第16話 離婚の危機
帰宅後。アフタヌーンティーを一緒に飲みながら、ユリアナは久しぶりにエーリヒと過ごせる幸せを噛みしめていた。窓の外は冷たい雨でも、室内は暖かい。
(無事にエーリヒを助け出せて良かった! これで本当の夫婦になれるかも)
エーリヒの思いつめた様子に、ユリアナは気づいていなかった。
「ねえエーリヒ」
ユリアナは切り出した。
「無事に帰ってきてくれて、本当に良かった。ローゼンクランツ夫人には2人で立ち向かいましょう」
固い決意を秘めた目をエーリヒに向ける。そして、胸をときめかせながら最後の一言を口にした。
「だって、私はエーリヒを……」
しかし。ユリアナが最後まで言い切る前に、エーリヒはさえぎった。
「ごめんな。俺は……ユリアナの気持ちに、応えられない」
ユリアナは目を見開き、手にしたマカロンを取り落とした。
「エーリヒ、今何て……?」
エーリヒはユリアナから目をそらし、もう一度繰り返した。
「俺は、ユリアナの気持ちに応えられない」
ユリアナは信じられなかった。混乱した頭の中を、様々な考えがグルグルと巡る。
(嘘でしょ!? 私、あんなに頑張ったのに。民衆を煽動しすぎたから? ヴォルフを殺しかけたから? それとも……)
必死で考えるが、何でエーリヒに拒絶されたのか分からない。
「……トンネル工事の時の言葉、嘘だったの? 『ユリアナがいると心強い』って」
ポタリ。ユリアナの涙が、知らず知らずの内にティーカップに滴り落ちる。
「エーリヒが抱えているもの、私も背負いたかった。火傷のこともお母様の事も、まだちっとも聞けてないのに」
「もう説明しただろ。火傷は子供の頃悪ガキだったせい。母さんがいなくなったのは王都で魔法の修行をするため」
事務的に言うエーリヒ。
(嘘だわ)
ユリアナは直感的に分かった。
「こんな時まで嘘つかなくたって良いじゃない……。契約結婚とはいえ、夫婦なのに」
ダメだと自分でも分かっているのに、涙声で言いつのってしまう。
エーリヒは両手で顔をおおった。一瞬の沈黙。
窓の外の雨音が、やけに大きく聞こえる。
そうして顔を上げた時、彼の顔は仮面をかぶったように無表情だった。
「契約を終了しよう」
エーリヒは冷たく言い放った。
「言っただろ? ヴォルフ王子の件を片付けたら、俺はユリアナを解放するって」
(そんな……)
ガックリと肩を落とすユリアナ。
「全部、嘘だったのね。抱きしめてくれたのも、一緒にダンスしたのも」
胸が張り裂けそうなのに、もはや泣く気力すら湧かない。
エーリヒは椅子から立ち上がると後ろを向いた。
「実家に帰る馬車を手配しよう。荷物は後から送る」
その表情を見た者は、誰もいなかった。
突然実家に帰ってきたユリアナに、ユリアナの母は驚いた。ユリアナが泣きながら全てを話すと、そっと抱きしめてくれた。
「最初から契約結婚だったのね……。お疲れ様。もう嘘に苦しめられなくて良いのよ」
ユリアナは母の腕の中で泣きじゃくり、やがて泣き疲れてソファで眠ってしまった。
チリンチリン。呼び鈴が鳴る音でユリアナは目を覚ました。柱時計を見ると夜の9時だ。
(誰かしら、こんな夜中に)
母がかけてくれた毛布にくるまって聞き耳を立てていると、客間に上がった誰かが母と話している声が聞こえてくる。
「まあ、エグナー宰相が? ええ、ええ……。まあ!」
母は驚いた声を上げるや否や、ユリアナを呼んだ。
「ユリアナ、いらっしゃい! アンナさんよ!」
ノロノロと客間に入るユリアナ。
(きっと残してきた荷物の事か何かだわ)
しかし、ユリアナの予想は大きく外れた。
「奥様、旦那様が、旦那様が……」
客間に座ったアンナは、何かを言おうとして迷っている様子だ。やがて覚悟を決めたらしく、声を絞り出す。
「単身ローゼンクランツ邸に向かわれました」
固まるユリアナ。
アンナは1冊の日記をユリアナに差し出した。
「旦那様は、決して奥様に明かすなと仰っていました。でも、奥様が旦那様を誤解したままなのは、私は耐えられません……」
アンナの震える手から日記を受け取ったユリアナは、ページを開いて息を飲んだ。書かれていた内容が、あまりにも悲しいものだったからだ。
