第一話 魔女
大陸を統べる三国の一角、ペルネ連邦。複数の商業国家が集まってできたこの国は一年を通して比較的温暖であり、またその気候を象徴するかのように大らかな気質の人間が多い。
そしてその南西部、山岳地帯ゲルバの辺境に位置するルメア村では特にその傾向が強いといえる。木々の生い茂った山の麓にあるこの村では、五十人ほどの老若男女が身を寄せ合い自給自足の暮らしを行っているのだ。
そんな長閑な村での、ある日の昼下がり。
「おかげで、助かりました」
空になった椀を置いて、旅人は頭を下げた。
「いいっていいって。大した飯じゃねえし、何よりあんなところで死なれちゃ寝覚めも悪いからな」
そう言って村の男は豪快に笑った。
農作業の合間に人が倒れていたのを見つけたのは偶然の出来事だった。どうやら三日ほど何も口にせずに放浪していたらしいその旅人は、食事と睡眠によってすっかり回復したようだ。
「大体、こんな暑い時期に笠も水も持たずにほっつき歩くなんて、死にに行くようなもんだよ」
男の妻と思しきふくよかな女性が、そう言いながら食べ終わった後の器を持って洗い場へと向かった。
旅人が持っているのは、細かな日用品が入った巾着袋のほかに細身の剣が一本だけ。倒れていた時から他に持ち物がなかったところを見ると、彼の所持品はそれですべてらしい。
「すみません。あまりお金も無いものですから」
旅人は苦笑いを浮かべながら、視線を他所へ逃がすようにして家の中を見まわす。
夫婦で暮らしているらしいこじんまりした民家には、生活に必要な最低限のものしか置いていないようだ。開けっぴろげな扉から外を見れば、一面に山の斜面を利用した段々畑や水田が並んでいる。小さな村であれその田畑の広さを見れば、ここに住む人々の営みと歴史が垣間見えるようだった。
「ま、何にせよ畑の前で倒れてたんですぐ目についたのが幸いだったな。これも龍神様の導きってやつかねぇ?」
「・・・ええ、そうかもしれませんね」
旅人は、少し歯切れの悪そうな返事をした。
「しっかし、何ていうか・・・」
男は頭を掻きながら、旅人の姿を軽く観察する。
その風貌は、さながら美青年といったところだろうか。ともすると女子とも見紛う端正な顔立ちに、意志の強さを感じさせるこがね色の瞳が際立っている。
そして何より。
「見たことない髪の色だよなぁ」
すらりと流れる、銀色の髪。それが何よりもまず目を引いた。
辺境の人間は、その大半が茶色か栗色の髪をしている。顔立ちにしろ、目や髪の色にしろ、少なくとも地元の出身ではないことは明らかなように思えた。
青年は自らの前髪をつまむと、捩るようにして弄ぶ。
「確かに、あまりいないかもしれませんね」
「やっぱこの辺の人間じゃないんだろ?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、この村には何をしに来たんだい?」
洗い物を済ませて戻ってきた男の妻が背後から尋ねると、彼は言葉に詰まったように頬を掻いた。
「あー、なんというか・・・」
「なんだい。後ろめたいことでもあるのかい?」
「まあいいじゃねぇか、なんでも。言いたくなけりゃ無理に言うこともないだろ」
男はそう言うと、おもむろに立ち上がった。
「さて、と。俺は仕事に戻るからよ。まあゆっくりしてくれや」
「ありがとうございます」
男が外に出たのを見送り、青年が一息つこうと自分の荷物に手を伸ばした、その時。
「おい!どうした!」
突然、逼迫した声があたりに響いた。
叫び声の出所が表だと気づいた青年は、すぐに家の外へと飛び出す。
「くそっ、やっちまった・・・!」
傾いた荷車と、暴れる牛と、そしてそのすぐ傍でうずくまる一人の男性。
「何があった!?」
「昨日の雨で路肩がぬかるんでたんだ。牛車がそれに足を取られて・・・」
見れば、片方の車輪が地面に半分埋まっている。バランスを崩した牛車が、横で操縦していた細身の男を突き飛ばしたらしい。
悪態をつきながら、彼は片方の腕を強く抑えている。
「おい、その腕は」
「俺より先に、こいつを何とかしねぇと・・・!」
暴れ続ける牛に対し細身の男が立ち上がって何とかなだめようとするものの、態勢の悪い荷車に引っ張られ自由のない状態ではなかなか収まる気配がない。
「くっ、待ってろ!今人を――」
その時。
「いいですか?」
切迫した状況の中で不釣り合いに穏やかな声を上げたのは、銀髪の青年だった。
