ゲルバの森にて
その昔。大陸にはたった一頭の龍とよばれる生き物がいた。
いつから生きているのか誰も知らぬそれは、風と雷雨に荒れ狂う内海を越えた先の、果てしなく高い山のその頂に棲み、理解の及ばぬ摩訶不思議な力で他を圧倒した。
尋常ならざる英知と膂力を具えたその龍を、人は時に恐れ、時に憧れ、時に敬い、そしていつしか崇めるようにさえなっていった。
自らに集まらんとする小さな者達に、彼は何を感じ取ったのだろうか。
その真意を、なんびとにも理解されぬまま。
それは、人知れずに姿を消した。
◆
「リル!」
突然辺りに響いた大声に、民家の古びた壁がわずかにきしむ。声の主は部屋の中を見回すと、目当ての人物がいないことにため息をついた。
「まったく、どこに行ったんだ・・・?」
くすんだ赤い髪を掻きながら呟くのは、年若い女性。麻のズボンと肌着一枚で歩き回るその姿に女性らしさは感じられないが、うだるような暑さが続くこの時期の気候には適した格好といえる。
「さては」
何かあてがあるのか、女はそう呟くと部屋の外へと踵を返した。
オンス大陸南西部に位置する山岳地帯、ゲルバ。土地のほとんどが原生林に囲まれたなだらかな山々の中腹には一ヵ所、穴が空いたように開けた場所が存在した。
明らかに人の手が加えられたように背の低い草しか生えないその空地に、ポツンと立つ古びた木組みの家。これが彼女の住処だった。
扉から外界へと出た彼女は、すぐに振り返り屋根を見上げた。
「――やっぱり」
視線の先には、板張りの屋根の上に腰掛ける人影。
「リル!」
女がもう一度呼ぶと、影はこちらに気が付いたように振り向いた。
「・・・シェスカ」
肩ほどにまで伸びた金色の髪が、その小さな声とともに風の中を緩やかに流れる。
その正体は、幼い少女だった。彼女は呼びかけに反応するように立ち上がると、その背丈よりもはるかに高い屋根の上から躊躇いなく飛び降りた。
「ちょっ・・・!」
女が驚いて目を細めるのも刹那、少女はまるで羽のようにふわりと着地してみせる。
「っ、危ないじゃないか!」
何事もなかったかのように手やひざについた土汚れを払っている少女に、シェスカと呼ばれた女は目を吊り上げた。
「この間もそうやって降りただろう。屋根に昇り降りする時は梯子をかけろって・・・」
「いらない」
「怪我したことがないからそんなことが言えるんだ!」
不愛想に返事をした少女に、業を煮やしたシェスカは彼女の額を指で弾いた。少女は、やはり抑揚のない表情で少しだけうつむいた。
「ごめんなさい」
その顔色からはどうにも読み取りがたいが、少なくとも反省はしているようだとシェスカは判断した。これ以上怒ってもしょうがないと、彼女はため息をつく。
「・・・次からは、ちゃんと梯子を使うんだぞ」
「ん」
「まったく・・・それで。何してたんだ?」
シェスカの問いかけに、少女はおもむろに空を見上げる。
「あれ」
彼女が指さした先を見たシェスカは、合点がいったようにつぶやいた。
「ああ、あれか」
二人の視線は、はるか頭上の空へ。
薄くかかる雲の隙間から悠々と姿を現したのは、青々とした大空を水平に移動する小さな島だった。
「・・・気になるか?」
「ん」
動じることなく聞くシェスカに、少女は小さくうなずいた。
晴れた日にだけ時折姿を見せるその島は、他に邪魔をするもののない大空を穏やかに遊泳している。
「シェスカ」
「ん?」
「いつからあそこにあるの」
「さあな。あたしが小さい頃はまだ無かったかもしれないけど」
「どうして浮いてるの」
「そんなの、あたしが知るわけないだろう」
突き刺すような視線を向ける少女の問いに対して、シェスカは困ったように手を振り払う。
「・・・そう」
大した返答を得られなかったことに、少女は特に眉を顰めることもなく再び空へと向き直った。
出で立ちも、その正体も、すべてが謎に包まれた謎の島。
少女がそれを青く澄んだ瞳で見つめるのと、時を同じくして。
「――あんた、大丈夫か?」
一人の旅人がふもとの村で行き倒れていたことを彼女が知るのは、もう少し先の話。
リルフェーニ=ランドラウム。
まもなく十三を迎える彼女の物語が、静かに始まる。