第四話 銀
「・・・ん」
リルフェーニは、傍の窓が風に軋む音にゆっくりと目を開けた。
(あたしは・・・)
覚えているのは、畑からシェスカと共に民家に帰った後、遅めの昼食をとったところまで。どうやら心身ともに疲れが押し寄せていた彼女は、その後居間のソファに横たわったまましばらく眠っていたようだ。
リルフェーニは、次第に意識が覚醒していくのを感じながらゆっくりと体を起こした。
見れば、窓の外はすでに深い闇に閉ざされている。月の光も満足に届かない夜の森は、文字通りの暗黒だ。
「あ」
ふと彼女は、起きた拍子に一枚のブランケットがソファからずり落ちていくのが見えた。自分で用意した記憶はない以上、寝ている自分に被せてくれる人間は一人しかいない。
(シェスカ・・・)
リルフェーニは辺りを見回すが、彼女の姿はどこにも見えない。おそらくは、いつものように自室に籠って薬の研究に没頭しているのだろう。
シェスカはいつもそうだ。他人に興味がないふりをしていながら、他人を見捨てることができない。その優しさには誰もが気づいているのに、自分からは決してそれを認めようとはしない。
そんな彼女の強情なところが、リルフェーニは何よりも好きだった。
(そろそろ、起きよう)
畑から帰ってきたままの恰好で、体も拭いていない。汗でべたついた体を綺麗にしようと、リルフェーニが立ち上がった時。
「あれ・・・?」
自身の体に、違和感。
すぐに彼女は胸元をつかむと、そこにあるはずの『もの』がないことに気が付く。
(首飾りが、ない)
リルフェーニは慌てて立ち上がり辺りを見回すが、ソファや床の上にそれらしい影はない。
あの首飾りは、彼女がいつも肌身離さず持っていたものだ。食事の時も寝る時も、水浴びをする時でさえ外したことはなかった。
考えられる可能性は、一つ。
(どこかに・・・落とした)
最後に首飾りを見たのは、畑で考え事をしていた時だ。家の中に無いのなら、シェスカと共に帰路につく途中で落としたに違いない。
(どうしよう)
リルフェーニは悩んだ。今すぐにでも探しに行きたいが、夜に外を出歩くのはシェスカに厳しく止められている。そしてそれが実際に危険な行為であることも知っている。
おまけに、探さなければならないのは小さな首飾りだ。この暗闇の中でそれを見つけるのは非常に難しい。
冷静に考えれば、彼女がとるべき行動は日が昇るまでで待つことだろう。
(でも・・・)
家から畑までの道のりのどこかに落ちていることはわかっている。くわえて道中はそれほど長い道のりではない。往復すれば見つからないことはないだろう。
(・・・それに)
リルフェーニは、ちらりとシェスカのいる部屋の扉を見た。
三度の飯より研究をとる彼女は、一度自室に籠ると半日は出てこない。この調子では朝まであの扉が開くことはないはずだ。
(少しぐらいなら)
リルフェーニは、決心した。
◆
「そうかい。ようやくこの村を出られるんだね」
食卓を囲む中、バンゼの妻、ミレナは青年の話を聞くなり安どの表情を浮かべる。
「短い間でしたが、お二人にはお世話になりました」
「いいっていいって。ついていけることになって良かったな」
「ええ」
昼間、広場に停泊していた馬車の持ち主に話を持ち掛けたところ、荷物番を引き受けることを条件に同乗させてもらえることになった。交渉成立の裏には、それまでの青年の様子を村で一番見てきたバンゼの後押しもあった。
出発は二日後の朝。その間に一行は馬を休ませ、食糧や飲み水といった物資の補給を行うという。
「しかしその、何だ・・・寂しくなっちまうな」
「また近くまで来たら、必ず寄りますから。今度は、気を失わずに」
「・・・ああ、そうだな」
心なしか気落ちした様子のバンゼに、青年は冗談交じりに笑って見せた。バンゼは気を紛らわせるかのように酒の入った器に手を伸ばすと、その中身を一気に飲み干す。
「あんた、あんまり飲み過ぎないでおくれよ」
「いいじゃねえか、酒飲みが遠慮なんかしてられるか。そうだろ、兄ちゃん」
「は、はい」
酔いが回ってきたのか、次第に本来の調子に戻っていった彼は上機嫌そうに青年の肩をつかむ。
「ベレネスに着いたら、どうするつもりなんだい?」
バンゼの分厚い胸板と腕に挟まれて押しつぶされそうな青年に、ミレナは聞いた。苦笑いを浮かべる青年が息苦しそうに返す。
