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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

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ヴァレンシュタイン家を怒らせるな。(※人違いでもダメ、絶対)

「はぁ…」


 深く、重いため息が薄暗い石室に溶けた。目の前には、椅子に縛られ麻袋を頭に被せられた一人の女性。そして彼女を取り囲む、私を含めた数人の女たち。


 そう、目の前の女性は誘拐された被害者で、私たちは加害者。そして私は、この愚かな犯罪のリーダーだ。


 なぜ子爵家の一人娘である私、セレス・アルトフェルトがこんな場所にいるのか。


 理由は、嘆かわしいほど単純だった。両親が闇賭博にハマり、返済不可能な借金を抱えた。その返済のため、組織と敵対関係にある貴族の令嬢を攫い、牽制と身代金を得るというこの犯罪に、私は加担させられている。


 ――そう、そんなくだらない理由で、両親によって私の貴族としての人生は売られたのだ。


 計画自体は単純なものだった。ターゲットの家の紋章が描かれた紙を元に、警備が一番薄くなる夜会帰りを狙い、同じ紋章の馬車を襲撃して令嬢を攫う。私の役割は、この隠れ家の用意と、指示出しだ。


 相手が同じ貴族令嬢と聞いたとき、私はせめてもの抵抗として『関わるのは女性だけにしてほしい』と懇願した。万が一の卑劣な事態を防ぐためだ。それが、この場に女しかいない理由である。


 椅子に縛られた令嬢は、身動き一つしない。


(気の毒に。恐怖のあまり、声も出せないのだろう)


 彼女に深く同情しながらも、私は身元を隠すため深く被った覆面の位置を直し、ゆっくりと彼女の麻袋を引き抜いた。


「なっ…ッ!」


 驚愕に目を見開き、思わず声が漏れた。


 麻袋の下から現れた顔に、恐怖の色は微塵もなかった。それどころか、こちらが怯むほどの強い意志を宿した瞳が、私をまっすぐに射抜いていた。


 だが、私が真に驚愕したのは、その態度ではない。


 彼女は――この国の英雄『豪傑女将軍』の孫娘、ディアナ・フォン・ヴァレンシュタイン侯爵令嬢だったのだ。


 彼女の祖母、マチルダ・フォン・ヴァレンシュタイン。その名をこの国で知らぬ者はいない。


 数十年前の戦争を勝利に導いた伝説的な英雄。そして、貴族社会には一つの絶対的な不文律がある。


『ヴァレンシュタイン家には決して手を出すな』。


 それは、王家に覚えがめでたいから、などという生易しい理由ではない。マチルダ本人こそが、暴力の権化とでも言うべき、人並外れた剛力の持ち主だからだ。彼女が単身で敵陣地に突入し、一個大隊を壊滅させたと、正式な戦史に記録されているほどである。


(こいつら…ターゲットを間違えやがった! しかもよりによって、一番最悪の相手を…!)


