第三話 確かな意味
「すまねぇな、こんな事に付き合わせちまってよ」
バンゼという名の村人が、そう声をかける。相手は先日村にやってきた旅人の青年だ。
「いえ、日頃お世話になってますから。これくらいは手伝わせてください」
銀色の髪をなびかせ、青年は朗らかに答えた。
二人が引く荷車には色とりどりの作物が溢れんばかりに積みあがっている。全てバンゼの畑でとれたものばかりだ。
青年がルメアに来てから、数日が経った。すっかり体調も元に戻った彼だったが、しかし村を発つ目途はいまだ立たないままでいた。
普段人がめったに立ち入らないこのゲルバの地は、周辺のどの都市とも遠く離れている。ここから最も近い町ですら、歩いていけば十日は掛かるという。
「にしても、今日はいつになく暑いな・・・」
そのうえ、連日続くこの酷暑である。たとえ十分な備えがあったとしても、自力でこの村を出ればその道中は困難を極めるだろう。
結果。青年が選んだのは、暑さが収まるか移動手段が見つかるまで待つというものだった。幸い地理的に大きな二つの町に挟まれているこのルメアには、しばしば行商の馬車が物資の補給と休憩を目的に立ち寄ることがあるらしい。
いずれにせよ、しばらくの間待ちぼうけを食うことになった青年を、彼を最初に見つけたバンゼは快く迎え入れた。青年はその見返りとして、彼の農作業や家事を手伝っているのだ。今回の収穫物の運搬も、その一環というわけである。
「しかし、すごい量ですね」
「だろう?あれだけ広い畑だからな」
バンゼは、自慢げにそう言った。 ゲルバの山々を切り崩して作られた広大な段々畑は、ルメアの名物の一つだという。
「収穫できたものは、こうやって村の中心にある倉庫に持っていく。食い物だけじゃねえ、服や道具、薪なんかも全部一か所に集めるんだ。そんで、欲しい時に欲しい分だけ持っていく」
「なるほど」
「そうやって、俺たちはお互いに支えあって生きているのさ」
村で生産されたものは全て村の共有財産となる。そこには貧富の差も上下関係もありはしない。
限られた資源の中で精一杯生きる人々の姿が、青年の目には映っていた。
「さ、着いたぜ。・・・お?」
村の中心部に着くと、バンゼが不意に何かを見つけた。
彼の視線の先には、見慣れぬ馬車の一団が。
「バンゼ、来たのか」
突然横からかかった声に、二人は振り向いた。見ると、先日腕を折った細身の村人が、こちらに向かって手を振っている。彼は隣の青年に気が付いたようで、そのまま近づいてきた。
「こないだの兄ちゃんも一緒か。あの時は世話になったな」
「腕はもう大丈夫なんですか?」
「おう。つっても、しばらくはこのままだけどよ」
彼はそう言って、包帯でがっちりと固定された腕を見せる。きっと、もうすぐ来ると言っていた魔女が処置をしたのだろう。
「そうですか」
「おい。それより、あれは?」
話を遮るようにして口を出したバンゼが、広場に停まっている馬車を指さした。
「ああ、ベレネス行きの商人だってよ。この暑さで飲み水がほとんど無くなっちまったんだと」
「行商にしちゃ、馬車の数が多くねぇか?」
バンゼが見る限り、その数は三台ほど。しかもその内の一つは、見るからに人を専門に乗せるものであるように思える。
「それが、どうも家族連れらしい。娘っぽいのが一人乗ってたぜ」
「商売ついでに観光にでも連れて行くつもりか?」
「さあ、金持ちの考えることはよく分からねえからなあ」
二人が首をひねっている中、それを隣で聞いていた青年が口を開いた。
「僕、あの馬車に乗せてもらえないか聞いてみます」
「ん?ああ、そうだな」
青年は馬車の方へと駆け寄った。
村を出る手立てを探していた彼にとっては、千載一遇の機会だ。うまくいけば、すぐにでも村を出られるかもしれない。
出発の時は、刻一刻と近づいている。
◆
シェスカが住む古民家は、彼女が知るずっと前からあるものだとリルフェーニは聞いたことがある。
