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第8話 ありのままの民衆

 若葉が青々としげる頃には、ユリアナは1人でクリームシチューを作れるまでに成長していた。

「おかえり、エーリヒ! 接待お疲れ様。シチューが出来ているわ」

 夜遅く帰宅したエーリヒを、お玉片手に笑顔で出迎える。


「ただいま、ユリアナちゃん」

 ダイニングに入ってきたエーリヒは、いつになく真面目な顔だった。

「実は頼みたい事があってな」

 言いにくそうに話を切り出す。


「何かしら?」

 いつもは明るいエーリヒの、奥歯に物が挟まったような物言い。ユリアナは悪い予感に駆られた。シチューをよそおうとした手を宙で止める。


「実は……」

 エーリヒは申し訳なさそうに言った。

「知ってるだろう? 俺が明日からミヒャエル峠のトンネル事業を視察しに行くの。今日プロジェクトの担当者と最終打ち合わせをしたんだが……」

 難所で有名なミヒャエル峠にトンネルを通すのは、エーリヒの発案で始まったプロジェクトだ。

「ユリアナちゃんが歌魔法の使い手だと知って、ぜひ連れて来て欲しいそうなんだ。工事に携わる地元の民衆を歌で元気にして、いざって時は荒ぶる大地の神を歌で鎮めて欲しいんだと」


 ユリアナは顔色を変えた。

「話したじゃない、私が民衆のために歌うのを嫌がる理由……」

 エーリヒはユリアナの嫌悪感を目ざとく察したようだった。いつにも増して優しい声でなだめようとしてくる。

「歌姫時代がユリアナちゃんのトラウマなのは分かってるさ。でも、ユリアナちゃんは俺の火傷を癒してくれた優しい子だ。その真っ直ぐな心を、健気な民衆のために発揮してだな……」


「それは、その……嫌」

 ユリアナの手が震えて、お玉が流し台へ滑り落ちる。壁から吊り下げていたピーラーが衝撃で落下した。

「『健気な民衆に元気を』なんて、嘘よ」

 消えたはずの古傷が痛む気がして、ユリアナは思わず脇腹を押さえる。その視線はエーリヒの横を素通りして、歌姫時代の握手会の光景を見ていた。


「お嬢ちゃん、好きなタイプは?」

「今まで彼氏何人いた?」

「僕の手は1週間洗っていないんだ、さあ握手して!」

 下卑て薄汚れた民衆の顔、顔、顔。労働後の彼らの手は、どれもホコリと油と手汗でギトギトだった。

 彼らが口をそろえて言う事が1つあった。

「ユリアナちゃんは、日々の労働でくたびれた俺ら民衆に元気をくれるんだ」


 ユリアナは涙ぐんだ。

「健気で清らかな民衆なんて、小説の中にしか存在しない。本当の民衆は、まさに貧すれば鈍する。年端も行かぬ少女を勝手に偶像化する、恐ろしい人たちだわ」


 蘇るトラウマで頭が一杯になり、ユリアナはその場にしゃがみこんだ。その背中をエーリヒが優しくさする。

「悪かった。そこまで民衆を嫌っているなんて」

 心底すまなそうな声だ。

「提案を受ける前に、もう少しユリアナちゃんの気持ちを思いやれば良かったな」


 ユリアナはしゃくり上げながら、ずっと疑問だった事をエーリヒに尋ねた。

「エーリヒは、何でそんなに民衆のために働けるの? あんな、醜い人たちのために……」

「それはな……」

 エーリヒは真剣な眼差しで答えた。

「ありのままの民衆を愛しているからだ」


「えっ?」

 ユリアナは意味を測りかねて訊き返した。

「ユリアナちゃんの言う通り、民衆は清らかで健気なばかりじゃない。醜い所もずるい所もある。でも俺たちみんなそうだろ?」

 ユリアナは沈黙した。自分の醜さはユリアナ自身が一番よく知っていた。

(私も感情を抑えられずに泣き出したり、ダメな所が色々あるものね……)


