第二話 失くした記憶
日が昇りきるかという昼前のこと。ゲルバの麓、ルメア村では。
「――これで大丈夫だろう」
久方ぶりに山から降りたシェスカが、村の家々を訪問して回っている最中であった。
「ああ、助かったよ」
そう言って安堵の表情を見せたのは、牛車に突き飛ばされて腕を折った細身の男。彼は、やはりよく分からない薬を塗られた上に動かないよう堅牢に固定された左腕を見て、物珍しそうに反対の指でつついたりしている。
「言っておくが、すぐには治らないぞ。次にあたしが来るまで絶対に刺激するなよ」
「そうは言うけどなぁ、かなり不便だぞこれ。このままじゃ畑仕事も碌に出来やしねぇし、飯食うにも苦労しそうだし」
「怪我人が文句を言うな。無理に動かして振出しに戻りでもしたらもう診ないからな」
「わかった、わかったよ。ほかならぬ魔女様の言いつけだ。大人しくしてるさ」
指を差して忠告するシェスカに、男は観念したように無事な方の腕を上げた。疑心暗鬼の表情で男を見ていた彼女は、やがて諦めたようにため息をついた。
「まったく・・・しかし、牛車に轢かれて腕の一本で済んだのは運がよかったな」
「それがな。今たまたまバンゼの家に客が来てるんだが」
「客?」
「ああ。旅人風な感じなんだけどよ、そいつがまたとんでもない奴で・・・」
男は事の顛末をシェスカに話した。銀色の髪をした青年が、暴れていた牛を一瞬で静かにさせてみせたこと。そしてぬかるみに嵌った荷車を一人で持ち上げたこと。
「・・・・・・」
シェスカは、訝しげに男をにらむ。
「そ、そんな目で見るなよ。ホントに見たんだって」
「俄かには信じられないな」
「嘘だと思うなら、今からでもアイツの家に行ってみろよ。多分まだいるはずだから」
男が興奮気味に反論する。気が乗らないのか、シェスカは遠慮がちにそっぽを向いて頬を掻き始めると、周りに聞こえるのかどうかというような音量で返した。
「気が向いたらな」
二人の間に、沈黙が流れる。
「・・・そろそろ行く」
「おう、ありがとよ。あ、そういや」
妙な空気に耐え切れなくなったのかシェスカがきまりの悪そうに治療に使った道具を片付け始めると、男が思い出したかのように呼び止めた。
「あの娘っ子は、今日は来てないんだな」
「ん?ああ、リルのことか」
藪から棒に、などと口にしかけた彼女はしかし、ふと言い留まる。
(・・・そういえば)
「元気にしてるのか?」
「ああ。相変わらず何を考えてるのかよく分からないが」
「そうかい」
男は胡坐をかいたままベッドの縁に寄りかかると、遠くを眺めるような目で呟いた。
「しっかし、あん時は驚いたよなあ。それまでほとんど村に顔を出したことの無かったアンタが、急に血相を変えて村長の家に転がり込んでくるんだからな」
「そう、だったな」
男の言葉に、シェスカもどこか遠い目をして返した。
(あれから、もう三年が経つのか)
今でも昨日のことのように思い出す。
「あの日は、妙に霧が立ち込めていたんだ」
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あの日も、こんな暑さが続いていた朝のことだった。いつものように薬の材料を採集しに林の中を探索しているシェスカはある時、草むらの陰に何かがあるのを見つけた。
彼女の腰ほどまでに伸びた雑草の山をかき分けていくと、その先にあったものにシェスカは心底驚いた。
「これは・・・!」
そこにあったのは、年端もいかない少女の姿。小さく横たわったまま動かない彼女の顔は、その長く伸びた金色の髪に隠れてよく見えない。
シェスカは担いでいた編み籠を放り投げると、取るものも取り敢えず少女のもとへと駆け寄った。動かない彼女をその場でそっと仰向けに寝かせると、シェスカはその胸元に耳をあてて息を潜めた。
脈は、ある。わずかだが呼吸もしている。
(まだ、生きている・・・!)