彼女曰く、元は他人のものだったあの家を訳あって引き取ることになり、以来リルフェーニが来るまで一人で暮らしていたのだという。
年季の入った木組みの家はそのあちこちにガタが来ているものの、しかしその長年の生活によって周辺が開拓され、この森だけで生活が完結するよう随所に工夫が凝らされている。
リルフェーニが今いる畑も、その内の一つだ。
離れの林を切り開いて作られたこの畑は、引き取った時には荒れ地になっていたのをシェスカが一人で整備したものだという。森に住む二人にとっては重要な食糧の供給源というわけだ。
「ふぅ・・・」
そんな中。うだるような暑さに息を吐きながら、彼女は木陰に一人身を休めていた。
目の前の畑には、収穫を今に待ち構えるように丸々と太ったかぼちゃがずらりと並んでいる。この時期、太陽の光をこれでもかと浴びた作物は、どんな料理にしても絶品だ。
しかし。
変化の少ない彼女の表情は、それでもいつもより浮かないように見えた。
原因は、分かりきっている。
『落ち着いて聞いてくれ』
あの男に出会ってから数日。リルフェーニは彼に言われたことをいまだ整理しきれないでいた。
(私は、誰かに命を狙われている)
そう聞かされたその日は、まるで生きた心地がしなかった。家への道中では周囲の草木が擦れる音にいちいち取り乱し、帰路に着いてからは何度も外に出て怪しい影がないか確認し、その晩は少しも眠ることができなかった。
これからどうなってしまうのかと気が気でならなかった彼女は、しかし何日か経ってみると、自分でも驚くほどにその恐怖感が薄れていた。考えてみれば三年間は何事もなく生活できていたのだ。それに今更怖がってもすぐにどうにかできるわけでもない。
(悩んだって、なるようにしかならない)
彼女は、そういう割り切りは早い性格だった。
(・・・それより)
もう一度、彼女は頭上の木の葉の隙間から空を見やる。
空に浮かぶ島も、今日はどこかへ消えてしまったようだ。
ネアと呼ぶらしいあの島こそが、自分が生まれ育った場所。『危機』に巻き込まれたらしい自分は、あの場所を何らかの方法で離れ、そしてここに流れ着いた。それがあの男が言ったことだった。
(信じられないけど・・・ほかに信じるものがない)
リルフェーニは、おもむろにシャツの首元に手を入れる。ややあって服の中から引っ張り出したのは、小さな首飾りだった。
特徴的なのは、細い鎖の先に光る緑色の宝石。名前も知らないその石はどこでそうなったのか、乱暴にも欠けてしまっているようだ。この首飾りは、林の中でシェスカがリルフェーニと出会ったあの日、気を失っていた彼女が身に着けていたものだという。
当然のことながら、リルフェーニ自身はこの首飾りが一体何を示すのかを知らない。
しかし目が覚めた時には全てを失っていた彼女にとって、これは名前のほかに自分を表す唯一の手掛かりであることもまた事実だった。
リルフェーニは首飾りを手のひらに乗せると、木漏れ日を受けて乱反射する宝石をじっと見つめた。
(私は、誰なんだろう)
このゲルバという地にやってきてからというもの、リルフェーニは失った記憶を取り戻すことばかり考えてきた。今では自発的に手伝うようになったシェスカの薬作りも、きっかけはそこにあった。
行ったことがない場所、食べたことのないモノ、嗅いだことのない匂い、やったことのないこと・・・あらゆることに手を伸ばしていれば、いつか何かの拍子で思い出すかもしれない。それが彼女の原動力だった。
しかしそんな努力も甲斐なく、三年が経った今でも彼女はそのきっかけすらつかめないでいた。
そんな折に。
『君のことはすぐに分かった』
突然現れた、以前の自分を知る人間。
正直な話をすれば、信頼できるとはとても思えない。結局のところ彼は名前も名乗らなければ顔も見せなかったのだ。森に迷い込んだ物好きがあることないこと口走っていた可能性もある。
しかし。
『いずれ君には、決断すべき時が来る』