「お、おい!あんた!」
家の中から女が止める声も聞かず、彼は袖をまくりながらゆっくりと暴れる牛のもとへと歩み寄る。
「今そいつに近づいたら・・・」
慌てて制止しようとする村人たちに、彼は唇に指をあてて見つめた。音を立てるなという合図だ。
そうして牛車の前に立つと、青年は血の上った牛の眼前に手のひらをかざし、その目をじっと見据えた。
「は・・・?」
あわや襲い掛かられるかと思われた青年の突飛な行動。しかし直後の有様に、村の男は驚きを隠せなかった。
あれほど荒れ狂っていた牛の動きが、次第に緩慢になっていく。足踏みをやめ、鼻息も落ち着き、のども鳴らさぬようになり。
「ま、まじか・・・」
ついには、その目に理性を宿してしまった。
「・・・・・」
瞬く間に平静を取り戻していく様を呆気に見ていた男たちだったが、青年がかざしていた手を離すとすぐに我に返る。
「よ、よしっ、すぐに皆を集めるぞ!」
牛は大人しくなったが、まだ荷車はぬかるみに嵌ったままだ。持ち上げるには少なくとも大人が四人は必要であろうという重さを前に他の村人を呼ぼうとした男が、牛車の方をほんの刹那見やると。
「よいしょ」
「「はああ!?」」
枝のように細い腕で、いとも軽々しく車輪を持ち上げた青年の姿があった。
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「いやぁ、兄ちゃん凄えんだな・・・」
「いえ、少しは恩返しができたようで」
唖然として立ち尽くす男たちを前に、青年は特に何事もなかったかのように微笑みかけた。
「それより。その腕、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
牛車に突き飛ばされた男が抑えていた手をどけると、前腕が赤く腫れあがっているのがすぐに分かった。
「いてて・・・」
「うわ。こりゃ、骨が折れてるかもな」
「村に医者はいるんですか?」
「ん?いや、いない」
あっけらかんと言ってのけた男に、青年は目を見張った。
「まあでも、こんな事は別に珍しいことじゃないしな。それに・・・」
「それに?」
「もうすぐ、村に『魔女』が来る頃だ」
「え?」
咄嗟に理解のできない単語が飛び出してきたことに青年が首をかしげていると、民家から細い薪と布を持って出てきていた女が負傷した村人の腕に木を充て、布で固定した。
「これでいいのかしらね?」
「ああ。じゃあ俺は牛とこいつを家まで届けてくる。ついでに済ませたい用事もあるしな」
「兄ちゃん、助かったぜ。ありがとよ」
そう言って牛車を連れて歩き出した男たちに、青年も小さく手を振って返した。
「さて、そろそろ中に戻ろうかしら」
「あの」
見送った二人の姿が遠くなり家に入ろうとした女を、青年は呼び止めた。
「魔女って、何ですか?」
「ん?ああ、あそこにひときわ高い山があるだろう?」
女は畑の向こう側にある山岳の一つを指さす。
「あの山の中に、かなり古い家があってね。そこにずっと住んでるのがいるのさ」
「村の住人ではないのですか?」
「何度かここに住まないかって誘ったんだけど、どうにも人が苦手っていうもんだから。でも、時々こっちの方まで降りてくるんだよ」
女は、まるで気心の知れた人間の話でもするかのような口調で喋った。
「魔女って呼ばれてるのはね、それだけ腕がいいのさ」
「腕がいい?」
「ああそうさ。ふらりと村に来たかと思えば、病気や怪我をした人を次から次に治してしまうのよ」
「もしかして、さっきの応急処置も」
「そうそう。前にも腕を折ったのがいてね、ついでに教えてもらったのさ」
医者のいないこの村にとって、治療ができる人間はそれだけで貴重なのだろう。青年には、その魔女と呼ばれる人物がずいぶんと村の人間から慕われているように思えた。
「なるほど。是非会ってみたいですね」
「最近顔を見せてないから、そろそろ来るんじゃないかしらね」
女の話に、青年はその魔女が住んでいるという山の方を見やった。
「・・・魔女、か」
◆
木々が鬱蒼と生い茂る樹海の中を、静かにかき分け進んでいく人影が一つ。
「――たしか、この辺に」
揺れ動く金髪が、小さな肩をそっと撫ぜる。
背中に大きな編み籠を背負いながら慣れた様子で樹木の間をすり抜けるように歩くのは、シェスカと共に森の民家で暮らす少女リルフェーニ=ランドラウムだ。