「そ、そうですね。あまり深くは考えてませんが、とりあえずは海を渡って――」
その時だった。
「ガァアアアアアアアアアア!!!」
「!?」
突如、辺りに響いた轟音。
それはまるで、何かおぞましいモノの鳴き声のようだった。
青年はバンゼの腕を跳ねのけて立ち上がると、音のする方へ首を向けた。
「今のは・・・!」
「な、なんなんだ!?」
突然の出来事に動揺するバンゼとミレナを置いて、青年は自身の持ち物である細身の剣だけを握り、扉を開けて外へと飛び出す。
「あそこか・・・!」
薄い雲の間から満月が顔をのぞかせている。青白い光に照らされるように輪郭が浮かび上がるのは、目の前に広がるゲルバの山々だ。
音の主は、すぐそこにいる。
「お、おい!」
我に返ったバンゼが声をかけた時にはすでに遅く。
彼は明かりも持たぬまま風のように走り出すと、刻々と深まっていく暗闇の中へと消え去っていった。
◆
草木も静まり返った深夜の森の中を、ただひた走る影が一つ。
「はあ、はあ・・・」
息を切らし、リルフェーニは首飾りを求めてひたすらに獣道を歩き回っていた。
彼女の手には、小さなランタンが握られている。木々の隙間から時折満月が顔を見せるが、そんなものを頼りにすることは出来ない。しかし蠟燭をともしただけのこんなちっぽけな光源ではせいぜい足元を照らすのが関の山だった。
(見つからない・・・!)
視界が著しく悪い中、一向に探し物が見当たらないことに焦りが募っていく。穏やかな森とはいえ、夜行性の肉食動物も多少なりは生息している。身を守る手段もない彼女が出会えば為す術もない。
やはり、一度帰って朝出直すべきか。
そんな考えが彼女の頭をよぎった、その時。
「・・・え?」
不意に。
どこからか、声が聞こえたような気がした。
リルフェーニは周囲を見渡すが、一寸先も見えない視界の悪さも相まってそれらしい姿は見えない。
「誰?」
『・・・て・・・』
まただ。まるで脳裏に直接響いてくるような微かな声は、一体どこから響いているのかもわからない。
出所の分からぬ声は、それでも何度も聞こえてくる。
『・・・け・・・て・・・』
あちこちに視線を巡らすリルフェーニは、ふと視界の端に何かが映ったような気がした。
見ると、道端の一本の木の足元に、ランタンの明かりに照らされてきらりと光る小さなものが見えた。
「あっ」
急いで駆け寄った彼女は、それを拾い上げる。
細い鎖の先につながれた、緑色の宝石。
「あった・・・!」
探し求めていた首飾りが見つかったことに、リルフェーニは安堵の息を漏らした。鎖の一部が千切れてしまっているところを見ると、どうやら何かに引っ掛けてしまったらしい。とはいえ、他に目立った傷はなさそうだ。
(早く帰ろう)
急いで首飾りをポケットに突っ込むリルフェーニ。
失せ物を取り戻して安心していた彼女は、少し前にどこからか声が聞こえていたことなど忘れていた。
そして、『それ』がすぐそばまで近づいていたことにも、欠片も気が付いていなかった。
「え?」
声は、すぐ背後から。
『助けて』
瞬間。地鳴りのような音と振動が鳴ったのを、リルフェーニは確かに感じた。
しかし、異変はそれだけではない。
「っ!?」
首飾りが落ちていた傍の木。リルフェーニが押そうともビクともしないはずだった眼前の太い幹が、みしみしと音を立てて倒れていく。
咄嗟にその場から離れようと後ずさりした彼女は、その時になって初めて。
後ろに、『何か』がいることに気が付いた。
「え・・・?」
振り返ったリルフェーニが最初に見たものは何だったのか。
見上げなければ全容がわからぬほどに巨大な、その体躯か。
血がこびりついたように黒く変色した、その鋭い爪か。
あるいは、餌を見つけた捕食者のごとく彼女を見つめる、そのおぞましい眼光か。
「ガァアアアアアアアアアア!!!」
次の瞬間、『それ』は地面が割れるかと思われるほどの雄叫びを上げる。
狙いは、自分だ。
「っ・・・!」
『それ』が腕を振り上げるのが先か、リルフェーニがその場を離れるのが先か。
彼女が踵を返して駆け出すと、すぐ背後で何かが空を切ったような音がした。
間一髪でその爪を躱した彼女は、ランタンを置き去りにして元来た道を走り出した。『それ』は火のついたランタンを意に介さず踏みつぶしながら、逃げ去ろうとする小さな獲物を追いかけ始める。
(早く・・・早く!)