 私は覆面の下で唇を噛み締めた。周りを見れば、実行犯の女たちはまだ状況を理解できず、キョトンとしている。


 その間抜けな顔を、私は怒りを込めて強く睨みつけた。


 ***


 その頃、ヴァレンシュタイン侯爵家では、当の『豪傑女将軍』マチルダが、轟音と共に応接室の扉を蹴破るように開けていた。


「ディアナがまだ夜会から戻らぬとは、まことか!」


 室内にいたディアナの父である公爵と、その妻(ディアナの母)が、蒼白な顔で義母を見上げる。


「お義母様…! ただいま方々に人をやって探させておりますが…」


「悠長に報告など待っていられるか! ワシが自ら動くわ!」


 必死で制止しようとする息子夫婦を振り払おうとした、まさにその時だった。


「ご報告申し上げます!」


 息を切らした執事が、文字通り転がり込むように入室した。


「ディアナお嬢様がお乗りの馬車が、何者かに襲撃されたとの連絡が……! ……誘拐されたものと思われます!」


 しん、と室内が凍りつく。


 次の瞬間、マチルダは、ギリリ、と骨が軋むほどの音を立てて拳を握りしめた。


「……どこの、目が腐った阿呆が、そんな真似を……してくれた?」


 地を這うような静かな声。


 直後、雷鳴のような鈍い破壊音が響いた。マチルダが振り抜いた拳が、そこにあったはずの重厚な大理石の壁を叩き割り、向こう側が覗くほどの穴を穿っていた。


 パラパラと崩れ落ちる壁の残骸を背に、マチルダは燃えるような瞳で虚空を睨み据えていた。


 ***


「どうして、わからないの!」


 私はアジトの別室で、組織から派遣された「使者」の男に叫んでいた。ターゲットがディアナ様――『豪傑女将軍』マチルダの血縁だと、必死に訴えた。


 だが、男は無感動な目で私を一瞥し、鼻で笑った。


「ならば、身代金の請求先を『ヴァレンシュタイン侯爵家』に変更すればいい。ただ、それだけのことでしょう。たかが老いぼれの武勇伝を、本気で信じているのですか、セレス殿」


(ダメだ……わかってくれない!)


 絶望的な「認識のギャップ」がそこにはあった。


 私たち貴族は、戦史としてだけでなく、夜会での余興やデモンストレーションで、あの人の人並外れた「力」を実際に目の当たりにする機会がある。あれが現実だと知っている。


 だが、そうではない者たちにとって――いや、戦争から数十年が経った今、多くの民にとって、マチルダ・フォン・ヴァレンシュタインの武勇伝は、当時の戦意高揚のための大袈裟なプロパガンダ(作り話)でしかないのだ。


 この認識の差が、私の説得を不可能にしていた。


 私は覚悟を決めた。組織の説得は不可能。ならば――。


 ディアナ様が拘束されている部屋に戻ると、私は見張りの女たちを無理やり理由をつけて下がらせた。二人きりになったのを確認し、彼女の前に進み出る。


 これが最後の賭けだった。私は意を決して、自らの覆面を引き剥がした。


「……見たことがあるわ。確か、アルトフェルト子爵家のセレス嬢ね。でも、いいの? 被害者に身元を明かすなんて」


 ディアナ様の冷静な声が室内に響く。


「――なんとかして、あなたをここから逃がします」


 私の言葉に、彼女は怪訝そうな表情を浮かべた。私は構わず、彼女の手足を縛る縄に手をかけ、解きながらすべてを打ち明けた。両親の借金のこと。組織に強いられてこの役に就いたこと。そして、実行犯たちがターゲットを間違えたこと。


 私の拙い告白を聞き終えたディアナ様は、同情するようにふっと息を吐いた。


「……なるほど。セレス、あなたもいろいろと大変だったのね」


「このまま手を貸し続ければ、捕まって死刑になるか、貴方のお祖母様に殺されるか……どちらにせよ待っているのは死です。こんなことで私は死にたくない。これで家が没落しようと構わない、生きてさえいればなんとかなるはずです。だからなんとかして逃します。それと引き換えに、どうか口裏を合わせてほしいのです!」


 懇願する私を、ディアナ様は静かに見つめていた。


「つまり、あなたの命運は私の証言次第ということなのね」


 不穏な響きを含む言葉に、私は彼女の縄を解く手を思わず止めて、その顔を見上げた。彼女の瞳が怪しく輝いているのを見て、もしかして判断を間違ったかと一瞬、背筋が凍る。


「あなたが今、頼れるのは私しかいないということよね?」


 重ねての確認に、私は喉が張り付いたように声が出ず、ただ頷くことしかできなかった。


 ディアナ様はしばらく考える素振りを見せた後、ふと口を開いた。


「私のお祖母様は、ただの武人ではないわ。優れた『策略家』でもあるの。そうでなければ、英雄と称されるほどの活躍はできなかったでしょう。……だから、ほんの僅かな『手がかり』さえあれば、そこから必ず真相を導き出す」