ゲルバの森は、それ自体がさほど危険な場所というわけではない。山々の背は低くて土砂崩れの心配もなければ、生息している動植物にも人間に害をなすものはほとんどいないからだ。
しかし、それはあくまで開拓された獣道の上を歩いた場合の話。まだ人がろくに足を踏み入れたことのない未開の地へと一歩踏み出せば、森はたちまち巨大な迷路と化す。
どこまで進もうと同じ景色が続くこの樹海からは、土地勘のない人間はおろか地元の村人ですら抜け出すことは難しい。
そんな中、道なき道を進むリルフェーニ。
自殺行為とも取れかねない無鉄砲な振る舞いかと思いきや、その実、彼女は当てもなく徘徊しているわけではなかった。
(・・・あった)
彼女が探していたのは、とある一本の樹木。傍目にはほかの木と区別がつかないが、その幹の表面をよく見ると矢印のような切込みが入っている。明らかに自然にできたものとは違うその傷こそが、リルフェーニがこの自然の迷路でも居場所を見失わない理由だった。
印の指し示す方へと歩を進めると、しばらく先にまた同じような矢印の切込み。更にそれに従い歩き続けると、また別の矢印。
これらの樹木に付けられた道しるべは、同居人のシェスカが過去に残したものだった。ふもとの村の人間からは魔女と呼ばれ奇異な視線を向けられている彼女は、それでもなおこの森での生活をやめる気はないようであった。
彼女がそれほどまでに山にこだわる理由。それはひときわ大きな樹に残された最後の矢印の先にある。
リルフェーニが胸ほどの高さもある草をかき分けて前に進むと、ふと開けた場所へとたどり着いた。
そこは彼女の目的地であると同時に、彼女が密かに気に入っている場所の一つだ。
(綺麗・・・)
真っ先に目に飛び込んでくるのは、滾々と流れ続ける小川。絹のように滑らかな水の糸が、山の傾斜に導かれていくようにゆっくりと流れていく様は、普段から感情を表に出さないリルフェーニが思わずため息をつくほどだった。
ここは、森に住む二人以外には誰も知る人のない小さな河原。中心を流れる渓流とその両側に転がる大小様々な岩石のほかには特に目立つものもない、静かな場所だ。
リルフェーニは背負っていた籠を川べりの砂利の上に置くと、おもむろに靴を脱いだ。裸足になった彼女は、日の光に輝く水の中に細い脚をそっと踏み入れる。
「んっ・・・」
指先に冷ややかな感触が伝わり、思わず肩が跳ねる。茹だるようなこの暑さの中で清涼な刺激が次第に快感に変わっていくのを肌に感じながら、彼女は少しずつ清流の中へと入っていった。
流れに逆らうように泳いでいた小魚の群れが一斉に逃げ出す中、リルフェーニはズボンの裾を両手でたくしあげつつ中へ中へと進み、川の最も深い地点でその足を止めた。
膝まで水に浸かりながら、彼女はその視線を足元へと落とす。そして澄み切った水のおかげではっきりと見える川底に積みあがった丸石に手を伸ばすと、それを一つずつ裏返し始めた。
「あった」
呟きながら彼女が拾い上げたのは、一房の水草だった。川の中から抜き取られて鈍く光るその草の根元を少し分けると、中から特徴的なこぶが姿を現す。リルフェーニはそのこぶを無造作に引き抜くと、ガラス玉のように透明なそれを真上の太陽にかざした。
こんな辺鄙な場所に来てまで、彼女がわざわざこれを探していたのには理由がある。
『いいか、リル』
思い出すのは、シェスカに初めてここに連れられた日のこと。
『こいつはシューラという植物だ。流れの弱い川に生息していて、こんな風に引っ張り出すと根元にこぶが見えてくる。これには栄養分が豊富に詰まっていてな。川底の石の下に隠されているのは、魚に食われないようにするためなのさ』
シェスカはそう説明して水草から2つのこぶを取り出すと、ゆっくりと手のひらの上で転がし始めた。まるで水が意思を持って丸くなっているかのように、透明で柔らかいそのこぶはその下のシェスカの手を鮮明に映し出している。
『綺麗だろう?こいつの透明度は生息する川の水質に依存するんだ。ここまで透き通ったものはゲルバでもここでしか見たことがない』
シェスカは手のひらからこぶを一つ取り上げると、隣でその様子をじっと見ていたリルフェーニに渡した。
『食ってみな』
言われるがまま、リルフェーニは摘んだばかりのこぶを口にする。
『どうだ?』
『・・・ヘンな味』
