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第6話 女の影

 そして迎えた1週間後。ユリアナの母がやって来た。

 母に客間でクリームシチューを提供したユリアナは、固唾を飲んで母の反応を見守る。エーリヒも一緒だ。


「これが噂のシチューね。……いただきます」

 半信半疑でスプーンを口に運んだ母は、一口食べた瞬間目を見開いた。

「……美味しい」

 そのまま2口目、3口目、と匙を動かすペースが早くなる。やがて、貴族の夫人としてはあるまじきハイペースでぺろりと平らげてしまった。


「鶏肉はジューシー、玉ねぎはトロトロ、じゃがいもとにんじんはホクホク。ユリアナ、いつの間にこんなに料理上手になったの?」

 母はナプキンで口を拭いながら絶賛した。

「エーリヒ様のためを思って練習したのよ。彼、毎晩このシチューを欲しがるの」

 ニコリと笑ってみせるユリアナ。エーリヒと事前に打ち合わせた通りのセリフを言う。

「ええ、ユリアナ嬢のシチューは大好物です」

 エーリヒも横から付け加える。


 母は観念したようだった。

「夫婦仲が良いのは本当みたいね……。分かった。ヴォルフ王子には、ユリアナを諦めるようお伝えしておくわ」

 どこか寂しげに微笑みながら、帰り支度をする母。玄関で振り返り、一言付け加える。

「あなたたちお互い、もっと夫婦らしい話し方にしたら? 『エーリヒ様、ユリアナ嬢』じゃなくて。タメ口とかどうかしら」

 赤面するユリアナを見てクスリと笑うと、母は馬車に乗って去っていった。


「これで良かったのかしら、エーリヒ様……じゃなくて、エーリヒ」

 母を見送った後。日課のチェス盤を挟み、ユリアナは心配そうに訊いた。

「私が全部作ったみたいな言い方になっちゃったわ。ちょっと嘘っぽかったかしら。じゃがいもの下処理は相変わらずエーリヒ頼みだし、小麦粉を少しずつ水で溶くのが、まだどうしても出来ないのに」


 罪悪感でうつむくユリアナに、エーリヒは優しく微笑んだ。

「ユリアナ嬢……じゃない、ユリアナちゃん。あんなに美味しい…美味いのはユリアナちゃんが努力したおかげだろ? 何も嘘じゃない。堂々としていればいいさ」

 慣れないタメ口で励ましてくれる。彼の飾らない人柄が一層引き立っている気がして、ユリアナは鼓動が早くなるのを感じた。討ち取ったエーリヒのポーンをギュッと握りしめる。

(ダメダメ。ヴォルフを倒すまでの契約結婚なんだから。このドキドキは一時の気の迷いだわ)


「お母様は喜んで下さったし、ヴォルフからは身を守れたわ。ありがとう、エーリヒ」

 改めてお礼を言うと、エーリヒはチッチッチと人差し指を振った。

「まだ安心するには早いぜ、ユリアナちゃん。ヴォルフ王子を背後で操ってる奴は、必ず次の手を打ってくる」

 パチン、と音を立てて、攻めのルークをユリアナの陣地に打ち込む。


 ユリアナにとっては寝耳に水だった。

「ヴォルフの背後に誰かいるですって? 何でそんな事が分かるの?」

 盤面を睨むが、どうしても良い守りの手が思いつかない。このままではエーリヒにナイトを取られてしまう。

「お母上も仰ってただろ? ユリアナちゃん一家を陥れて、ヴォルフ王子に何の得があるのか不思議だって」

 エーリヒはポケットから新聞記事の切り抜きを取り出した。


 記事をのぞき込んだユリアナは、思わず声を上げた。

「ディートリヒ公爵の馬車の車輪に細工……。マンシュタイン侯爵が謎の転落死……。ダールマン伯爵が原因不明の食中毒……。うちと同じ古い貴族の家ばかりじゃない!」

「ああ。全ての事件現場で、ヴォルフ王子の手の者と思しき不審な人物が目撃されている。しかも被害に遭っているのは俺の後ろ盾の方々だけじゃない。マンシュタイン侯爵なんか、むしろ王権派だったはずなのに」