 だからな、とエーリヒは言葉を続けた。

「健気だとか、清らかだとか、勝手な理想を民衆に押し付けちゃあいけない。俺たちが愛するべきなのは、ありのままの民衆だ」

 エーリヒの声からは、確かな信念が感じられた。

「醜い所もずるい所もある、ありのままの民衆への愛。そこにしか政治の原点はないんだ」

 そう言うエーリヒの瞳は、朝日のように確かな輝きを宿している。あまりにもまぶしすぎて、ユリアナは思わず目を逸らしてしまった。


「……エーリヒは、強いのね」

 ユリアナはうつむいた。

「私は弱い。エーリヒみたいに立派な事は言えないわ」

 エーリヒの手を振り払って立ち上がる。彼に背を向け、ユリアナはつい口走ってしまった。

「エーリヒだって、本当に民衆を愛してるの? 実は支持者への嘘、リップサービスだったりして」

 そのままエーリヒの顔を見ずに、ユリアナは自室へと立ち去った。


 深夜。ユリアナは自室で自己嫌悪に駆られて眠れずにいた。

(エーリヒに酷い事を言ってしまったわ……。彼が民衆のために働いているのは本当なのに)

 絹の布団カバーに顔を埋める。

(いやいや、最終的にはローゼンクランツ夫人と共謀して汚職をするかも知れない人じゃない。全部偽善の可能性もあるわ)

 しかし、寝返りをうつたびに、エーリヒの選んでくれた家具の数々が目に入る。

(初夜で見たあの瞳の輝き……。あれが嘘だとは思えない)

 考え事をしている内に小腹が空いてきた。

(台所へ行って、シチューの残りをいただこう)


 ネグリジェ姿で廊下を歩いていくと、ある部屋のドアの隙間から灯りが漏れていた。ブツブツ独り言を言う声も聞こえてくる。

(ここは確か……。エーリヒの部屋。こんな遅くに何をしているのかしら?)

 好奇心に駆られてのぞくと、机に向かったエーリヒの背中が見えた。何やら写真付きの名簿を一心不乱に読み込んでいる。


「カイ・オッペンハイム。職業、靴屋。息子は奨学金をもらって王都で大学に通っている。アルベルト・ミュラー。職業、農家。足の悪い老母を介護している。フーゴ・デーニッツ。職業、パン屋。姉を亡くしたばかり……」

 よく見ると、名簿のタイトルは「ミヒャエルトンネル 作業員名簿」と書いてある。


(トンネル工事の視察のために、作業員のプロフィールを一人一人頭に叩きこんでいるの?)

 ユリアナは心を打たれた。

(作業員たちは地元の民衆の中から選ばれている。とは言え、エーリヒは全員を覚えているわけじゃないみたい。でも頑張って覚えようとしている)

 初夜で彼が言った言葉がユリアナの脳裏に蘇る。

(誰かを幸せにするための嘘なら、いつか本当になるかも知れない。エーリヒはそう言ったっけ)

 現に今目の前にいるエーリヒは、頑張って全力で嘘をついて、民衆へ愛を振りまこうとしている。


「……エーリヒ」

 ユリアナが思わず声をかけると、エーリヒはびっくりした様子で振り返った。

「明日、やっぱり私もついていくわ」

 エーリヒの顔が見る見るほころんだ。

「ありがとな、ユリアナちゃん。……シチュー美味かったぜ」


 ユリアナは部屋に戻ると、アンナに手伝ってもらって荷造りを始めた。

「アンナは留守番だってエーリヒが言ってたわ。よろしくね」

「ええ、奥様。お留守は私が守ります」

 そんな会話を交わす。

 嘘が本当になるなんて、まだユリアナには実感が湧かなかった。しかし、エーリヒが全力で優しい嘘をつき通そうとする姿は、彼女に一歩踏み出す勇気を与えていた。

 読んでいただきありがとうございます! 楽しんでいただけたなら嬉しいです。


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