独特な苦みと酸味が口内に広がり、彼女はわずかに顔をしかめる。それを見たシェスカはふっと笑うと、後に続いてもう一つのこぶを口に放り込んだ。
『慣れると癖になるものさ。まあ、お前にもその内分かる』
シェスカはそう言ってからかうようにリルフェーニの頭をくしゃくしゃと撫でた。少し機嫌を損ねたのか、彼女は首を伸ばして嚙んでいたものを無理やり喉の奥へと押し込んだ。
『そうムキになるな。大量に食べて体に良いものじゃない。それに・・・』
シェスカは彼女の頭から手を離すと、おもむろに川の外へと歩き出した。
『大事な、薬の材料だからな』
あれは、もう2年ほど前の話だったろうか。味という意味ではあまりいい思い出がないものの、日に当てた時のこの宝石のような輝きだけは、何度見ても癖になるものだ。
しばらくの間、つまんでいたシューラのこぶを太陽にかざして眺めていたリルフェーニだったが、ふと我に返ると、つぶさないよう丁寧にポケットに入れてまた川底を見回した。
(まだ、足りない)
シェスカには、ルメア村の人々からつけられた『魔女』というあだ名がある。誰が最初にそう呼んだか定かではないが、その一番の理由は彼女が薬学に精通しているからであろう。
まだ年若い彼女は、しかしその若さで卓越した薬効の知識を有している。その腕は確かなようで、ルメア村の人間からは不思議がられつつも信頼を得ているようだ。
医者がいないあの村にしてみれば、それに代わるシェスカという存在は限りなく大きい。
しかし彼女はそれを鼻にかけようとは決してしない。それどころかリルフェーニの目には、シェスカが外界との接触を極力避けようとしているようにすら見える。
誰も寄り付かない原生林をねぐらにし、周辺の動植物を集めてきては、ただひたすら薬作りに没頭する。そして時々思い出したかのようにふらりと村へ降りたかと思えば、手当たり次第に傷病者を治して回り、またそそくさと森へ帰ってしまうのだ。
神出鬼没で、理解不能。
『魔女』とは、そんな彼女に対する奇異な視線と親しみから生まれた言葉だった。
(こんなもの、かな)
リルフェーニは見える範囲にあったシューラを粗方採り終えたところで、川べりの方へと歩き出した。
川から出た彼女は軽く手足を振って水気を飛ばすと、脱ぎ捨てていた靴に足を入れる。そうして額の汗をぬぐいながらふと頭上を見上げると、その目にあるものが留まった。
(あれは・・・)
はるか天空を浮かぶ、小さな島。
今朝シェスカに咎められるまで屋根の上で見ていたその島が何食わぬ顔で空を漂っているその様子は、何度見ても不思議なものだった。
一体、いつからそこにあるのか。
リルフェーニはいつだったか、そんな事を村の人間に聞いて回ったことがある。子供から大人、果ては村の生き字引と呼ばれた長にまで尋ねに行ったが、しかし皆一様に同じことを口にした。
曰く、『気づいた時にはあった』と。
(ま、いいか)
考えたところで、分からないものは分からない。リルフェーニは謎だらけの島について考えるのをやめると、傍に置いてあった編み籠に手を伸ばした。
すでに日も昇りきっている。暗くなれば、家までの道しるべとして方々の樹木に残していた矢印も見えなくなってしまうだろう。いくら勝手を知っているとはいえ、夜になればどんな危険が待っているか分かったものではない。
リルフェーニは籠に入っていた麻の風呂敷を取り出し広げると、ポケットから収穫したシューラの実をその上に置いた。そして中身を潰さないようそっと包むと、再び籠に入れてその小さな背に担いだ。
「これで、よし」
帰り支度は整った。
この季節に冷えた川と別れを告げるのにはいささか名残惜しさこそ感じたが、リルフェーニはやがて踵を返して来た道を戻ろうとした。
しかし。
「・・・ん?」
ふと、彼女は足を止める。
帰り道に迷ったわけでも、やり残したことを思い出したわけでもない。
原因は、その視線の先にあった。
「これは・・・」
河原から家へと帰る林道の入り口の、その境界線。
そこに立っている樹の一本に一筋の傷が付いている。
遠目からでもハッキリと分かるほどに大きなその傷は、当然リルフェーニが付けたものでも、シェスカが以前に残したものでもない。むしろ彼女には、それがおよそ人による仕業とは思えなかった。
これはまるで。
「爪、痕・・・?」
リルフェーニが呟いた、その時。
「なるほど。君か」
背後から突然、見知らぬ声が響いた。