 そう呟くと、彼女は私をじっと見据えた。


「……ねえ、どうやって標的の馬車を見分けたの?」


 核心を突く質問に、私は慌てて懐から紙を取り出した。


「こ、これです」


 組織から渡された「標的の紋章」が書かれた紙を差し出すと、ディアナ様はそれを受け取り、ふ、と小さく笑った。


「ああ、なるほど。確かに『我が家の紋章』と酷似しているわ。これなら夜会帰りの薄闇の中、勘違いもするでしょうね」


 彼女はそう言うと、不意に口元を緩めた。


「いい手を思いついたわ」


 そして彼女は、私に信じられない指示を出した。


「いい? その紙を、私が攫われた現場に『捨てて』きて。お祖母様なら、必ずそこへ調査に来る。そして、必ずそれを見つけるはずよ」


 彼女は悪戯っぽく片目を閉じ、続けた。


「――多分、それで上手くいくわ」


 ***


『豪傑女将軍』マチルダは、拐しの現場に立っていた。


「王宮からの道筋から、やや外れておるな」


 傍らに立つ従者が答える。


「はっ。御者の話では、突如、道の脇で大きな破裂音が響き、馬が制御を失ったと」


「……誘導された、ということか」


 マチルダは鷹のような鋭い目で、荒れた地面を睨む。ふと、彼女の視線が道の端、わずかに土が盛り上がった場所に止まった。


「あれを」


 マチルダが顎で指し示す。従者が慌てて駆け寄り、土を掘り返すと、そこには汚れて丸められた紙片があった。従者はそれを拾い上げ、マチルダに捧げ持つ。


「構わん」


 マチルダは自らそれを受け取ると、土がつくのも構わずに広げた。紙に描かれた紋章を見て、彼女は目を細める。


「……ほう。ワシらの紋章と、形が似ておると思わんか?」


 そう言って従者に紙を向ける。従者は、それが別の貴族の紋章であることに気づき、目を見開いた。


「これは…! 確かに酷似しておりますが、違います! これは確か…」


「貴族に縁が浅い者ならば、夜の闇では見分けがつかぬのも無理からぬことか」


「つまり、お嬢様は人違いで攫われたと…?」


 従者の言葉に、マチルダは頷く。そして、地獄の底から響くような冷たい笑みを浮かべた。


「行くぞ。その『勘違い』された紋章の家に、きっちりと話を聞かせてもらおうじゃないか」


 ***


 紙に書かれた紋章の貴族邸の前に、マチルダと従者が立っていた。マチルダは腕を組み、そびえ立つ鉄門を見上げている。


「何もわからぬまま殴り込み、無関係の者を傷つけるのはワシの主義に反する」


「はっ。しかし、いかがいたしますか。何かよからぬことに関わっていれば、素直に話に応じるとは思えませんが」


 従者のもっともな懸念に、マチルダは肩をすくめた。


「……ここはひとつ、『派手』にいくとしよう」


 ゴオオオォォン!!!


 凄まじい轟音と共に、頑丈な鉄製の門扉が蝶番から引きちぎられ、中庭に向かって吹き飛んだ。


 屋敷からパニックになって飛び出してきた貴族一家と、彼らを守るように展開する、ガラの悪い護衛たち。


「ほう。貴族の護衛にしては、随分と……人相の悪そうな者たちが揃っておるのう」


 マチルダは破壊した門の残骸を跨ぎながら中庭に進み出ると、あの「紙」をひらりと見せ、静かに言い放った。


「さて。話を聞かせてもらおうか」


 数分後。中庭には、倒れ伏しうめき声を上げる護衛たちが転がっていた。


 そしてマチルダに襟首を掴まれ、宙吊りにされる貴族の男。その周りでは、彼の家族が恐怖に顔を引き攣らせ、声もなくその様子を見つめている。


「なるほど。お主は犯罪組織と関係を持ち、しかもそれは最近、別の組織といざこざを抱えていた、と。つまりわしの孫娘は、お前の娘の代わりに勘違いで攫われたということか」


