第5話 宰相のクッキング教室
「……という訳なんです! 母を止めて下さい!!」
ユリアナが頭を下げると、チェス盤を挟んで向かいに座ったエーリヒは呆れた顔をした。
「浮かない顔をしていると思ったら、そういう事でしたか。通りでうかつな手ばかり指すと思った」
時刻は夜の9時。現在ユリアナは、帰宅したエーリヒと日課のチェスの最中である。ユリアナにもう少し腹芸の練習をさせたい、というエーリヒの提案で始まった習慣だ。
「すみません。あんな失言したのが申し訳なくて、言い出しづらくて……。1週間考えさせて欲しいって言ってあるんですけど」
うなだれるユリアナ。
「言ってしまったものは仕方ありませんよ。こんな事もあろうかと策を練ってあります」
エーリヒはコツコツと駒で盤上を叩いた。
「夫婦仲が良いと印象付けるために、俺はここ1ヶ月周囲に吹聴して回っているんです。『どんなに良いレストランで接待を受けた後でも、帰宅後は必ず妻のお手製クリームシチューを食べないと寝られない』って」
ユリアナは盛大にむせた。そばにいたアンナがすかさず背中をさすってくれる。
「嘘八百じゃないですか! 私、料理はできないって申し上げたでしょう」
「約束しましたよね? ヴォルフ王子打倒までは嘘をつき通すって」
エーリヒはため息をついてこめかみを押さえた。
「この噂の印象でお母上の脳内を上書きすれば、ユリアナ嬢とヴォルフ王子を復縁させようなんて思わなくなるでしょう」
「でも、どうやって……」
ユリアナが途方に暮れて問うと、エーリヒはニヤリと笑った。
「ここで嘘から出た真作戦ですよ」
傍らの埴輪に合図をして、チェス盤を片付けさせる。
「クリームシチューの作り方、みっちりご指導しましょう。美味しいシチューをお母上に振る舞えば、きっと納得して下さりますよ」
それから1週間、エーリヒは毎晩ユリアナにつきっきりでクリームシチュー作りを教えてくれた。
侯爵令嬢時代は上げ膳据え膳で、歌姫時代は自炊する時間なんてなかったユリアナ。彼女の炊事スキルは酷いものだった。
「ユリアナ嬢! じゃがいもを石けんで洗わないで下さい!!」
「ユリアナ嬢! 包丁の刃の部分を握っちゃダメです!!」
「ユリアナ嬢! 鶏肉を切った包丁はすぐ洗う!!」
基礎の基礎、イロハのイがなっていないユリアナ。冷や汗をダラダラ流して指導してくれるエーリヒに、彼女は謝り通しだった。
それでも挫けなかったのは、きっとエーリヒの教え方に真心を感じたからだろう。
彼はユリアナがどんなにヘマをしても、決して大声で叱ったりしなかった。彼自身で全て片付けてしまいたくなる瞬間が何度もあったろうに、辛抱強く一から教えてくれたのだ。
そんな彼がただ1度だけ、ユリアナを怒鳴りつけた場面があった。
5日目。ユリアナは段々慣れてきて、玉ねぎと鶏肉を炒める所まではエーリヒと一緒なら無事に済ませられるようになっていた。
「エーリヒ様、私今日なかなか上出来ではないかしら?」
洗い物を終えたユリアナは得意げに言った。台所中に漂うバターの芳醇な香りが鼻をくすぐる。
「ええ、初めよりは遥かに上手になりました。じゃがいもの下処理は相変わらず俺がやっていますが……」
エーリヒも嬉しそうだ。
「でしょ? 私ってもしかして……」
天才だったりして。そう言おうとしながら、慢心したユリアナはつい後ろにもたれかかった。
パチン、と後ろで炎が爆ぜる音。続いて何かがガタンと揺れる音。
我に返ったユリアナは、振り返る間も無く横に突き飛ばされた。
「えっ!?」
床に倒れたユリアナが振りむくと、そこにはひっくり返った鍋。生焼けの鶏肉と飴色の玉ねぎが、あたり一面に散らばっている。そしてその中心には。
「熱っ……」
ユリアナをかばって鍋の中身をかぶったエーリヒが、左腕を押さえてうずくまっていた。
ユリアナは理解した。自分がうっかりかまどにもたれかかったせいで、鍋がひっくり返り、エーリヒは自分をかばってくれたのだと。
「エーリヒ様、私……」
ユリアナが二の句を継ぐ前に、エーリヒは怒鳴った。
「馬鹿!! 火の扱いには細心の注意を払えって言ったでしょう!!」
縮み上がるユリアナ。しかし、エーリヒの次の言葉は意外なものだった。
「お顔に火傷したら大変でしょう! もし失明したら? 消えない跡が残ったら? 考えただけで恐ろしい……」
エーリヒはブンブンと頭を横に振ると、ユリアナの手を取った。
「ほら、手の甲を火傷していますよ。すぐ冷やして下さい」
埴輪が運んできた氷嚢を押し当てる。
「あっ……」
ユリアナは声にならない声を上げた。心臓がドキドキと脈打っている。
(手を握られるなんて、これが初めて。しかもこんなに長い間……)
それ以上に、エーリヒが自分を本気で心配してくれた事に心を打たれていた。
(エーリヒ様、とっさに私をかばって下さった。怒鳴ったのもきっと心配ゆえ。丁重さが吹き飛ぶくらい私を心配して下さったのね)
エーリヒに謝罪し、彼の火傷を歌魔法で服の上から綺麗に癒す。ユリアナは氷嚢の心地良い冷たさと、エーリヒの大きな手の温もりを感じていた。
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