とにかく、ここから離れなければ。
灯りを失い、目の前もほとんど見えない中、彼女はかすかに見える目の前のものの輪郭だけを頼りに森の中を走り続ける。
『それ』は、すぐ後ろにいる。背後から聞こえる地鳴りのような足音は、距離が近いのか遠いのかすらもよく分からない。
小石につまづき、木々の隙間を抜け、今自分がどこにいるのかもわからない。それでも立ち止まれば、それは即ち死を意味する。
「はあ、はあ、はあ!」
一体、どれだけ走ったのだろうか。
息も絶え絶えになり、喉から血の味がするほどになったころ、密集した林の中を駆け抜けていたリルフェーニは不意に目の前が俄かに明るくなったことに気が付いた。
「・・・ここは」
開けた場所にたどり着いた彼女は、そこでようやく足を止めた。
そこは数日前、リルフェーニがシューラの実を拾い、そして彼女の過去を知る謎の男と出会ったあの河原だった。
(・・・足音が・・・)
いつの間にか、背後にあったはずの気配が無くなっている。小川が流れる音と、木々の葉が風に揺られてこすれる音、そして自身の息切れだけが耳に届く空間の中、リルフェーニは川べりにあった岩のそばまでゆっくりと歩いた。
「はぁ・・・」
ここまで来れば、ひとまずは大丈夫だろう。彼女は岩に寄りかかると、疲弊した足腰に耐えられなくなったようにずるずると座り込んだ。
しばらくは動けそうもない。疲れからか視界もぼやけてきたし、どこか怪我もしているかもしれない。
岩に背を預けてへたり込んだまま、リルフェーニはふと空を見上げた。
この場所なら、夜空に浮かぶ満月がよく見える。それまでの出来事が嘘であるかのように一転して静かなこの空間で、彼女は体を休めようとゆっくりと瞼を閉じようとした。
その時。
「!?」
目の前の林から物音が聞こえ、彼女は瞑ろうとしていた目を開く。
はじめは微かだったその音は、時間が経つにつれ徐々に強く、大きくなってゆく。
そして。
目の前の樹が突如へし折られると、その奥から巨大な影が姿を見せた。
(そんな・・・)
それまで朧げにしか見えていなかったその姿が、月明かりに照らされ露わになる。
一瞥してまず印象に残るのは、まるで獅子のようなたてがみと太い腕。しかし二本の足で立つその体の表面は、爬虫類が持つような鱗の類で覆われている。
そして、霞んだ視界の中で彼女の目に留まったのは。
(・・・あれ、は)
怪物の額に浮かぶ、何か半透明な石。紫紺の色に妖しく光る宝石のようなそれは、どことなくリルフェーニが持つ首飾りのそれと似ているような気がした。
「グルルル・・・」
怪物は、すぐ目の前に座り込む彼女の姿を見とめると、涎を垂らしてゆっくりと近づいてくる。
しかしリルフェーニは、その場から動こうとしなかった。
(動、けない・・・)
極度の疲労か、それとも怪我をしているのか、体が言うことを聞いてくれない。助けを呼ぼうとしても、息切れと恐怖で固まった喉は大声を出すことすら許してはくれない。
もう、為す術がない。
怪物は再び腕を振り上げると、死に体となった彼女に狙いをすました。
(・・・私は・・・死ぬんだ)
朦朧とした意識の中で漠然と最期を悟ったリルフェーニは、猛烈な勢いで迫ってくる巨大な爪を前に、そっと目を閉じた。
「シェ、スカ・・・」
その時だった。
ほんの一瞬。
リルフェーニは、風が吹いたのをかすかに感じた。
直後、鳴り響く高音。まるで硬い物同士がぶつかり合ったような甲高い音を聞いた後、彼女は覚悟していた痛みも死も、一向に訪れないことに気が付く。
「あ、れ・・・?」
不思議に思ったリルフェーニがその瞼をゆっくりと開くと、そこには。
「まさか、こんなところにもいたとは」
ガラスのように透き通った声。
服の上からでも分かるほどに、細い体。
しかし、そんな事が些細に思えるほど、彼女の目を引いたのは。
「え・・・」
手に持った一本の剣で、大木のように太い怪物の腕を止めている事実と。
月の光を浴びて、銀色に輝くその流れるような髪だった。
「――大丈夫ですか?」
まるでその周りだけ、一段と冷ややかな空気が流れているかのように。
青年は、穏やかにそう言うのだった。