『ここに住み続けるか、故郷に帰るか、だ』
彼女の胸には、やはり取り除けない大きなしこりが残っていた。
(・・・もし、全部思い出したら)
記憶を取り戻そうとする過程で、リルフェーニは同時にそんな事を考える時がある。
そして、何度繰り返してもその結論は一つに決まる。
(きっと、この家を出ることになる)
シェスカは、突然やってきた自分に居場所をくれた。でもそれは、あの時の自分が何も持っていなかったからに他ならない。
もし、別に用意された居場所があるのなら。
記憶の戻った自分がここにいる理由は、ない。
(・・・・・・)
リルフェーニ自身、どうしたいのかは分からなかった。しかしどんな風に考え、どんな結論を出したとしても。
シェスカはきっと、本当の家に帰れというのだろう。
なぜなら。
彼女は、誰よりも優しいのだから。
(私は・・・)
リルフェーニは座り込んだまま、自身の体を抱くようにしてうずくまった。『その時』になるまでいくら考えても仕方がないと分かっているのに、言いようのない感情が次々と胸の中に入り込み、螺旋状に溶け合っていく。
腕の中に顔を埋めながら、彼女は整理できない想いをただひたすらに反芻していくしかなかった。
そんな時だった。
「リル」
不意に頭上から聞き慣れた声がかかる。リルフェーニが顔を上げると、そこには見知った同居人の姿が。
「まだここにいたのか」
「シェスカ」
「そろそろ日が暮れる。まだ飯も食ってないだろ」
どうやら物思いに耽っている間に随分と時間が経っていたようだ。青かった空に少しずつ橙色の影が差し込んできたのが見えたリルフェーニは、次にふと目の前に伸びた手に気が付いた。
「帰ろう」
夕暮れの日差しがそうさせるのか、それとも別の何かのせいか。
そう言ったシェスカの表情は、どこか切なそうにしているように感じてしまった。
「・・・ん」
――たとえ記憶を失っていたとしても。ここが本当の家ではないとしても――
リルフェーニは伸ばされた手を握ると、寄りかかっていた木の根元からゆっくりと立ち上がった。自分より少し大きな彼女の手は、いつもと変わらずほのかに暖かかった。
「シェスカ」
だから。
彼女は、聞いてみたくなったのかもしれない。
「・・・どうして、あたしを拾ったの」
うつむいて、手を握ったままそう呟いたリルフェーニに、シェスカは目を丸くした。
それは、ここに来てから今までしたことのなかった質問だった。
何があったと心配するだろうか。それとも馬鹿な事を言うなと憤慨するのか。
リルフェーニは感情の写らない表情の下で、彼女の反応をそう見積もっていた。
しかし。
「さあな」
予想外な反応に驚いたようにリルフェーニは頭を上げる。
そこには、少し困った様子ではにかむシェスカの姿があった。
「あたしにもよく分からないんだ。きっと、そういう風が吹いていたのかもしれない」
「風・・・?」
「少し変な言い方か?まあ、あまり上手いことは言えないが・・・」
シェスカは、握っていたリルフェーニの手を顔の前まで上げた。
「――少なくとも今は。お前がここにいて良かったと、そう思ってるんだ」
刹那。柔らかな風が、二人の間を通り抜けていく。
それと同時に。
理由もわからないままリルフェーニは、自分の頬を一筋の水滴が伝っていくのを感じた。
「ど、どうした?」
それまで見せたことのなかった彼女の涙に、シェスカは慌てた様子で駆け寄る。
一粒、また一粒と、声を上げずに涙を流すリルフェーニは、心配そうに見つめるシェスカの胸元に飛び込んだ。シェスカは少しだけ驚くようなそぶりを見せたが、やがてその両腕で小さな彼女をそっと抱きしめた。
『風の導くままに進めば、きっとうまくいく』
(・・・そっか)
それが、いつかの別れを示唆しているのだとしても。
(『ここ』が、私の居場所になってたんだ)
自分がいたことには、確かな意味があったのだと。
シェスカの腕の中で、リルフェーニはそう感じたのだった。