空から降ってきた自由
高橋修は、その日もいつも通り会社を出た。帰り道に寄るコンビニで買うビールと惣菜の味を想像しながら、まばらな人影の商店街を歩く。冬の冷たい風が、働く理由を見つけられない彼の思考をさらに鈍らせた。
「俺って、なんで働いてるんだろうな……」
小さくつぶやいて、修は自嘲気味に笑った。実家はそれなりに裕福で、生活費の補填も親に頼めばどうにでもなる。派遣社員として最低限の収入を稼ぎながら、特に目標もなく日々を流しているのは、社会との繋がりを完全に断ち切る勇気がないからだった。
「お金さえあれば、こんな面倒くさいことやめられるのになあ……」
そう思うのは日常茶飯事だった。誰かが作ったルールに縛られ、嫌々ながらでも時間を差し出す日々。社会人として必要な最低限の努力をするだけで、一日が終わる。夢も目標もない生活の中で、修が唯一楽しみにしているのは、家で缶ビールを開ける瞬間だった。
その時だった。
頭上から突然「ボトン」と何かが落ちてきた音がした。思わず足を止め、音のした方を見下ろす。アスファルトの上に転がっているのは、ビニール袋に包まれた札束だった。
「……え?」
修はしばらくの間、それを見つめたまま動けなかった。周囲を見回しても、商店街には誰もいない。風に揺れる赤い提灯とシャッターが閉じた店の看板だけが目に入る。落とし物だろうか? だが、こんな場所に誰が、しかもこんな大金を……。
恐る恐る袋を拾い上げた。中を覗き込むと、ぎっしりと詰まった一万円札が目に入る。数える気力さえ奪われるような札束の厚み。額にして、ざっと1000万円はありそうだ。
「え、マジで? これ、本物……だよな?」
冷たい風が、修の背筋をひやりと撫でた。札束を持つ手が微かに震える。だが、次の瞬間、彼の脳裏に湧き上がったのは興奮だった。このお金があれば、働かなくていい。嫌なことを全部投げ出せる。
「……ラッキーすぎるだろ。こんなこと、漫画みたいにあるんだな」
修は袋をバッグの中に押し込むと、周囲を警戒しながら足早に歩き始めた。コンビニに寄る予定も忘れて、早く家に戻りたかった。この現実を実感するには、まず自分だけの空間が必要だった。
◇
修はアパートの鍵を開けると、まっすぐリビングの机に向かった。バッグを置き、震える手で札束の入ったビニール袋を取り出す。蛍光灯の下に広げると、それが紛れもなく本物のお金だと確信した。
「……すごいな。これ、ほんとに俺のものになったらどうする?」
修は頭の中で計算を始めた。家賃や光熱費、食費を最低限に抑えれば、数年間は仕事をせずに暮らせる。これだけの大金があれば、嫌な仕事をやめて毎日を好きなことだけして過ごすことができるだろう。
「仕事、辞めるか……」
胸の奥が熱くなった。派遣会社の上司の嫌味、朝の満員電車、無意味な会議……そういったすべてが一気に頭の中から消え去っていく。修は札束の一部を机の上に積み上げながら、小さく笑った。
「明日、辞表出してやるか」
決意した瞬間、今まで感じたことのない自由の感覚が体中に広がるようだった。
◇
翌朝、修は会社の休憩室で直属の上司に退職の意向を伝えた。予想通り、嫌味たっぷりの言葉が返ってきた。
「君、 今の職場でも辛いなんて、他でやっていけるとは思えないけどね」
修は適当に頭を下げながらその場をやり過ごした。「次の仕事」なんて考えていないし、そんな必要もないのだから。自分だけがこの状況を知っているという優越感に浸りながら、修はそのまま会社を後にした。
帰り道に立ち寄ったのは、近所のショッピングモールだった。カジュアルな服装が並ぶ店を見て歩き、これまで買うのをためらっていたブランド品をいくつか手に取る。普段なら値札を見ただけで諦めていたバッグや時計も、今は気にする必要がない。
「これと、これ、あとこれも……」
修は気がつけば両手いっぱいの買い物袋を持っていた。店員の愛想の良さに少し驚きつつ、店を出た。自分が「お金を持つ人間」に見られる感覚は悪くない。
◇