 マチルダが手を離すと、男は地面に落ちてゴホゴホと激しく咳き込んだ。


 マチルダは埃を払うように手を叩き、従者に向き直る。


「この騒動を聞きつけた衛兵が間もなく到着するだろう。お前は衛兵たちと共に、この者たちを陛下の元へ連行し、すべてを白状させろ」


 門扉の残骸を見て、従者が呆れたように言った。


「しかし、ここまで派手にする必要がございましたか」


「阿呆。万が一、ワシの勘違いであった場合、『人』を傷つければ取り返しがつかぬ。だが『物』だけならば、後で謝罪と金で、いくらでも始末がつけられる」


 マチルダはこともなげに言い放ち、「さて」と続けた。


「両方の組織の賭場の場所は聞き出した。ワシは孫を攫った組織の方を潰しに行く。まずは賭場を潰す。そして連中のうち、一人か二人をわざと逃がす」


「逃がす、でありますか?」


「うむ。そいつは必ず別の拠点に報告へ向かうだろう。そこを叩き潰し、また一人か二人を逃す。それを繰り返せば、いずれ孫娘のいる本拠地に辿り着けるだろう」


 マチルダは貴族の一家を一瞥する。


「こやつらが繋がっている方の組織は、陛下にお任せしよう。この件でワシが暴れることを黙認してもらうための、ちょうどいい『手土産』だ。それに、ワシも両方を同時に相手にしている余裕はない。ディアナに万が一のことが及ぶ前に、全ての決着をつけなければならないからな」


 ***


 突如、アジトの空気が震えた。


 遠くから響いていた怒号と断続的な破壊音が、急速に近づいてくる。地響きと共に、廊下を慌ただしく走り回る複数の足音。


「クソッ! どうなっている!」


「第二拠点も落ちた! なんだあのババアは!」


「こっちに来るぞ! まずい!」


 上質な服を泥と埃で汚した組織の幹部たちが、血相を変えて私とディアナ様がいる部屋に転がり込んできた。彼らはあまりの混乱に、私が覆面を脱いでいるという異常事態にも、ディアナ様の足元の縄が緩んでいることにも気づいていない。