「ユリアナが俺にとってどれほどかけがえのない存在か、面と向かって言えたらどんなに良いだろう。
俺はいつだって演じてきた。『明るく頼れる庶民派宰相エーリヒ』という役を。
でも俺だって、地元を一軒一軒巡って全部のお宅でシュトレンをおご馳走になると、内心さすがに飽きる。仕事に行きたくない日だってあるし、政敵に中傷されれば夜眠れなくなる。
そんな時でも嘘をついて笑顔を振りまけたのは、ユリアナもアイドル聖女として頑張っているって知っていたからだ。
今ユリアナは、何も知らずに階下でアフタヌーンティーの支度をしている。俺が帰ってきたのを心から喜んでくれている。俺が無事に牢獄から出られたのはユリアナのおかげだ。
今からあの笑顔を壊さなきゃいけないなんて、死ぬより辛い。
このまま何もかも忘れて、ユリアナと本当の夫婦になれたら良いのに。
でも、ユリアナとの関係はここで終わらせなきゃいけない。じゃないと、ローゼンクランツ夫人との対決に、ユリアナはきっとついてくるだろうから。
ローゼンクランツ夫人に立ち向かうのは、俺一人で良い。ユリアナまで危険にさらされる必要はないんだ。だって、ローゼンクランツ夫人の正体は……」
続く言葉は、あまりにも辛いものだった。
ユリアナは再び涙があふれた。
(私の気持ち、一方通行じゃなかった)
契約結婚から始まった仲だけれど、ちゃんと愛し合う夫婦になれた。その事実がどうしようもなく嬉しかった。
(エーリヒ、私を守ろうとして嘘をついたのね……。誤解してごめんなさい)
心の中で詫びる。
それと同時に、エーリヒにここまで悲痛な決意をさせたローゼンクランツ夫人への怒りがふつふつと湧いてきた。
「アンナ、エーリヒに助太刀しに行くわよ」
覚悟の決まった低い声で言う。
「そう仰ると思って、ハンス様とギーゼラ様にも連絡してあります」
アンナも静かに応える。
「さすがアンナ。さあ行きましょう」
アンナと共に客間を出ようとしたユリアナ。彼女を呼び止める者がいた。
「待って、ユリアナ!」
ユリアナが振り返ると、母が立ち上がって青い顔をしていた。
「何? 時間がないのよ、お母様」
いら立つユリアナに、母は声を荒げた。
「行ってはダメ! 危険すぎるわ!」
ユリアナは首を振った。
「エーリヒのためだもの! 私たち、夫婦なのよ?」
母は涙ぐんでユリアナを抱きしめた。行かせまいとする気迫が伝わってくる。
「宰相の妻なんて、嘘と腹芸が日常茶飯事だわ。ユリアナがマフィアの事務所に乗りこんで腹の探り合いしたって聞いて、お母様がどんなに心配したか!」
母の声が震えている。
「柄にもない事はやめて! 正直者のユリアナに戻って、お母様のそばで平和に過ごして!」
母の必死の訴えに、ユリアナは心が痛んだ。
(お母様、私が心配なのね)
ユリアナは母の肩を両手でそっとつかみ、目をのぞきこんだ。
「お母様、心配をかけてごめんなさい」
心から申し訳ないのは本当だ。
「でも、私はエーリヒを愛しているの。この世の誰よりも」
母が息を呑む。
「エーリヒと出会う前、私はあまりにも馬鹿正直で、赤子のように無力だった」
ユリアナは遠い目をして振り返った。ファンを傷つけてばかりで、自分の事すら守れない、弱い歌姫。
「エーリヒはそんな私に、愛ある嘘の力を教えてくれた」
初めて出会った時からずっと、エーリヒの瞳はエメラルドのように輝いていた。シチュー作りの時も、トンネル工事の時も、牢獄に収監されていた時も。彼の存在は、太陽のようにユリアナを照らしてくれた。
「周りへの愛が、愛ゆえに嘘を突き通す強さが、彼を輝かせる力。エーリヒが教えてくれた力だから、エーリヒへの恩返しに使いたいのよ」
しばらくの間、母は黙ってユリアナを見つめ返していた。やがて震える唇を開く。
「……必ず、生きて帰るって約束して」
「もちろんよ、お母様」
本当は生きて帰れるかなんて分からない。でも、それを馬鹿正直に打ち明けるのは、ユリアナ自身が楽になりたいだけの甘えだ。
愛する母に、ユリアナは微笑んで真っ赤な嘘をついた。
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