それからの生活は夢のようだった。修は近場の高級ホテルを予約し、広々とした部屋で朝食を取り、温泉に浸かった。映画を見たり、マッサージを受けたりと、好きなことを好きな時にする生活が始まった。
「やっぱり、お金があれば人生は違うな」
ふかふかのベッドに寝転びながら、修は満足げに呟いた。仕事のストレスに悩まされることも、毎朝早起きする必要もない。だが、そんな生活が1週間も続くと、彼の中にある感情が芽生え始めた。それは「退屈」だった。
一日中好きなことをしていても、満たされない何かがある。新しい映画を見ても、ホテルの豪華な食事を口にしても、その瞬間だけは楽しいが、すぐに空虚さが押し寄せてくる。
「これって、なんでなんだ?」
修は部屋のソファに座り、呟いた。お金があれば自由になれると思っていた。それなのに、今の自分は何かに縛られているような気がしてならなかった。
◇
ある夜、テレビをつけるとニュース番組が目に飛び込んできた。「都内での現金紛失事件」と題された特集だ。リポーターが犯罪組織が関与している可能性があると説明する中、映し出された写真には、修が拾った札束と同じビニール袋があった。
「……え?」
修の胸がざわめいた。彼が手にしたお金は、ただのラッキーな拾い物ではなかったのだ。テレビの画面には、捜査中の警察官や、被害者と見られる男性のインタビューが映っている。
「これ、やばいんじゃないか……」
修は思わず立ち上がり、部屋の中を歩き回った。あの札束を手にしてからというもの、彼の中には一抹の罪悪感もなかった。しかし、ここでそのお金の正体が犯罪絡みのものだと知った以上、そうもいかない。
「……どうする?」
考えるほどに心が乱れる。返すべきなのか? でも、もう使ってしまった分はどうする? 頭の中で思考がぐるぐると回る中、修は生まれて初めて「お金を持つことの重さ」を感じていた。
◇
修はその夜、ほとんど眠れなかった。布団に入っても、使い込んだ札束のイメージと、ニュースの犯罪組織の話が頭を離れない。気づけば、背中に汗をかいていた。
「返すべきなのか? いや、もう遅いかもしれない……」
翌朝、彼は疲れた顔でベッドから起き上がった。テレビを再びつけてみると、昨夜のニュースの続報が流れていた。紛失した金額は1億円を超えるとみられ、その一部が既に流出している可能性があるという。犯人の特定には至っていないが、関与したと疑われる人物がいれば警察に通報してほしいとアナウンサーは呼びかけていた。
「俺が疑われる……?」
修は息を飲んだ。現金を拾っただけの自分が犯罪者扱いされるとは思えないが、この状況では簡単に疑われるだろう。だが、返すにしても、もうかなりの額を使ってしまっている。それに、お金を使う自由を手に入れた快感を、自ら放棄することへの抵抗感も拭えなかった。
「どうしたらいいんだよ……」
◇
その日、修は何も手につかなかった。外に出る気力もなく、部屋の中でじっとしていた。まるで札束そのものが彼を監視しているかのように感じた。部屋の隅に置かれたバッグの中には、まだ使い切っていない札束がある。それを眺めるたびに、胸の奥がざわざわと騒ぐ。
午後になって、修は無意識にネットで「現金拾得」「犯罪資金」などのキーワードを検索し始めた。似たようなケースを見つけるたびに、どの結末も彼を暗い気持ちにさせた。犯罪に巻き込まれる例、使い果たして返済を迫られる例、最悪の場合は逮捕に至る例もあった。
「こんなはずじゃなかったのに……」
自由になりたくて手にしたお金が、今では鎖のように感じられる。修はその矛盾に苛立ち、自分自身を責めた。何もかもが面倒で、最初から仕事も何も投げ出したかっただけなのに。
◇
翌日、修はついに動き出した。考えた末、まず警察に行くべきだと決意したのだ。使い込んだ分は返済できないが、残っているお金を届けることで少しでも状況を改善できるかもしれない。バッグに札束を詰め直し、家を出ようとしたその時、ドアのチャイムが鳴った。
「……誰だ?」