少し前に放り出した編み籠のことなど、すでに欠片も覚えていなかった。
シェスカは急いで少女を担ぎ上げると、見通しの悪い森の中を踵を返して駆け出した。
それが、のちにリルフェーニ=ランドラウムと名乗る少女との、初めての出会いだった。
「――初めて会ったあの子は、まるで何も書かれていない紙のようだった」
三年前の記憶を遡っていると、シェスカの口からぽつりとこぼれた。
「それは苦労したさ。読み書きができない。ナイフもフォークも満足に使えない。こちらの言うことだってどれだけ理解しているのかわからない」
リルフェーニを見つけたその日から、シェスカの苦悩の毎日は始まった。一人で生きていくことに何の疑問も持たなかった彼女に突然できた同居人は、これまで一体どのような生活を送っていたのか。およそ人として生きていくことすら怪しかった彼女に、シェスカの悩みの種は尽きることがなかっただろう。
「でも・・・」
それでもシェスカは、決してリルフェーニを見捨てようとはしなかった。
その思いは、三年が経った今でも変わることはない。
「あたし以上にあの子にとって、一番辛かったのは・・・いや、今でもきっと辛いのは」
不意に顔をしかめたシェスカは、おもむろに腕をさすった。そして開け放たれたドアの方へと顔を向けると、外界の先に見えるゲルバの山々をじっと見つめた。
「・・・自分の名前以外。あの子が何も覚えていないことさ」
◆
「なるほど、君か」
背後から突然聞こえた声に、リルフェーニはすぐさま振り返った。
「・・・誰?」
彼女は眉を顰めながら、そこに立っている人物に静かに声をかける。
声色からすると壮年の男性だろうか。厚手の外套に身を包み、顔すらもフードで隠したその者を当然ながらリルフェーニは知らない。
男は両手をゆっくりと上げると、落ち着いた様子で彼女に話しかけた。
「驚かせてすまない。訳あってこんな姿だが、君に危害を加えるつもりはない」
低く枯れたその声は、まるで朽ちかけた巨木を想起させる。自身の言葉の通り、彼はそれ以上リルフェーニに近づく様子もなく話し始めた。
「こうして会うのは初めてだが、君のことはすぐに分かった。・・・やはり、よく似ているな」
「あたしを、知ってるの?」
「ああ。君がここに来る前から、な」
男の言葉に、リルフェーニの心臓が跳ねた。
三年前。シェスカに拾われて目が覚めた時には、リルフェーニはその記憶のほとんどを失っていた。
自分は何者で、どこから来た人間なのか。どうして記憶を失くし、こんなところにいるのか。
彼女がこの三年間追い求めてきたもの。それを目の前の男は握っている。
(この人は、私の知らない『私』を知ってる)
それまで警戒し続けていたリルフェーニが、一変して身を乗り出した。男は少し驚いた様子で後ずさりをすると、何か察したように声をかけた。
「もしやと思ったが・・・記憶が、無いのか」
リルフェーニは頷く。
「・・・そうか」
男は顎に手を当てると、ぶつぶつと独り言をいいながら何やら考え始めた。フードの陰に隠れて表情を読み取ることは出来ないが、それでもリルフェーニはその様子をじっと見つめている。
「ふむ」
整理がついたのか、ややあって男は彼女の方へと向き直る。
「どうやら、新たな風が吹きつつあるようだ」
「・・・?」
「これから話すことが、君にとって良い物かどうかは分からない。だが慎重に言葉を選んでいる時間もない。どうか落ち着いて聞いてくれ」
それまで穏やかに努めていた男の声が、張り詰めた糸のように険しくなる。リルフェーニが唾を飲み込むのと同時に、彼は話し始めた。
「三年前。君はある危機に巻き込まれた」
「危機?」
「そうだ。そのせいで君は故郷を離れることとなり、結果この地にたどり着いた。記憶を失ったのも、その時のショックが原因だろう」
「・・・・・・」
にわかに信じられないまま、男は続ける。
「人里離れたこの森で、三年。君は危険な目に遭うこともなく過ごすことができた。しかし私がこうして君と会うことができた以上、『奴ら』が君の居場所を突き止めるのも時間の問題だろう」
「奴ら・・・?」
「状況は君が思っている以上に危ういのだ。もしまた奴らに見つかるようなことがあれば、力のない君に為す術はない。連れ去られるか、あるいは殺されるか」
「っ・・・!」
男が次々と吐露することに、リルフェーニの頭は追いつかないままだった。
自分の命を狙う存在がいる。そしてそれから逃げるために、今ここにいる。
胸の奥からこみあげてくる不安と恐怖に、体が震え始める。リルフェーニは腕を抱くようにして震えを押さえつけると、男の方へと向き直った。
「いずれ君には、決断すべき時が来る」
「・・・決断?」
「つまり。ここに住み続けるか、故郷に帰るか、だ」
リルフェーニは男の言葉に目を見開いた。
それは記憶を失くした彼女の、たった一つのルーツ。
「教えよう」
男はそう言うと、ある方向を指さした。リルフェーニは彼の指し示す先を見て、三度驚いた。
それは、二人のはるか頭上。雲をも超えたその先に、晴れた日にだけ時折姿を見せるもの。
「『ネア』。それがあの島の・・・君の故郷の、名前だ」
天に浮かぶ小さな島。
リルフェーニがこの森で過ごしてきた三年間、ずっと見てきたあの島こそが、彼女の故郷だと彼は言った。
「ネア・・・」
「あんな事があったとはいえ、地上よりも安全なのは確かだ。あの場所まで辿り着くことができれば、君の身はある程度保障される」
「でも、あんな所にどうやって」
「それは――」
男が口を開こうとしたその時。
「っ!」
何かの気配を感じたかのように、突然彼は周囲を見回した。
リルフェーニの目には、何もいるようには見えない。しかし男は警戒を解くことなく、焦るような具合で彼女の方へと向き直った。
「すまないが、ここまでのようだ。これ以上ここにいると、君にも危険が及んでしまう」
「そんな・・・!」
まだ自分の置かれた状況が理解できたわけじゃない。この男から聞きたいこともたくさんある。だが彼の様子を見る限り、そんな時間はなさそうだ。
別れの時が刻一刻と迫る中、リルフェーニは最後に口を開いた。
「・・・あたしは、どうすればいい・・・?」
焦りと、不安と、迷いと。様々な感情が渦巻く中で彼女が絞り出した言葉だった。
すると。
「大丈夫だ」
不意に聞こえた声に、リルフェーニは男の顔を見る。
彼女にはその時、深く覆われたフードの隙間から垣間見えた男の口元が、少しばかり緩んだように感じた。
「君は一人ではない。風の導くままに進めば、きっとうまくいく」
瞬間。
男の言葉と同時に、どこからともなく突風が吹き荒れる。砂埃と草の破片が空を舞い、リルフェーニは思わず顔を腕で覆った。
ほんの一瞬の、つむじ風。
それが吹き止んだことを感じ、彼女が目を開けたころには、すでに男の姿はどこにもなかった。
「・・・・・・」
草木の揺れる音。流れる小川の響き。飛び行く小鳥のさえずり。
日常の姿に戻った河原に、リルフェーニは一人たたずむ。
そしてそんな彼女を、ただ俯瞰するかのように。
『ネア』は、邪魔するもののない大空を静かに流れていくのだった。