第5話 景康
―――主様、そろそろ跋逖殿が戻られる頃かと。
朔夜の隣で、漿果が空を見上げて告げる。
「……ああ」
紫苑を撫でて、朔夜はホッとしたのも束の間、厳しい表情になった。
ゆきのそばにいた董鉄が、ちらっとゆきを見る。
「……?」
ゆきと目があった途端、ふいっと顔をそむけられ、ゆきは彼からあまりいい感情を持たれてないことを感じ取った。
気が付けば、ここにいる全員の視線がゆきに注がれている。
「夏目、悪いな」
と、朔夜は申し訳ないと、謝った。
「……なんで謝るの?」
「いや、なんとなく」
朔夜もまた、ためらうようにゆきから視線を外す。
少しの不安を抱いたゆきを連れて、朔夜は屋敷に足を踏み入れていた。
大きな畳の部屋に連れられたゆきが顔を出すと、すぐ傍に跋逖が姿を現した。
―――今、戻った。
と、跋逖の顔を見て、ゆきはホッとする。
―――吉良の者よ、感謝する。
跋逖は、ゆきの隣にいた朔夜に向かって跪き、頭を下げた。
「鵺様には、会えたのか?」
―――ああ、お陰様で。
ゆっくり立ち上がった跋逖は、手のひらに乗せた光玉をゆきに見せた。
「え………?」
―――もう、逃げられない。
その光は、
ゆっくりと跋逖の手から離れ、
ゆきの額に吸い込まれていった。
脳裏に、一人の剣士の記憶が一気に駆け巡る。
そして。
光に包まれるゆきの姿は、
次第にその剣士の姿に変わっていった―――……。
―――主様、久しぶりでございます。
跋逖はまた、静かに跪き、主を迎えた。
『ああ、跋逖。久しぶりだな』
その姿は、吉良景康。
跋逖の以前の主の姿だった。
袴姿のその主は、ゆきにそっくりであるが、まったく違う。
長い髪が高い位置でひとつに結われ、左右にかかる前髪の下のきりっとした瞳が、静かに閉じられた。
『また、一緒に戦う日々が戻ってきたようだ』
―――………。
景康は、ゆきの身体に入った自分の姿を見た。
『この者が覚醒するその時まで、私が力を貸そう』
―――主様と再び共に過ごせること、心よりうれしく思います。
跋逖は跪いたまま、頭を下げる。
『ああ、跋逖。また、お前と共に―――………』
そう答えた景康の姿が光に包まれたかと思うと、意識を失い、ゆっくりと倒れる。
ゆきの姿に戻ったその身体を、跋逖は優しく支えていた。
* * * * * * * *
「!」
目を覚ましたゆきは、見慣れぬ天井をしばらく見つめていた。
そこは、見知らぬ場所だった。
広い和室の畳の上に敷かれた布団。
障子の向こうはまだ明るい。
体を起こすと、
―――ゆき様。お目覚めになられましたか。
ふすまの向こうから、誰かが声をかけてきた。
「……あなたは?」
ゆきの声に答えるように、障子が開いた。
―――私は、朔夜様の従者。漿果でございます。
青い着物に身を包んだその鬼は、立ち上がり、スッと頭を下げた。
大きな紅い花の刺繍が、青い着物に良く映えていた。
無造作に結われた黒い髪が揺れる。
藍黒い肌である彼女は、同じ種族だと言った跋逖に、確かに似ている。
「さっき、吉良くんと話していた方ね。そうか、吉良くんのおうちだった」
気を失う前のことを思い出し、ゆきは額を抑えた。
跋逖が持っていた光の玉が自分の額に入った途端、吉良景康の記憶がゆきの中に入ってきた。
不思議な感覚だった。
―――目が覚めたか。
また、外から声がして、ゆきは顔を上げる。
あの、大柄な董鉄が、漿果の近くで立ち止まっていた。
―――ゆきちゃん、目が覚めたんだ~。
と、その彼の横からひょこっと逸樹が顔を出す。
―――よかった。主様が安心するね~。
無邪気な笑顔の少年から、逸樹はオオカミの姿になると、ゆきに近づき、その顔をゆきの腕にうずめてきた。
その毛並みが気持ちよくて、ゆきは優しくなでる。
障子の向こうの縁側で、従者の二人がスッと跪いた。
姿を表したのは、黒い着物を着た女性と、朔夜だった。
朔夜は目が覚めたゆきの姿を見ると、ホッと表情が緩んだ。
「ゆきさん、身体はどうですか?」
女性はそっとゆきのそばに座った。
朔夜と似た顔立ちのその女性は、母親、だろうか。
目で促され、朔夜は女性の隣に座った。
「……大方、話は理解されているとは思いますが、私たち吉良一門は、代々、祓い屋家業の一族です。江戸時代の当主、その従者が今、ゆきさんに仕えている跋逖です」
そう言われて、ゆきは跋逖を見上げた。
女性が部屋に入ってきた時、跋逖もゆきのそばに控えるように姿を現していた。
跋逖は表情一つ変えず、
視線はまっすぐ前を見ていて、ゆきに向けられない。
ああ。
と、ゆきは唐突に理解し、感じ取った。
跋逖は自分をこの世界から守りたかったのだと。
「跋逖は、あなたを巻き込みたくなくて、何年もあなたの存在と自分の存在を悟られないようにしていました。鵺様は、ちゃんと理解しておりましたよ。……跋逖は、前の主同等の力の持ち主としか契約できません。したがって、あの、十年前でも今でも、跋逖と契約できるのはゆきさんしかいないのです」
「それは、私が景康さんの力を受け継ぐ器だから、ですか?」
ゆきの言葉に、女性はにっこりと微笑んだ。
「突然、こんな世界に引きずり込む形になってしまい、本当に申し訳ないのですが。ゆきさん。あなたの、その力が必要なのです」
ゆきの表情が曇る。
今、跋逖の気持ちがわかった気がした。
契約の時、言っていた。幼い自分に申し訳なく思って、跋逖は今までできる限りこの世界に近づけないようにしていたのだろう。
血の契約を交わせば、いやでもこの世界と関わってしまう。
鵺様に、見つかってしまう。
ケガをした跋逖を見つけたのも、
朔夜と、あの廻廊で出会ったのも、
きっと偶然ではなかったのだろう。
大きく息を吐き、ゆきはスッと、女性を見据えた。
頬に涙が伝っていく。
これが自分の感情なのか、それとも景康に起因するものなのか、今のゆきにはわからなかった。
「大丈夫です。跋逖と契約を交わしたあの時から今まで、なんとなくわかっていたことが、今日、確実なものになっただけですから」
女性の顔から、笑顔は消えていた。
「……あなたに、朔夜と共に行っていただきたい場所があります」
静かに告げられた言葉に答えることもできず、
ただ、涙が流れていくのを止められない。
「朔夜はもともと、あなたをお守りする役目を鵺様より言い預かっております。これからは、朔夜と共に行動するのがよろしいかと」
「……それは、私も助かります……っ!」
と、ゆきは頷いた。それと同時に、グイっと上半身が引っ張られて驚いた。
ゆきの上半身は、斜め向かいに座っていた朔夜に引き寄せられ、背中をぎゅっと抱きしめられていた。
突然のことに、ゆきは驚き声も出ない。
朔夜の肩越しに見える女性や、障子の向こうの二人の従者も、驚いた顔をしている中で、朔夜の声だけが響いていた。
「大丈夫、俺が力になるから」