「おい、女! 一体何が起きている!? 」


 一人が私の胸ぐらを掴んだ。私はディアナ様と一瞬だけ目配せし、頷き返す。


「言ったはずよ! あなたたちが欲に目が眩み、『敵』にしてはいけない御方を敵にしてしまったからよ!」


「ま、まさか……あの女将軍の逸話が……御伽噺ではなかったと……いうのか……!?」


 幹部の顔が絶望に染まる。


「――ええ、そうよ」


 静かに肯定したのは、椅子に座っていたはずのディアナ様だった。


「なっ…! ば、馬鹿な! だが、ならばその娘を人質にしろ! 捕まえろ!」


 我に返った男が、部下たちにディアナ様を捕らえるよう指示を出そうとした。


 その時、ディアナ様が静かに立ち上がった。私が事前に解いておいた縄が、音もなく床に滑り落ちる。


 幹部の一人がナイフを抜こうと腰に手を伸ばす。


 ――それより早く、ディアナ様の拳がその男の顎を的確に捉えていた。


「がっ……!?」


 乾いた打撃音。殴られた幹部は、まるで木の葉のように宙を舞い、そのまま壁に叩きつけられて動かなくなった。


「ひっ……!」


「ば、化け物……! 親も子も化け物か!」


 目の前の光景に理性が追いつかなかったのだろう。残りの幹部たちは、武器を構えることすら忘れ、我先にと部屋から逃げ出していく。


 嵐が過ぎ去ったように静まり返った部屋で、ディアナ様は小さく息を吐き、私に向かって悪戯っぽく笑った。


「……賭けは、うまくいったわね、セレス」


 彼女は自分の拳を軽く振りながら続けた。


「お祖母様ほどの力は、私には流石にないもの。あのまま冷静に、全員で掛かってこられたら、さすがに勝ち目はなかったわ」


 彼女はふう、と息を整えると、私に向き直った。その瞳には、先ほどの戦闘の熱ではなく、冷静な光が宿っている。


「さて、セレス。あなたはどうする? このままここで捕まるか、それとも『私についてくる』か」


「え……?」


 戸惑う私に、彼女は取引を持ちかける。


「後者を選べば、私はあなたを『断れない事情で無理やり関わらせられたが、良心の呵責に耐えられず、私の逃亡に手を貸してくれた恩人』として証言してあげるわ」


「……どうして、そこまで私を……?」


 助かる道を示されたことへの安堵よりも、彼女の真意が読めないことへの困惑が勝る。


 すると彼女は、心の底から愉快そうに、くすりと笑った。


「――あなたが頼れるのは私だけ、だからよ」


 もぬけの殻となったアジトを抜け出すと、そこには夜明けの光を背にしたマチルダ様が立っていた。


「……無事だったか、ディアナ」


 孫娘を力強く抱きしめたマチルダ様が、次に私に鋭い視線を向ける。


「お祖母様。実は……」


 ディアナ様が、私と打ち合わせた「証言」を淀みなく語り始めた。


 あの一夜の事件は、王都を震撼させた。『豪傑女将軍』マチルダの逸話は、誇張された御伽噺ではなく「事実」であったと、王都の誰もが改めて知ることとなり、その名は再び畏怖の対象となった。


 ***


 そして後日。


 私、セレス・アルトフェルトは、ディアナ様と共に、見慣れた実家の門をくぐった。


「おお! セレス! 無事だったか!」


 何も知らずに駆け寄ってきた父に対し、私は静かに腰を落とし、ディアナ様から習った「構え」を取った。


 ゴッ!


 乾いた音と共に、私の拳が父親の顔面を捉える。


「娘を組織に売り飛ばしておいて……何が『無事』ですか」


 崩れ落ちた父を見て絶句する母に、ディアナ様が二通の書類を突きつける。


「こちらは、セレス・アルトフェルト嬢が家籍から抜ける同意書。そしてこちらは、我がヴァレンシュタイン家が彼女を後見人として保護することを、陛下が正式に認めたものです。――あなた方は、彼女の親として相応しくないと判断されました」


 呆然と立ち尽くす両親に、彼女は冷ややかに告げた。


「組織は潰れ、あなた方の借金も事実上、帳消しになるでしょう。ただし、事件の事実は、関わった全ての貴族の名も含め公表されます。これからあなたたちは、色々と大変でしょうね」


「ま、待ってくれ! セレス!」


 懇願する声を背に、私たちは屋敷を後にする。


「……後悔は、ない?」


 隣を歩くディアナ様が、私に尋ねる。


 私は、眩しい朝の光を真っ直ぐに見つめ、深く、新しい息を吸い込んだ。


「いいえ。――とても清々しい気分です」


 ***


 今は、ヴァレンシュタイン侯爵家で、ディアナ様付きの「メイド」として新しい生活を始めている。


 ある朝、ディアナ様を朝食のための食堂に案内すると、そこには既に着席し、食事を摂りながら何枚もの書類に目を通しているマチルダ様がいた。


「お祖母様、お行儀が悪いですよ」


 ディアナ様が窘めると、マチルダ様は書類から目を離さずに答える。


「先日の件の、最終報告書が上がってきたのでな。それに目を通しておった」


 そして、複雑な表情を浮かべて言葉を続けた。


「今回の件、相当な数の貴族が組織の連中に弱みや借金を握られ、関わりを持たざるを得なくなっていたことが判明した」


 マチルダ様はため息交じりに、お茶を一口含む。


「随分と腑抜けになったものよ。まぁ、それ自体はこの世がそれだけ平和になった証拠だから、悪いことではないのだが……この程度の、素性の知れぬ輩どもにつけ込まれる隙ができたというのは、複雑な気分よのぉ」


 私はその言葉を聞き流しながら、運ばれてきた紅茶をディアナ様の前にあるカップに注ぐ。


 その様子を、マチルダ様がじっと見ていた。


「お主は、本当にそれで良かったのか。セレスとやら。ワシが口添えすれば、メイドなどでなく、別の道も選べたであろうに」


 その言葉に、私より早くディアナ様が反応した。


 私の腕を、彼女の手が掴む。


「ダメですよ、お祖母様」


 ディアナ様は、私を自分の方へ引き寄せながら、楽しそうに笑って言った。


「彼女が頼れるのは、この私だけなのですから」


「……まぁ、そういうことですので」


 私が照れくさそうに言うと、マチルダ様は盛大にため息をつき、呆れたように呟いた。


「二人とも、随分と重症じゃのぉ」

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