな石畳の通り。
仕立て屋や雑貨店が並ぶ、落ち着いた一角にその店はある。
ショーウィンドウには、深い黒のドレスが一着。
「……来るかしら」
マリアンヌが呟いた、そのとき。
扉の鈴が鳴った。
「ここよね?」
「やっぱりこの店だわ」
「見た?あの黒いドレス」
女性たちが次々に入ってきて、
マリアンヌは目を瞬かせた。
「どうして……」
フランシーヌが笑う。
「街を歩くたびに見られていましたから」
「え?」
「あのドレスを着ている方は誰なのか、
どこで仕立てているのか。
皆さん、ずっと気になっていたのだと思います」
皮肉にも、
レオンがフランシーヌに着せて街を歩いたことで、
噂は静かに広がっていた。
「結果としては、一番良い宣伝だったのかもしれませんね」
扉の鈴がまた鳴る。
「注文できますか?」
「ドレスを見せていただけます?」
声が重なる。
マリアンヌは一瞬だけ目を閉じ、
それから顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
その声は、迷いなく店に響いた。
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