公式お兄ちゃん、ドラムを叩く①
百万円、高校生にはとても大きな金額である。
俺が社会保険料だとかそういうのも割り切って稼いだ額の大半を持っていかれる。
朱音と碧依で立ち上げる事務所の資本金百万円に設定されている。
だけれど手元にそういう額があるわけではない。父親たちの稼ぎがあって、揃って何不自由ない暮らしをさせてもらっている俺たちだけれど、お小遣いは一般家庭くらいだった。
そもそも、向こうではわざわざ家の外に出て行って好きなことをする習慣がなかったのもあるけれど。
承諾した翌日、バイトに行く前に今一度の打ち合わせを行った。
主には俺の活動日程についてだ。資料にも細かく書いてあったが、自主的な準備期間を設ける必要があるかどうかなどの質問が必要だった。
その中で、最初にやることが決まっていた。
「まずはHighschool Band Contest、ね」
「エントリー締切はもうすぐ!」
「ちゃちゃっとやらせてもらうよ〜」
学生バンドが一攫千金だったり、名前を売るのだったり、夏フェスの舞台だったりを夢見て汗水垂らすやつである。応募資格は十五歳から十八歳。予選は全国の各会場で行われ、それから全国大会が茨城である。上位三組は大規模フェスで出番をもらえるそうで、この大会の優勝賞金が百万円ということだそうだ。
通称HBC。今や各校の軽音部にとっても全国大会のような扱いになっていて、部活バンドからインディーズバンド、ロックだけでなくジャズバンドまで、昨年のエントリー数は二千組を超えていたらしい。
「バンド系で売るの?」
「それも一つ。楽器が弾けて損はないし~?」
「アイドルで一攫千金ってオーディション系じゃないとあんまりなくって」
「そう」
それで朱音がギター、碧依がベース、それからサポートドラマーとして早速当て込まれて、俺がドラムを叩くことになっていた。
「優勝できると思う人!」
「はい!」
「…………」
碧依が右手を上げて促して、朱音がピンと腕を伸ばす。
座っていた俺も、肩の高さで右手を上げた。
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五月になってバイトが休みの日曜日、電車で数駅のところの音楽スタジオを碧依が抑えてくれたから、練習がてらに一次の音源審査に出すデモを取る。
保護者兼マネージャーをやってくれる結理ちゃんがめちゃくちゃ渋い顔をしながら、車で俺たちと楽器を運んできてくれていた。
「どうですかね?」
「うーん」
「栞ちゃんは微妙な顔するだろうね」
「目に浮かぶわ」
二人は最初から持ち込んでいたらしい赤のエレキギターと青の多弦ベースを担ぎ、俺は家から空輸してもらったドラムセットの椅子に座って首を横に振る。
というわけで、もう一回。
HBCに向けて朱音と碧依が用意した曲は四曲。今日はそのうちの三曲をデモ音源にする作業だ。スタジオを借りている二時間で。
「今のは」
「良いんじゃないでしょうか」
「栞ちゃんも微笑んでくれたね」
栞ちゃん、本名五十嵐栞はヴァイオリニストである。
小学生の頃から天才少女と呼ばれ続けたらしく、今は少なくとも日本で一番有名な奏者だろう。伴奏者として風真くんを伴って、ヨーロッパやアメリカ、それからもちろん日本も巡って年中公演を続けている人だ。
そんな彼女に森の子どもたちは音楽を学んできた。
普段は極端に無口な彼女に喋ってもらうため。普段は無表情な彼女に笑ってもらうため。それから、家族と心を通わせるため。
”基地”と呼ぶ森の共用部。そのリビングの隣にはグランドピアノやヴァイオリン、ドラムセットにギターやベースなんかが揃えてあって、常に誰かがそこで遊んでいたし、そうしていると栞ちゃんが入ってきてあれこれと音楽を教えてくれた。楽しさが薄れない程度に。
あまり家に居ないし、居ても無口な栞ちゃんに構ってもらえるその時間が、俺も弟妹達も好きだった。
「アオもシオンも、もっと喋んないと。特にシオン」
「善処する」
「もっと、もっと私の声を聴いて」
喋る。それが栞ちゃんの求める音楽性だ。弾いているメンバーと、聞いている相手に向けて喋ること。
もちろん口で喋るのではなくて、楽器を使って喋るのだ。もっとこうしようよと、この曲はこうだから私はこうしたい、ああ、音楽って楽しい! みんな聞いてくれ! と。
栞ちゃんがヴァイオリンを持てば誰より雄弁であったからこそ、説得力があった。父さんたちをして本当の天才と呼ぶ彼女がいずれの楽器を持つにせよ俺たちに求めたのは、そういうレベルだった。
ちなみに栞ちゃんは高校時代、風真君と音楽を通した出会い方をしたそうだから、朱音も碧依は俺たちよりもずっと乗り気だった。
「さて、あと一時間でガンバロー」
「別の曲じゃダメなの?」
「ダメです」
「私たちの大自信作だから」
「さいですか」
一曲目は朱音が作詞作曲をして碧依が歌い、久々と言うことで少し時間がかかった。
碧依が作詞作曲をして朱音が歌う二曲目は一発撮りで終えた。
苦戦しているのはツインボーカルの三曲目で、主な原因は俺にあった。
「私たちの愛を受け止めてくださいな」
「もう、まるきり、シオンのための曲だから」
「……デモ音源だし、いいじゃん」
「はい栞ちゃんが泣いちゃった」
「泣かないでしょあの人」
「ウソ泣きも下手だしね」
栞ちゃんはそういう悲しみもヴァイオリンに消化する人だ。きっと傍らのヴァイオリンを構えて即興を聞かせてくれる。
三曲目の作曲は碧依、作詞は朱音が担当している。曲名は『VIOLET』。彼女らがデュオを組むViolet Bouquetの代表曲にすると意気込みながら、徹頭徹尾の愛が歌われている。もちろん演奏をしていれば二人のギターとベース、ボーカルにもその情念が存分に乗せられてしまう。
それで照れくさくなって感情を殺していればちゃんとやれと怒られるし、まともに受けて立てば二人がにやにやし始めてまともな演奏にならなかった。このままだと時間が余りそうだからというお遊びと、普段は格好つけている俺へのからかいの意味もあるのだろう。
読書をしながら録音している端末を操作する結理ちゃんも、面白半分呆れ半分だった。
「まだやるの?」
「そりゃあもちろん時間一杯」
「久々に楽しいし!」
「あー、それで行くか」
彼女らのメッセージをひとまず全部無視して、音を楽しむ。
この曲にはまだそういうアプローチをしていなかった。
「カウント」
ドラムスティックを叩いて、結理ちゃんが録音ボタンを押す。
それで納得の行く楽曲が出来上がって、余った時間は音源にしないけれどステージで演奏する予定のある二曲を練習した。例えば曲調が前のグループとかち合ってしまった時とかのためである。
最後の一曲を聞くとき、結理ちゃんは読書の手をやめて、何かを懐かしむように微笑んでいた。