 エーリヒはコツコツと駒で板状を叩いた。どうやらこれは彼の癖らしい。

「俺を失脚させたいヴォルフ王子の思惑だけでは説明できないだろ? 貴族の旧家全体に敵意を持った誰かが、陰で糸を引いている可能性が高い」

 エーリヒは容赦なくユリアナのナイトをルークで討ち取った。


「でも、一体誰が……」

「恐らく女だろうな。それも、かなり成金気質の女」

 エーリヒは反対側のポケットから写真の束を取り出した。

「お忍びで百貨店で買い物をするヴォルフ王子を、アンナが隠し撮りしてくれたんだ」


 写真に写っているのは、紛れもなくヴォルフだった。白黒写真でもはっきり分かる。メガネと帽子で一応変装しているつもりらしいが、ユリアナにすらバレバレだ。

 ヴォルフはどの写真でも、女性が喜びそうなブランド品を購入していた。ワニ革のバッグ、ヒョウの毛皮の襟巻き、ジャコウの香水など。


「ヴォルフ、知らぬ間に愛人を作ってたのね……。ますます腹が立つわ」

 ユリアナは怒りに任せて、クイーンを一気に盤の向こう端まで進めた。バチンと音を立ててマス目に叩きつける。

「まあそんなところだろうな。ユリアナちゃんが気の毒だぜ」

 エーリヒは同情の眼差しでユリアナを見た。しかし、次の瞬間諭すような口調に変わる。


「だがな。怒りに任せて軽率な行動はするな」

 ユリアナがあっと言う間もなく、さっきのクイーンがエーリヒのビショップに討ち取られる。


「俺だってヴォルフ王子は嫌いだぞ? 俺もあいつも嘘つきだが、俺は民衆を愛してるから嘘をついてるんだ。かたやヴォルフ王子は、どこの馬の骨とも知れない女に愛される事しか頭にない。視野が狭い坊ちゃんなんだろ」

 ユリアナは記憶の中のヴォルフの姿を辿った。きかん気で怒りっぽく、常にどこか満たされない顔をした少年だった気がする。母である故王妃殿下との不仲も噂されていた。


「でも腹の中で思った事を全部言動に出してたら、政治の世界では……ほら、チェックメイトだ」

 物思いから引き戻され、ユリアナはびっくりしてチェス盤を見る。いつの間にか、ユリアナのキングはエーリヒの駒たちに囲まれていた。


「投了するわ」

 ユリアナは渋々宣言した。

「次回こそは絶対勝ってみせるんだから!」

 ユリアナはポケットから『5歳から始めるチェス入門』を取り出し、ヒラヒラと振った。ふせんがびっしりとついている。

「その意気だ、ユリアナちゃん」

 エーリヒは愉快そうに笑い、チェス盤を片づけ始める。


「ところで、エーリヒ……」

 ユリアナは、最後に気になっている事を一つ訊いた。

「シチュー作り、どうしてそんなに上手なの?」


「ああ、母さんの真似だ」

 エーリヒは後ろを向き、チェス盤を棚にしまった。

「母さん、機嫌が良い時はよくシチューを作ってくれたもんだ」

 ユリアナから見えるのはエーリヒの背中だけ。その表情はうかがい知れない。


「まあ、素敵なお母様だったのね!」

「……まあな。俺が9つの時、魔法の修行のために王都に出て行ったが」

 ユリアナは言葉を失った。

(いくら魔法の修行のためとはいえ、幼い息子をミヒャエル県に置いて上京するなんて)


 かける言葉を探していると、後ろからアンナが声をかけてきた。

「奥様、そろそろお休みのお時間です」

 心なしかいつもより表情が冷たい気がする。

「……おやすみなさい、エーリヒ」

「ああ。おやすみ、ユリアナちゃん」

 エーリヒはユリアナを振り向くと、どこか哀愁を帯びた笑みを浮かべた。

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