修の胸が高鳴る。こんなタイミングで訪れる人間なんて、ほとんど思い浮かばない。彼は恐る恐るドアのスコープを覗いた。そこにはスーツ姿の男が立っていた。無表情な顔、短く切り揃えた髪。背筋が凍るような冷たい印象を受ける。
「高橋修さんですね?」
ドア越しに男が名前を呼ぶ。その声は低く、威圧感があった。修は慌ててスコープから離れる。男はさらに続けた。
「少しお話をさせていただきたい。あなたが最近、かなり大きな買い物をしていることが確認されています」
修の背中に冷や汗が流れた。「確認されています」という言葉が、何を意味するのか分からない。警察なのか、それとも……。
「もしやり取りを拒むなら、後で困るのはあなたのほうですよ」
男の声が再び響く。修は足を震わせながらドアノブに手を伸ばし、一度深呼吸をしてから静かに鍵を開けた。
◇
男の言葉は修にとって想像以上に重かった。彼は犯罪組織に関係している人物ではなかったが、札束の行方を追う民間調査員であると名乗った。調査員は、お金の一部がまだ未使用であることを確認するため、修に質問を投げかけた。
「あなたが正直に答えてくれるなら、大きな問題にはしないように尽力します。ただ、残りの金額については我々が責任をもって回収します」
修は震える声で答えた。「ほとんど使いました……でも残っている分はすべてお返しします」
調査員は修の言葉に無表情のまま頷き、札束の残りを受け取った。すべてが終わった後、修は部屋に一人残され、深い息を吐いた。
◇
修は椅子に座り込んだまま、しばらく動けなかった。部屋は妙に静まり返り、まるで空気までが彼を責めているように感じられた。バッグの中から札束が消えただけでなく、何かもっと大切なものまで奪われたような気がした。
「……これでよかったのか?」
自問する声は、自分の耳にさえ虚しく響いた。自由を手に入れたはずだったのに、それはほんの一瞬の夢だった。仕事を辞め、贅沢な生活を送り、束の間の幸福を味わった。しかし、その代償として、失ったものは計り知れなかった。
◇
翌日、修は久しぶりに外に出た。冷たい風が頬を撫でる。近所の商店街は何も変わらないように見えた。店先で呼び込みをする声、買い物袋を下げた老夫婦、道端に座り込んでスマホをいじる若者たち。どれもが平凡で、ありふれた光景だった。
修は足を止め、ふと昔から通っていた定食屋の前で立ち尽くした。これまで贅沢な食事を好んでいたが、今はこの店の安っぽい暖簾が妙に懐かしく感じられる。意を決して暖簾をくぐり、店内の席に腰を下ろした。
「いらっしゃい! 久しぶりだね、元気にしてた?」
店主の明るい声が耳に心地よかった。修は控えめに笑い、「はい、まあなんとか」と答えた。特別な話をするつもりはなかったが、店主との何気ないやり取りが、これまで忘れていた人との繋がりを思い出させた。
出てきたのは定番のしょうが焼き定食。湯気を立てる味噌汁の香りが鼻をくすぐる。修は箸を持ち、一口食べた途端に、胸の奥がじんと熱くなった。
「こういうのが……いいのかもな」
派手な贅沢ではなく、こうしたささやかな日常が、実は自分にとって一番心地よいのかもしれない。そう思うと、体の力が抜けていくのを感じた。
◇
数日後、修は派遣会社に連絡を入れた。辞めた会社に戻るつもりはなかったが、新しい仕事を探そうと思ったのだ。電話越しの担当者の声は驚きながらも親切で、「また働くんですか?」と軽い冗談を飛ばしてきた。
「ええ、まあ……少し休みすぎたんで」
修は曖昧に笑いながら答えた。正直、働くことが楽しいとはまだ思えなかった。それでも、今度は少し違う気持ちで向き合えるような気がしていた。
◇
再び働き始めた日、修はいつもの帰り道で足を止めた。空を見上げると、薄い雲が風に流れている。あの日、札束が降ってきた場所だ。奇妙な出来事だったが、今となっては、それもひとつの人生の通過点だったのかもしれないと思えた。
「まあ、悪くない」
独り言のように呟き、修は再び歩き出した。財布の中には以前より少ない額の現金が入っているが、今の自分にはそれで十分だと思えた。足元に転がる落ち葉を避けながら、冷たい風を感じて家路を急いだ。